4話
──脱走……204が?
施設内アナウンスが何を言っているのか、城崎には一瞬分からなかった。
自分が本を買いに行っている間に少女がドリームボックスから逃走を謀ったと伝えているのだと理解した時、彼の身体は反射的に部屋を飛び出していた。
目いっぱいの全速疾走で駐車場へと向かう。時刻は十八時を回り、外は夕闇に覆われている。
「どけっ」
車で204を追いかけようとする彼を遮ったのは、ショットガン、シールドや防刃チョッキで装備を固めた武装警備員たちだ。
厳つい人員輸送用の小型車が大量の警備員たちを乗せ、次々とゲートを通過して山道へ走っていく。その光景を対岸の火事のように平然と眺めている白衣姿の職員は、駐車場のみならず施設の窓からも何人もいた。皆一様に非常時の緊迫感に浸っている。
警備員たちに混じって、犬人で編成された部隊もいた。
ドーベルマン、シェパードから構成された追跡用の犬人たちは冷徹な面持ちでライフルを携え、走り去っていく。彼女たちは先程の車に搭乗することなく、直に逃亡個体を追うのだろう。ベースとなる犬の種類にもよるが、犬人の身体能力は人間の比にならない。
自衛隊あるいは警察向けの人員補填のために開発された犬人たちである。車よりも迅速で尚かつ閉所での任務や索敵もお手の物だという。
実用試験もかねて、脱走した個体を追わせているのだろう。城崎はぞっとした。あれだけの武装だ。早くこの事態を収束させないと、204の命の保証は出来ない。彼らが出払ったのを見計らって、城崎は自分の車に乗り込むと山道を勢いよく下った。
*
山を下り、城崎は曲がりくねった道の路肩で車を止めて降りる。
ここは一本道ではない。職員たちが車通勤でよく使う本道と呼ばれる道と、その他にもう今では使われなくなって放棄された道があった。
人間の警備員たちは後者側の道には車を寄越していないようで、どうやら先に
「あっ」
城崎はその使われなくなった道を一人散策していると、ふと古びた遊歩道が茂みの中で息を潜めているのを見つけて声が出た。
この一帯はかつて公園や歩道が整備されており、市民の多くも散歩コースとして活用していたが、山頂付近の研究施設──つまりドリームボックスの建設に伴って機密保持の面から一般人の立ち入りは固く禁止された。もう十五年以上昔の事になる。
「そういえば……シロと会っていたのはこの辺だったはず」
幼い頃の一匹の野良犬との記憶が頭に浮かぶ。この山はシロとの思い出の場所だった。
しかし再開発事業という名の研究所建設の誘致によってここは破壊され、元々この山に住み着いていた野良犬や猫たちは野生動物たちは壊滅した。
何の因果だろうか。目の前に見える遊歩道はあの頃、頻繁に遊んでいた公園への近道として、かつての城崎が歩いていた道だった。
彼の目には幼い背中が大人の自分を招いているかのようにも見えた。
木々のざわめき、微かな虫の声。本格的に日が落ちる前に彼女を確保すべく、城崎は心中の懐かしい気持ちを抑えながら小走りで進んだ。
*
道中に一定間隔に設置されている外灯はとっくに電力供給が途切れて、機能していなかった。
車に積んでいた懐中電灯を片手に、雑草が生い茂る道の奥へ奥へと進む。すると記憶に間違いはなかったようで、あの頃よく訪れていた小さな公園に辿り着いた。
汗ばむ額を拭う。日が落ち始め、暗いシルエットとなりつつある遊具たち。遠くからの橙色の夕日は紫を帯びている。小さな時計台、ジャングルジム、滑り台。それから水飲み場、公衆トイレが目に入る。思い出の中の景色と目の前の現実は何一つ変化なく、色褪せていない。
ブランコが視界に入ったところでそこで視線を止めた。204がそこにいたからだ。
犬人の反応速度なら、城崎が公園に足を踏み入れたこともとっくに気づいていそうなのだが、少女は
ブランコの鎖がきいきいと揺れ、少女の足が地面とゆっくりと擦れる音が聞こえる。
ぶら下がる鎖を掴めばすぐにでも止まってしまいそうな、ただ座っているだけの彼女へ声を張る。
「204!」
少女は顔を上げた。逃げようとはしなかったが、明らかに敵意を差し向けているのは分かった。
「怪我は?」
「……またお前か」
「ああ。また僕だ」
「帰れ」
「武装した警備部隊の連中が君を探している。早く施設に戻ろう。僕が上にかけあって君の処罰を軽くできるかもしれないし」
「信用しない」
204は顔を背けてブランコから腰を上げた。彼女は裸足だった。ここまで降りてくる途中で擦りむいたりして怪我をしたのか、足は乾いた血で染まっている。
「信用してほしい。これでも君の担当だ。君を庇うことは僕にとっても利がある」
「黙れっ。ならどうして本を没収した?あれだけが……本だけが私をあそこから救ってくれたのに!」
ざりっと少女が地面を踏み込む。どうも本の強制没収がこの脱走の決め手になってしまったらしい。
城崎は自分の対応があまりに急だったことを反省していたので、これを機会に謝罪することにした。予め持ってきていた『星の王子さま』が入った紙袋を彼女にあげる素振りをとる。
「悪かったと思ってる。だから、ほら」
「……なんだ?」
「本。君が一番大事そうにしてた本があっただろ?あの後、迷ったんだが本屋で買ってきた。お詫びにあげようかなって。いざ戻ってきたら、君が脱走してただなんて想定外だったけど」
「まさか私にくれるのか?」
少女は全身の力を少しだけ緩め、拍子抜けたように薄く笑う。
「だからそう言ってるだろ」
「変な奴……」
「余計なお世話だな。これも仕事だ」
「先に言っとくけど、物で私を釣るつもりなら無駄だぞ」
「はははは。これだけで君と仲良くできるだなんて馬鹿なこと考えちゃいないさ」
今度は城崎が笑う番だった。彼にとって、204のその意見はご最もな意見だったからだ。
人が物を相手に贈与する時、相手への関心よりも自身の胸の内に秘めた
けれど、決してそれだけではないことも城崎の心中では紛れもない事実だった。
「本一冊で君を懐柔できるとは思ってない。どうせ君の処分まで一年は待つ。気長にやるさ」
そう言って城崎が彼女に本を渡そうと近づいたところで、付近から軽い銃声が放たれた。
無論、音だけでなく本物の弾丸も。それは城崎と204のちょうど境目の足元に着弾する。二発目、三発目はそれぞれ204の右太ももと脇腹を掠めた。
「あっ。く──いっ!痛っ!」
「大丈夫かっ?おい、しっかりしろ!」
城崎は、その場で倒れる204へ駆け寄って介抱する。座学で習った通りに患部を慎重に把握する。幸運にも直撃はしていないようだが、擦過傷の範疇を超えた傷口からは流血が止まらなかった。彼は着ていた白衣を脱ぎ、それで少女の患部を保護した。
上から被さるように彼女を守り、周囲を素早く見回す。
「誰だ!止めろ、彼女は抵抗する気はないっ」
どこにいるか分からない銃声の主へと声を投げると、消音器を搭載した二十二口径ライフルの銃身が薄闇に包まれた公園と山とを隔てる草木の茂みから次々にぬっと姿を現した。
公園全体を囲んではいないようだが、五人もの武装警備員が城崎とその下にいる204へ躊躇いもなく銃を向けていた。
第二射が来るかもしれない。城崎は、鼓動が波を打つ間隔が段々と狭まってくるのを久しく身体全体で感じた。
彼等が厳命されているのは実験個体の生け捕りか、それとも確実な逃亡阻止か──。
城崎は咄嗟に、首に提げていた職員証を掲げた。
「自分はドリームボックス南棟、犬人研究員の城崎だ。銃を下げろ!これ以上の実験個体への攻撃は不要だっ。医療班を呼べ!手当を!」
武装警備員たちはお互い少し顔を見合わせて何か確認したように銃を下げ、城崎へ敬礼した。
「大変失礼しました。ご協力感謝致します」
リーダーと思わしき中央の一人が出てきてヘルメットのゴーグルを上げて、城崎へ淡々とした口調で言った。
警備員は犬人で構成された部隊だった。ヘルメットが頭部の犬耳を保護するために既存の物より僅かに盛り上がっていた。
「……ドリームボックスの犬人医療班に通達。現在こちらに急行中。実験個体204の止血、拘束と護送は我々が行います。事情聴取がありますので城崎さんは先に施設へお戻り下さい」
名乗ることもなくリーダー格の彼女は事務的に言った。皮肉なことに、警備員たちもみんなF型の少女だった。
彼女たちの氷のように冷たい凍てついた青い瞳は、何の感情も読み取れない。
城崎はドリームボックスに勤務して間もない時に暇つぶしで読んだ犬人に関する論文の内容が、頭の中で早送りのスライドショーのように再生された。
『犬人には自我・意識あるいは
その一文をやけに鮮明に記憶していた。そしてその文が持つ意味が視界にいる警備員の犬人たちを見る目を変えようとしたその瞬間、彼の身体の下にいる一匹の犬人の少女が大きな声で威嚇するように叫んだ。
「おいっ。もう止めろ204!血が……!」
庇うように被さる城崎と、応急処置で鮮血に染まった彼の白衣をなぎ払った204。彼女は闘争本能を漲らせ、尚も抵抗を続けようと警備員の犬人たちへと迫った。
「早く逃げてください城崎さんっ。総員、構え。近接戦闘っ」
「了解!」
リーダー格の犬人は、F型なので204と同じ声をしていた。各員への指示は芯があり通る声だが、やけに感情の抑揚に欠けたものだった。
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