1話

 “イヌの愛好者には、つらい経験を味わったために人間を信頼する気持ちをなくし、動物たちに慰めを見出す、特別に不幸な部類の人びとがいる”


 ──コンラート・ローレンツ『人イヌにあう』



「シロっ!」


 城崎しろさきは自分の声に驚いて飛び起きた。鼓動の早まり。額と項には汗の感覚。大きく息を吐き、彼は「なんだ」とだけ呟いた。

 ベッドから重い身体を起こして立ち上がる。カーテンを開き、窓を開けると、外は夢の中で見た光景と同じように桜色で染まっていた。小鳥の鳴き声が耳に入り、春の陽気が風で運ばれてくる。


 夢。幼い頃の断片的な思い出の数々。その犬を見たのはあれが最後だった。もう十数年も前の話だ。いずれにせよ既に亡き犬だろう。


 ──何故こんな夢を見る?


 今日から犬に関する新しい仕事が自分を待っているからなのか。

 城崎は街並みを見下ろしながら、ぼんやりとあの頃と今後について思いを巡らす。その後何分か経ってもベッドにある目覚まし時計のアラームが鳴らないことに気づき、嫌な予感がして時刻を確かめると、彼は大慌てで身支度に取りかかった。


 無事にいつも通りの時間に家を出て、市内にある山中の道路を車で走る。その最中も視界が桜で埋もれていた。四月上旬とあってか満開だ。

 道なりに進んでいくと、道路脇の木々が開けた広大な土地に辿り着く。そこには工場を彷彿ほうふつとさせる無機質な外観をした数棟の建造物が連立しており、それらをフェンスで囲って、出入口には警備員常駐のゲートが見える。


 ゲートへと車を進ませてサイドガラスを下げ、警備員の中年男性に職員証を提示する。

 顔写真と比較の一瞥があってから、「どうぞお進み下さい」と告げられると、前方にある重厚な進入阻止用のバリケードポールたちが道路へと沈んだ。いつも停めている駐車場まで走らせている間にも、この一連の出勤に慣れないことに城崎はため息を零した。

 無理もない。ここは愛知県の山奥深くに位置するここは高等技術研究施設──通称ドリームボックス。国内最高レベルの多様な分野の新技術に関する研究が一堂に会する場所であり、公にはされていない次世代のテクノロジーで溢れている。故に警備や報道規制には抜かりがなかった。

 ドリームボックスという名前が通っているが、内情は恐ろしいモノばかりで、城崎もその片棒を担いでしまっている。彼の場合、それは『犬人』というジャンルだった。彼は新人だが、今日から一体の犬人を任されることになっていた。


 関係者からドリームボックスに着いたら南棟の応接室に来るように、と駐車場で車から降りて直ぐに携帯端末へ電話が入った。城崎は着替えのためにロッカーに立ち寄るが、早歩きで落ち着いて急ぐ。

 玄関で職員証をかざし、施設内へ入る。研究施設内は病院と同じく白を基調とした壁と、白衣をまとった研究員たちで無個性に明るみを帯びている。この南棟は犬人研究のエリアだ。


「城崎か。おはよう」

「おはよう」


 いつものように廊下で井戸端会議っぽく立ち話している同僚から怪訝けげんそうな挨拶を投げかけられた。

 例の犬人の観察と教育という無理難題を任されてしまったことに対して同情しているのか、そうでなければ嘲笑っているかのどちらかだ。それは多分、後者だった。城崎はにやりともせず、目的地へ向かった。



「失礼します」


 呼び出された応接室に入ると何人かの職員が一斉に視線を城崎へ差し向ける。丁寧な掃除が行き届いているべきそこでは花瓶が割れていて、床の豪華絢爛な絨毯はすっかりびしょ濡れだ。インテリアらしき小物もごたごたとその上に落ちている。


 部屋の隅には、一人の犬人の少女が鉄パイプの折りたたみ式の椅子に座っていた。例の犬人──不良品の印を押されて、今日に至るまで誰からも相手にされず、放置されていた少女。


 少女は怯えるように何かを両腕に抱えて、部屋の人間たちを睨んでいた。犬の険しい目つきを見て、シロの事が城崎の脳裏によぎった。


 その少女こそ自分が担当することになる犬人だとひと目で理解できた。どこか彼女シロに似ていたからかもしれない。

 単純に少女の犬の遺伝子がシロと同じで柴犬を基礎にした「雑種」だったからと言われればそれまでだが、彼には不思議と巡り合わせのように思えて仕方なかった。

 呆然としていたところから我に返り、一番近くにいる眼鏡をかけた初老の職員に切り出す。


「そちらの──実験個体204の教育担当になった城崎です。本日から仕事に入るよう言われて来たのですが……」

「ああ、君かぁ……城崎くんって。よく来たね、うん。ちょうどいい時に来てくれた。もう手がつけられんのだよ我々では。そちらに座りなさい」


 勧められるがまま下座の一人用ソファに腰掛けると、少女204が近くの椅子を乱暴に蹴りつけた。


 鉄製の椅子が弾け飛び、壁に叩きつけられる爆音が炸裂する。城崎への威嚇だ。その音で、先程の初老の職員をはじめとする関係者たちが腰を抜かして悲鳴を上げた。


「城崎くん……204はずっとこんな調子なんだよ。あれかな、精神疾患ってやつかね?やっぱり雑種なんて作るもんじゃないね」

「……知りませんよ。精神科医ならドリームボックスにもいるでしょう」

「そんな無責任に言わないでくれ。とにかく、この個体の今後の管理は君に任せたからね。分かったかね?」

「具体的な期間を教えてもらえると大変助かるのですが」

「それは分からん。政府も上層部も200番台の製造を考えあぐねててね。とにかく一年でなんとか話はまとめてみせる。それまで君はこの204番の観察によるデータ採取と、可能であれば気性の温厚化を──」


 この冗長で信用に欠けるであろう職員の話を一言でまとめるとこうだ。「204は凶暴で誰も飼いたくないから、上で話が決まるまでお前が飼え」である。

 臭いものに蓋をして、新人に擦り付け。城崎は職場の腐敗具合に舌打ちしたくなったが、当の彼はシロの姿を思い起こさせる204にすっかり魅了されていたので、そんなことはどうでも良かった。


「承知しました。ではこれで自分は失礼します。204、行こう」


 命ずるように言うと、少女は不服そうではあるが椅子から腰を上げておずおずとついてきた。



 犬人いぬびと──それはドリームボックスが造り上げた最低最悪の代物。

 2000年代初頭にヒトゲノム──つまり、人間の設計図たる遺伝子のコードが完璧に解明されてデジタル化したその時から、人はヒトでいることを忘れてしまった。


 十年も待たずにクローン作成における諸々の技術的障壁を乗り越えてしまい、数年後には早くもはいを使った従来のクローン技術すら時代遅れになった。「あばら液」と呼ばれる原形質培養液の開発の成功により、遺伝子サンプルのみから完璧な複製個体を生み出せるようになったからだ。

 そしてドリームボックスでは、これと並ぶように進化していた遺伝子合成技術を駆使して、人と犬のミックスを造る狂気のプロジェクトが始動した。

 感染症による人口減、加速する少子化で労働力が大幅に不足し、日を追う事に弱体化する日本の社会を合成人種である犬人に支えさせるためである。将来的には彼等をドリームボックスの外での暮らしに順応させることを目処に、訓練や研究が極秘で進められていたのだ。


 204番という少女も、その計画の一環として製造された親のいない子供だった。



 204を連れた城崎は、適当に雑談でもしようとドリームボックス内にある中庭エリアを散策する。しかし、どうにも例の少女は彼と一定距離を置くことに固執していた。

 城崎が二、三歩近づけば少女はそれ以上に離れた。逆に離れれば、その方が居心地いいとでも言いたげにその間合いを保ったままついてくる。そんな感じだったので、一人と一匹は中庭を往く職員たちからは不思議そうな面持ちで注目された。


「そんな警戒しなくてもいいんじゃない?」


 少女は何も答えない。


「……今日は春らしい良い天気だね」


 またも少女は沈黙を返すだけだった。


 犬人以外の研究員らしき人の群れは、城崎のことをまるで自分の研究物を引き連れて世界の支配を目論むマッドサイエンティストを蔑むように、遠巻きから執拗なまでに眺めた。

 やめてほしい。犬人という存在を生んだのは僕じゃない。城崎はそう思った。


「……紹介が遅れたね。僕は城崎。犬人の習慣や行動学全般の記録を任されている研究員だ。けど新人だし、犬人とこうして直接話すのは初めてなんだ。今後よろしく」


 直後、三度目の沈黙。数秒経ってから城崎は思わず歩くのを止めた。

 一杯食わされた。この犬人には社会常識が欠如しているらしい。今まで本当に誰も彼女に教育をしてこなかったのだろう。


「204?」

「……なに」

「差し支えなければ自己紹介してほしいな。こっちがしたんだから」

「紹介?私は204……それ、だけ」


 少女は落ち着きなく目を泳がせている。どうにも信用してもらえない様子だ。彼女は誰にだってこうして心を開こうとはしないと聞いている。

 犬人は高確率で手を焼く羽目になる。界隈の人間では常識だ。どれだけ精密な調整の下で誕生させたとしても精神的に不安定な個体が多く、自傷行為をとったり、反抗的な態度を改めようとはしなかったりと具体例の枚挙にいとまがない。

 肉体の生成時に言語情報を犬人の脳に押し付ける人工高速学習のバグなのか、犬の遺伝子を無理に人間側に組み込んだことによる未知の疾患なのか──未だ原因は掴めていない。

 この204という少女は誕生もとい製造からとっくに一年ほど経っている筈なので、流石に大人しくなっていても良い頃合だが、どうも「雑種」という事で誰も彼女に構わなかったらしく、社会性の発育が遅れている。


「いい名前とはお世辞にも言えないね」

「あっそ」

「別に君が悪い訳じゃないけど」

「……」

「でも数字だと呼びづらいな。何か自分で名前をつけてみたら?」


 城崎がそこまで言ったところで、少女はついに黙り込んでしまった。その瞳は無気力で果てしなく疲れ切っているようで、微睡みの色も垣間見えた。

 なんて綺麗で、それでいて何もかも拒む目。説明しようのない彼女にどうしようもなく城崎は庇護欲を掻き立てられた。まるで出会った頃のシロと瓜二つ。


 これだけ他人と喋ることは珍しいのか、と城崎はふと考えた。


「話し疲れた?じゃあ午前はここまでにして、続きはまた午後にしようか」


 少女は何も言わずに来た道を小走りで引き返していく。服の隙間から漏れている白い尻尾を不機嫌そうに垂らしながら。


「さて、これからどうしたもんだか……」


 独り残された城崎は、手持ち無沙汰にうなじを摩る。


 少女との関係を悪化させたくはない。ここで決裂してしまうと、今後の仕事に支障をきたす。あくまで自分の仕事は犬人の研究であり、204の観察だ。

 女の子と仲良しごっこをするためでは断じてない。どれほど似ていても、彼女はシロではない──。


 そこまで心の中で述べてから城崎は腕を組んだ。とはいえ仕事のためには、彼女との信頼関係の構築が大前提だった。それには打算的で冷淡な付き合いではなく、他の大人たちがやらなかったような心優しさと根気が必須になってくると彼は推測する。


「それが僕なんかにできるかが一番の問題なんだけど」


 あの少女ほどではないにしろ、城崎も人付き合いは得意な方ではなかった。

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