58話

 朝から冷え込む大晦日。一部の職員を除き、ほぼすべての研究員たちは職場に興味すら抱かない中で、城崎は南棟の犬人用の独房に訪れていた。

 秋の試験は完了したので、合格した優良な個体群のデータをまとめて今年分の論文を作成する仕事があるが、その仕事量に辟易とした同期の人間は誰も取りかかろうとはしなかった。それを進めるという口実を盾に、城崎は飼い犬に面会しに来ていたのである。


 南棟の地下階のそこに足を運ぶのは、今年の四月以降初めてのことだった。堅牢な特殊合金の檻が並ぶその地下牢は、凶暴で手がつけられなかったり、あるいは問題行動を起こした犬人の中でも特に危険な個体を一時的に抑制するために使用するもので、かつては城崎の飼い犬も十日間ほど拘留されたことがあった。

 コツコツと分厚いコンクリートの無機質な床を歩き、曲がり角を曲がる。すると、そこに伸びる一本道の最奥に位置する牢屋から、彼の足音に反応するように格子を揺らす金属の音がしてきた。


「おはよう……元気そうだね。小春」


 格子を挟んで、城崎は牢の中の飼い犬に挨拶を投げた。犬──小春は、飼い主に会えた嬉しさを全身で爆発させている。


「うんっ。おはよ、しろさき!私いつだって元気だよっ」

「……そうか」


 にっこりと微笑む小春の姿を近くで見ることができて、城崎は安堵で笑顔を返した。しかし彼の内側では泥のような不安感が果てなく渦巻いていた。

 クリスマスイヴでの脱走デートで発生した予想外の出来事により、小春はまたこの地下牢に閉じ込められることになっていた。予想外の出来事というのは、城崎にとって主に二つあった。

 ひとつは無論、小春の脱走が施設側に発覚してしまったことだ。しかも後から聞くと、その事態を察知したのは能登谷だったらしい。これには城崎も首を捻らせた。能登谷が普段からあの時間まで残ることが多々あるのは城崎も認知していたが、あの上司は飄々とした昼行灯という印象が強い。仕事には不真面目そうであるし、処分が決定され、犬人のデータ採取にしては不適格なはずの小春の記録をあの夜遅くに取ろうとしたこと自体がまず不自然だった。

 彼は自分はさして仕事がないタイミングなのに、書類の山を部下たちに運ばせるような男だ。その彼が、小春のデータ採取という新人の城崎が押し付けられるような雑事をわざわざ直接こなす必要がどこにあるのだろうか。


 もうひとつは、飼い主が提案した逃避行を小春が拒否したことである。ドリームボックスにいれば、来年の三月にある殺処分という絶望的な未来しか待っていない。

 そこで城崎は、運良く小春と脱走することができた──あのクリスマスイヴに、このまま戻らずにどこか遠くへ逃げることを提言したのだが、彼女は最後まで施設に戻る選択を強いてきた。そしてその理由は依然として彼女からは明かされていない。

 あの後、城崎は名古屋からドリームボックスまで車を走らせ、目撃者が出ないうちに小春を車から降ろした。彼女は独りで施設がある山を上がり、捜索する職員に投降して今に至る。


「あれ?しろさき、顔色わるいよ?どうかしたの?だいじょーぶ?」


 小春が格子越しに心配そうな目で見つめてきたので、城崎は空咳をして、自身の顔面に必死に笑顔を貼りつける。犬は人の体や心の不調を汲み取る能力が人間よりも鋭いと言われている。犬人にもその力があるのかもしれない。


「なんでもないさ。ここ、照明が暗いからそう見えたんじゃないか」


 飼い犬の救出という使命。その重い課題に、城崎は既に精根尽き果て、心身ともに疲労とストレスが蓄積していた。それでも尚、彼は残りの時間でどうにかして小春を救い出す方法を考えていた。しかしこんな状況に陥ってしまった以上──突破口は絶無だった。

 独房での謹慎期間は、今のところ未定であり、上からの話があるまでいつ終わるかは分からなかった。もしかしたら、処分決行の三月十五日まで収容されることになるかもしれない。

 そうなれば脱走は無理だろう。この対犬人用の合金製の牢屋は小春の怪力でも破壊できないし、彼女の首輪から垂れた強化ワイヤーも断ち切る手段はない。職員の城崎でも、この牢の鍵までは入手できそうになかった。


 疲れを感じ、城崎は壁際に置いてある簡素な椅子を移動させ、格子に近寄せてそこに腰を下ろす。


「ねっ。ね!しろさき、今日はここにいつまでいられるのっ?ずっといってくれる?」


 興奮気味な小春は格子の隙間から外に伸ばしてくる。城崎は華奢で可愛らしいその手を優しく握った。飼い犬のことを抱きしめたい衝動に駆られながらも、彼女には明るい素振りだけを見せる。


「今日は午後三時ぐらいまでかな。年末だから職員は早く帰るよう言われてて……わるいな」

「そっか……ううん、いいの。しろさきが謝ることじゃないもん」


 そう言いながらも、小春は肩と尻尾をしゅんと下げた。彼女も椅子を格子ぎりぎりに寄せてそこに座る。再び飼い主のいる牢の外へ手を出し、彼の指と自分のそれをしっかりと絡ませた。城崎は気を紛らわせるようにその指を優しく揉んだ。


「……年越し、一緒にいられないな」

「だからしろさきのせいじゃないよ?私の部屋にいたとしても、施設が閉まるなら同じことでしょ」

「あの時、やっぱり君を無理にでも連れて逃げていればこんなことには──」

「しろさき」


 飼い主の後悔の言葉を遮って、小春が彼の名前を短く呼んだ。それ以上は口にするなと言いたいのだろう。城崎は黙った。一人と一匹の間に微かな沈黙が差す。

 城崎は手を離し、それを牢の中に入れて、彼女の白髪をゆったりとした手つきで撫でた。


「……この前は悪いことをした。ごめん」

「何のこと?」

「君に手をあげたことだよ。ぶったじゃないか、僕は君のこと」


 きょとんしていた小春だったが、そこまで言われてから、当時のことを思い出した様子で自分の左頬に手を当てた。犬人には大したダメージにはならなかったのだろう。


「いいの。本で読んだことあるもん。犬のしつけって暴力も必要なんでしょ?」


 小春はちらりと牢の奥のベッドに目を走らせた。城崎はその視線を追ってそちらに目を向ける。ベッド脇には、デートの際に城崎が彼女に買い与えた書籍が積まれていた。それらはほぼ全てが動物行動学に関する古い本で、犬に関する物が大多数を占めている。

 彼女は、城崎と会えない時間に自分自身の事を勉強していたのかもしれない。だが飼い主の方は慌てた様子で彼女の手を軽く引っ張った。


「いいやそんなことはないっ。そんなの間違った情報だ。犬は、犬人とは違って言葉はたしかに人間より分からないかもしれない。だから問題行動を起こす犬は身体で教えるしかないとか……そう書く本は多いし、昔はそれが正解だと思われてたんだが……僕は違うと思ってるよ。どんな時だって、犬を叩くことはしちゃ駄目だ」

「じゃあなんで私をぶったの?」


 小春のその質問に、城崎は罪悪感で吐き気を催した。項垂れるような姿勢で彼女に辛うじて答えようと、鈍くなった口を動かす。


「……そう、だから僕は……僕が小春に対して暴力を使ってまで言うことを聞かせようとしたことを悔いてるんだ。ごめん。本当に悪かったと思ってる」

「しろさきはさ、シロのこともぶったことあるの?」

「え?」

「シロだよ。しろさきの……元愛犬の」


 小春は口を尖らせた口調で、すねたように目を逸らして飼い主に訊ねた。

 記憶を辿る。城崎は押し黙りそうになるも、首を横に振った。


「ない」

「ふぅん」


 小春は寂しそうに手を牢屋の中に引いた。彼女の気持ちは城崎には痛いほど分かっていた。野良犬のシロが犬として可愛がられていたのに対し、自分は犬として扱われていないことが不服だったのだろう。

 しかし、城崎がシロの代わりを小春に担わせる訳にはいかないと判断したのと同じで、犬と犬人は表層的には非常に似通っているが根本的には全く違う存在なのである。犬は犬人になれないし、犬人は犬の役目を果たせたとしても、犬そのものには決してなれない。


「小春。僕は君のことが……」

「いいの、しろさき。無理しないで?私はあなたが幸せになれるならどんなことだってするつもりだよ。だからね、しろさきが望むなら──」


 彼女は椅子から床に座り直すと、改めて飼い主に手を差し出した。


「私……今日からシロになってもいいよ」


 城崎はごくりと息を呑んだ。その「お手」の仕草は、幼い頃の記憶の中に生きるシロと酷似していたのだ。

 僅かに首を傾げて飼い主の反応を見る動作も、掲げるように高く上げた右腕とその小さな手も、にぱっと屈託なく笑う顔や細かく調整するように動く耳、更には品もなく激しく暴れる尻尾も、女の子柔らかな雰囲気さえも……何もかも。

 檻さえなければ、彼女のことを抱き上げて力いっぱいに愛でたかった。彼女の名前を大声で呼びながら、再会の喜びを分かち合いたかったが、城崎はすんでのところでその欲求を抑え込み、彼女の──小春の手に触れた。


「小春っ。いいんだ。もうやめてくれ。シロはな、もう死んだ犬なんだ。亡骸こそ見てないが……。この世にはとっくにいないんだ。君にその代役だなんて……。それに、君が前に言ったじゃないか。代わりなんてつくらないでほしいって」


 波打ち際から海へと波が還るように、小春の顔から無垢な笑みが去っていく。


「……私で終わりにしてほしいって言っただけだよ?」


 久しく小春が舌打ちした。そこには敵意も殺意も、蔑む気持ちさえ宿っていなかった。ただ、ひたすらに眼前の人物に対する偏愛と悲哀の念が込められていた。


「ね……あなたは私のどこが好きなの?」


 彼女は越えられない隔たりを境に、独り言のように呟いた。


「私が……耳と尻尾を生やした犬だから、好きになったんでしょ。私自身のことなんてどうでもいいんでしょ?あのね、怒ってないんだよ?それで私はいいから。別にいいの。あなたが幸せなら私は大丈夫だよ。私のことを代わりにしてくれていい。他の女の子のことを私に重ね合わせて愛することが幸せなら……いいよ──」


 一呼吸置いて、彼女は語りを続ける。


「……でも私をシロとして見てくれないってことは、あなたの心の中の女の子は……犬は、その子だけってことなんだよね?」

「おい、それは違──」

「違わないよ」


 彼女は檻を蹴った。ガシャンと音を立てて、合金の格子が細かく小刻みに揺れ、空気を振動させる。そして彼女は続けざまに右手を背に回して自分の尻尾を握った。左手は頭上の耳にある。


「違うって言ってくれるんだね……それは本当に嬉しいよ。でもね?なら──私がここで耳と尻尾をちぎったら?あなた、犬人じゃなくなった私のことを好きでいてくれる?私を……私として好きでいられる?」


 彼女の充血しきった目からは大粒の涙が落ちて、古びたコンクリートの床の上を暗く染めていた。

 一人と一匹の間には地下の静けさが伝わる。少女は涙を拭って、床から立ち上がった。彼女は気持ちよさそうに嘲笑していた。


「……答えられないなら、今すぐ帰ってよ。二度とここに来ないで」

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