3話

 翌日、問題となっている書籍の件を問いただすべく、城崎は出勤早々に南棟の端にある204の個室まで行った。

 ドアをノックすると、寝起きで機嫌の悪そうな少女は扉についている小さな窓越しに懐疑的な視線を城崎に送った。扉を開ける気はないらしい。


「おはよう。眠れた?少し話があるんだけど」


 直後、ばんっと扉の軋む鈍い悲鳴がする。彼女が扉を蹴ってきたのだ。小窓もカーテンで遮られてしまい、廊下から覗きこむことは出来なくなった。

 「帰れ」とでも言いたげな反応だ。ここで舐められては彼女との関係など何年かかっても無理だと確信したので、諦めず続ける。


「204、準備ができたらで構わないからな。ここで待ってるから」


 そう言ってその場に腰を下ろし、扉に背中を預ける。周りには誰もいない。紛れもなくここは犬人研究を担う南棟で、仮にも観察対象の個体が生活する部屋だというのに誰も寄りつかなかった。

 それはひとえに彼女が失敗作だったから。F型少女と呼ばれるサンプルの人間の少女の遺伝子、それと柴犬を主にその他何匹かの犬をベースに掛け合わせ、あばら液から製造された彼女は、200番シリーズの四番目として約一年ほど前の製造計画で期待されて生まれた個体だ。

 けれど、本人は高い攻撃性と非社交的な性格を有しており、ドリームボックス内でも数々の騒動を起こしている。要は超がつくほどの問題児だった。

 城崎以外にも何人かが先に担当に抜擢されており、実際に彼女とコンタクトを図ったそうだが、いずれも満足な状態に至らなかったとの事だ。曰く「雑種だから」だそうだ。現に204を反面教師として、ここ一年は雑種の実験個体は一体たりとも製造されていない。


 耳を澄ますが何も聞こえない。それだけこの辺は人が立ち寄らない区域なのが分かる。

 他の優良な実験個体たちが生活するエリアとは大分隔てられており、ここは彼女のための独居房と形容しても間違いはなかった。


 でも、彼女は何故か引きこもりにはならない。犬譲りの本能なのだろうか……。


 人と接したくない彼女からすればこの空間は実に頼もしい砦であるはずだ。

 だが昨日の彼女は人目を回避している筈なのに屋上やこの部屋ではなく、中庭で一日の大半を過ごそうとしていた節があった。城崎にはそこが腑に落ちなかった。


「ん。これは……」


 扉の横に固定されているやや大きい壁掛けのボックスが目に入る。ポストか何かだろうか。だが彼女に連絡事項がある時は職員がするだろうし、彼女に手紙を書いてくれる友人がドリームボックス内にいるようには思えない。

 暇を持て余していた城崎は、それが何のためのものだろう、と気になりボックスに手を触れて蓋を開けてみる。


「あ、これは」


 収められていた中身を物色しながら彼が独りで納得していると、扉が勢いよく開いて部屋の住民である204が出てきた。

 城崎がそちらに再度挨拶をするよりも遥かに早く、少女は彼の腕に強く掴みかかってくる。


「やっと出てきたね」


 研究員用の白衣に少女の爪が食い込んでくる。辛うじて涼しい表情と冷静さを装ってこそいたが、激痛だった。


「……離して」

「それは僕の台詞だ。いい加減痛いぞ」

「離せ。返せ」

「これのこと?でも残念、これは僕のだ」

「違う」


 城崎はもう片方の手で灰色の紙箱を宙に掲げ、少女を挑発する。それは一日分の犬人用糧食スプラット・ビスケットだった。

 例のボックスは封筒や手紙などの紙媒体を投函するために設置さたものではなく、少女が日頃食べている糧食を職員が入れるためのものだった。昨日彼女が屋上で食していた物である。


 これについての話も資料も204担当の自分の耳に入っていないことを鑑みるに、この食物の配達は研究以外の雑用をする他の誰かが仕事ついでに行っているのだろうと城崎は憶測を立てるが、今はそれどころではない。

 204は糧食を城崎に奪われたと思って怒っている様子だ。しかし丁度いいタイミングなので、彼は今の状況を逆手に話を進める。


「204、これは僕のだぞ」

「違うっ。私の!」

「駄目だね。今これは僕が持ってるんだから、占有権はこっちにある」

「そんなの間違ってる……それ、それは私のだから……返してよ……!」

「いや、駄目だ」

「このっ──」


 掴まれる手の力から彼女の身体全体に闘争心が湧き返っているのを感じても、城崎はさも平静に諭す。だが、首に手をかけられてきつく締められた。

 喉仏が上下して一気に息苦しさを覚える。彼から頭二つ分ほど視界の下にいる少女は本気のようで、意味ありげな薄暗い微笑を浮かべている。


「僕を殺す気か?」

「試す?」

「そうしたいなら勝手にな」


 少女は不敵な微笑みから無表情に戻り、城崎の首を締めたまま彼の身体を持ち上げようと腕力に任せて手の拘束を更に強めてくる。


「返せば離すよ」

「嫌だね」

「へぇ。よっぽど死にたいんだ」

「僕を殺したが最後、君は即殺処分だろうね」


 204はぴくりと頭の犬耳を動かした。


「それにだ。一年なんて悠長なおあずけを待つほど、ここの人間は暇じゃないだろうけどな……っ」


 つま先立ちで辛うじて足に床の冷たく固いタイルの感触を確かめても、呼吸が出来ずに意識が飛びそうだった。城崎はもう喋れなかった。


「かっ……っはぁっ。はっ」

「……あー!もう、うるさい!さっきからお前、理不尽なんだけど?何なの一体っ!?お願いだからそのビスケット私に返してよ……!」


 過去最高に饒舌じょうぜつになる少女に、城崎はぎょっとする。ここまで長文に話しているところは見たこともないし、報告にもなかったからだ。


 ──この子、言語能力の低さが問題視されていたはずでは?


 そう思った矢先、床に放り投げられた。息を整える間もなく少女が追撃してくるかと思って身構えるが、204はというと、あろうことか膝から崩れて泣き始めてしまった。

 城崎は何も言えずに瞬きする。


 彼女はせきを切ったように、ドリームボックスでの扱いで溜まったストレスを全て吐き出すように、大きな声で子供っぽい泣き声を廊下に響き渡らせていた。

 呼吸の乱れを直す研究員、泣きじゃくる犬人。それぞれが少々落ち着きを取り戻した頃、前者が優しい語調で相手に声をかける。


「げほっ……意地悪して悪かったよ。にしても君、ちゃんと話せるじゃないか」

「返せ……うぅっ。返せ……」

「分かった。返すから」


 糧食を手渡すと犬人はそれを奪うように取り、研究員の腕から離れる。

 そのまま自室に戻ろうとする少女の肩に手を置いて城崎は制止する。


「待ってくれ!なにも意地悪しに来たわけじゃないっ。話は終わってないんだ」

「まだ、まだなにかあるの……?」


 少女の身体から恐怖と不安で強ばっているのが伝わってきたので、城崎は努めて丁寧に子供をあやすように語りかける。


「僕にビスケットを盗られた時、どんな風に感じた?」

「どんなって……その、えっ。怖かったし、悔しかった……けど」

「そうか」

「それが何?」

「本を君に奪われてしまった人も、きっと同じ気持ちだと思うんだ」


 これまで会話の論点を上手く呑み込めていない様子の204だったが、城崎の言いたいことを察知したのたか途端に目を見開いて、ぶんぶんと素早く首を横に振った。


「だ、ダメ!本、本は私のだからっ!」

「何冊盗んだ?盗みは犯罪だぞ」

「ダメ!」

「本の持ち主が悲しんでるぞ?さっきの君みたいに。それでもいいんだな?」

「ち、ちが……!でも、ダメ……っ!」

「……駄目なのは君の行いだ。今なら僕から図書室の人間に謝ってあげよう。だから本を返して。あと、量も量だし運ぶのを手伝ってくれないか?」


 問答無用で城崎は204の部屋に入り、室内の書籍を全て回収していく。その間、彼の背後からは少女の憤りと不満が入り混じった唸り声が聞こえた。


「僕を殺したいのなら好きにしろ。その後の君がどうなるかは忠告したつもりだ」



 図書室管理室の室長に諸々の事情の説明をし、監督責任者である城崎は、本たちの返却と同時に深々と頭を下げた。

 研究員にもなって、こんな人の親みたいなことをするだなんて彼は夢にも思ってなかった。


 ドリームボックス内には科学技術以外にも文化人類学や歴史学の研究機関があり、貴重な書籍ばかりだが中には一般的な文学書も多数備えている。

 基本的にはこの図書室は全職員が自由に使えるのだが、犬人の出入りは禁止しており、貸し出しも受け付けていなかった。

 204は最後まで一冊の本に固執していた。これまで盗んでいた本を順に台車へと載せてる最中も、その本だけは我が子を守るように抱いていた。城崎はそれを渡すよう迫った。少女は従ったが、表情は苦痛に満ちていて、本を渡すなり泣きながら退室していってしまった。


 室長に同情らしき頷きをされ、城崎は少女の背中を追いかけながらその場を後にする。犬人という理由だけで本も満足に読まして貰えない彼女にこそ同情すべきだろう、と立場上、吐き捨てられない一丁前の台詞だけを胸の内に抑えて。


 その日、少女は自室から出てこず何度声をかけても無反応だった。しばらく朝の時のように扉の前で待っていたりもしたが、かの天照アマテラスよりもずっと手強く籠城していた。

 結局、どうしようもなくなった城崎は、自分のデスクに戻って今回の始末書と今日分の報告書をしたためることに没頭し一日を終えた。



 ──僕は何をしてるんだ?


 ドリームボックスから帰宅して街中まで降りてきた彼の車は、何故か自宅ではなく自然と近場の本屋に直行していた。

 ふらっと本屋に立ち寄る柄ではないし、年間に何冊も読書するほど城崎は文化人でもなかった。なので自分がどうして本屋にいるかは彼自身が最も理解しているし、大変驚かされた。


 ──正しいことをしたまでだ。図書管理室の人間が本が返ってこなくて困っているから、彼女に本を返すよう促して、なんなら僕が代わりに謝った。僕は、なにひとつ間違っちゃいないんだ。


 そうやって正論を木霊させながらも、無事入店してしまった彼は犬人の少女が読んでいた本がないかすっかり血眼で探していた。


 ──こんなの買い与えたって、ドリームボックスから経費は落ちないぞ。こいつは自腹なんだぞ、分かってるのか?


「こちら一点で、お会計千八百円になります」


 時すでに遅し。気づいた時にはレジまでお目当ての本を運んでいて、固いはずの財布の紐も溶けたように緩んでいた。

 店から出て重い足取りで車に乗った城崎は、今度こそ家まで帰ろうと道に出るが、あろうことかドリームボックスまで戻ろうとしている自分がいて失笑した。


 仕事とプライベートはきちんと分けたかったし、業務時間外で職場への山中の長い道のりを登るだなんて考えたくもなかった。しかしそれでも、彼女には代わりの本を与えなければならないという妙な使命感が彼の中にはあった。



「204」

 

 ドリームボックスに着いた城崎は、少女の自室の扉をノックするも、無論返事はなかった。

 彼女からすれば、城崎は未だ脅威度の高い敵の一人なのだろう。もしかしたら今回の件で昨日よりも厄介な憎悪を差し向けられているかもしれない。


「今日は色々悪かった。謝るよ。急におしかけられて、ちょっかい出されて、本まで奪われちゃ嫌になるよな。ごめん。少し急ぎ過ぎたよ」


 年端もいかない少女には、大人や人間たちの都合で物事が回る現実があまりに残酷に思えるのも無理はなかった。

 彼女が誰からも相手にされず、孤立していたのも元はと言えば、研究員たちが彼女に出来損ないの印を身勝手に押して遠ざけていたからだ。

 一人で過ごさざるを得ないので仕方なく本を読もうにも、それすら我々にとがめられてしまっては彼女は立ち行かなくなる。


「そのさ、だから……全部ってわけにはいかないけど、君が大事にしてた一冊ぐらいならあげてもいいかなって思って。ここに置いとくぞ。君へのお詫び。だからこれはもう君の、君だけの物だ」


 職場なので念のため着用していた白衣の襟を正し、扉の前に紙袋に包まれた本を置く。

 本はサン=テグジュペリの名著『星の王子さま』だ。日本語訳者も図書室の物と揃えているので文句は言われないはずだ。

 部屋の中からの反応はなかった。不審に思い、城崎は本を拾ってドアノブに手をかける。鍵はかかっておらず、室内には204の姿はなかった。

 どこに行ったのだろうか。そう半ば途方に暮れていると、施設内に警戒を告げるサイレンが鳴り響いた。驚いて彼は天井を仰いだ。静寂さが常なるこのドリームボックスにおいて、このサイレンは本当の非常事態を報せる音だった。


 火災か、侵入者か、それとも……。


『皆様にお知らせします。ただいま、南棟より脱走した個体が確認されました。個体数一体。F型、柴犬ベースの白い雑種個体。識別番号204。警備員は直ちに所定の行動を──』

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