犬人に会う

園山制作所

第1章 一人と一匹の春

プロローグ


 桜が咲き乱れる春。散歩道と公園が整備された小さな山の中は淡いピンク色に包まれていて、そこには僕だけが立っていた。

 厳密に言うと、僕の他に一匹の小さな犬もいた。その犬は野良犬だった。誰にも従わず、誰の伴侶動物にもならない──気高く、高貴で、それでいて不遇で孤独な犬が。

 白い柴犬だ。どうして飼い主が現れなかったのかと疑問に思うぐらい、綺麗な毛並みをした雌の中型犬。柴犬の顔をしていたけれど、今に思えば多分雑種だった。


 その体の色から、僕はそいつのことを「シロ」と勝手に名付けて呼んでいた。

 何度もシロを見かけた。触ろうと近寄る僕を睨んでさえいたけれど、いつしかこちらを威嚇することも吠えることも止め、その身体を委ねてくれた。血の通った生命の僅かな臭気と熱を今でもこの掌に思い起こせるのは、彼女のおかげだ。


 でもある時、公衆衛生に躍起になった大人たちが地元の野良犬や猫たちの排除に一斉に取り掛かった。僕はシロが殺されてしまうかもと恐怖して、大人たちに泣いて縋って必死にやめてくれと叫んだが、彼等に慈悲はなく、むしろ彼女の存在を教えてしまう結果になってしまった。

 野生動物の排斥運動が加熱してすぐ、シロに会いに行った。こんな土地からはさっさと逃げてしまえと何度もそいつに言ったが、人間の言葉が理解できるはずもなく、こちらに懐いてしまって離れようとはしなかった。

 両親に犬を飼いたいと頼んだが、鬼の形相で怒られた。祖父や祖母は犬が原因で亡くなったからだ。


 僕は諦めて、大人たちに発見されるまで多くの時間をなるべくシロと過ごすことにした。そんな日常が延々と続き、彼女と出会ってから一年という月日が経過しようとしていた二度目の四月。

 それはよく晴れた日だった。山を下る道路を歩いていると、向かい風が吹き荒れて僕たちを通り越した。春の温かさと桜の花びらが頬を撫でてくれて快かった。でも、隣のその犬は違った。そんな春なんて、まるで自分には似合わないとでも言うように、横にいる僕を置いてけぼりにして独りで歩き出した。


 その時のシロは、まるで最初に会った時みたいな野良犬の雰囲気に戻っていた。本能的にそれが何を意味するのか悟った僕は、慌てて手を伸ばしたが届かなかった。

 彼女は遠慮がちに振り向き、舌を出して笑ったが、すぐに山の奥深くへと駆けていった──。

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