第5―2話「七瀬紫莉、フェチズムを知る」


 私は百合漫画を読んでぶっ倒れてしまった藍原さんに駆け寄る。

「大丈夫? ……ちょっと楓、急にそんな物を見せたら駄目でしょ!」

 藍原さんが起き上がろうとするのに手を貸しながら、私は楓先輩を睨みつけた。

「え~、そんな事言われてもね。ゆーゆの時は大丈夫だったし?」

 彼女は悪びれる様子もなくにっこりと笑った。

 まったくなんて先輩だ。私をこの部活へ引き込んだ時といい、楓にはどうも普通の人に備わっているはずの常識というものが欠けているようだ。まあ、友達になったばかりの藍原さんをここに連れてきてしまった私も人の事は言えないか。

 そうしている内に、よろよろと立ち上がった藍原さんはスカートの汚れを叩いてから、気まずそうな表情で楓先輩へと向き直る。

「ごめんなさい。今まで知らなかった世界を見てしまった気がして、つい……」

「いいよいいよ、初めはそんなもんだよ。それで百合って言うのはね、今見た漫画みたいな事を言うの。つまり、女の子同士の恋愛とか友愛とか、そういう関係や感情の事よ。同性である女の子を少しでも好きだと感じ始めたら、それが百合になるの」

 先輩の説明を聞いた藍原さんはどこか思うところでもあるような顔をする。

「じゃあ、もしかして、私も百合なのかな?」

「んん、と言うと?」

「七瀬さんにはもう言ってあるんですけど、実は私、脚フェチなんです。それも女の子の脚が大好きなんです。私がサッカー部に入ったのも女の子の恰好良い脚が見れるからで、仲の良い部活友達の脚につい見惚れちゃったり、スキンシップに紛れて触っちゃったり、あっ、もちろん変な意味はありません。本当に軽い感じなんです。ついでに言っちゃうと、特に七瀬さんみたいに高身長ですらっとした脚がタイプで……」

 そう話しながら、藍原さんは視線を私の下の方に、無防備な私の脚へと向けてくる。彼女のそれは嫌らしい目つきではなく、本当に好きな物を見るような、それこそ子供が興味のある対象をじっと見つめるのと似た、純粋な目の色をしていた。

 確かに変な意味はなさそうだし、私も嫌な感じはしない。けど、他の人にそんな自分の脚をじっと見つめられた事ないから、やっぱりちょっと恥ずかしいな。

「なるほど、『女の子の同性に対するフェチズムは百合に成り得るのか』って事ね!」

 一人で勝手に納得するように、楓先輩は指をぱちんと鳴らした。

「さすが、ゆーゆが連れてきた人材ね、早速興味深い話を持ち込んでくるなんて優秀だわ。う~ん、そうね、個人的にはフェチズムも場合によっては百合に成り得ると思うけど。ただ君が……、えっと、そういえば名前を聞いてなかった」

「藍原透です。透明の『透』と書いて、ユキと読みます」

「じゃあ『ユキちゃ』って呼ぶね。私は床嶋楓、気軽に『楓』って呼んでくれて良いし、あと全然タメ口でオッケーだから。で、話を戻すけど、ユキちゃは女の子の脚が好きだから、もしかすると自分は女の子の事も好きなんじゃないかと、そう思った訳ね?」

「は、はい。今まではあまり深く考えた事がなかったですけど」

 楓先輩のいつもの癖が始まった。いや、これも部活動の一環だったか。

「じゃあさ、ゆーゆを相手に考えてみたらどう? ……あっ、ゆーゆはこの子の事ね。自分にとって好みの脚を持つ女の子を恋愛対象として見れるのなら、その可能性は十分にあるわ」

 藍原さんの視線が私の顔に向けられたのを感じて、私もそれを見返す。

 そこで私と目が合っても、彼女は最初なんとも無い表情をしていたものの、数秒後には途端に首元から顔までを真っ赤にして目を逸らしてしまった。

「見れない事はない、かも」

 その言葉を聞いた私は息を呑んだ。

 これはまずい。非常に危険なフラグ的なものを感じる。ここでへし折っておかないと、後々になって私の意図しない形で回収されかねない。私は百合になるつもりはないのだ。

「待って、それは考え過ぎじゃない? っていうか、ただの錯覚だから!」

「いや、そんな事はないわよ?」

 楓先輩が真剣な面持ちで余計な口を挟んでくる。

「女の子の脚だから遠く感じるだけで、例えばこれが唇だったらどうかしら? 男の子の唇じゃ駄目、私が好きなのは女の子の唇なのって場合、それそなわち女の子の事も好きである可能性は完全に否定し切れない。なぜなら、女の子は好きではないと判明したその瞬間に、対象が女の子である事を前提としている『女の子の唇が好き』という主張に明らかな矛盾が生じてしまうからよ」

 何を言っているのかさっぱり分からないし、分かってはいけないような気がする。

 私が楓先輩の話を受け流そうとする一方で、ふと気になって藍原さんの方を見てみると、彼女はその話が心に響いたとばかりに頷いていた。

「確かに、よく考えたら、私もそうなんだ。ただ脚が好きなんじゃなくて、女の子の脚だから魅力を感じてるわけだし、試しに部活友達を男子に置き換えて考えてみたけど、それだとこれっぽっちも魅力的だとは思わなかった。私の好きな脚はその女の子しか持っていない、かけがえのないものであって、そう考えると、間接的にはその子の事が好きだって言えるのかも」

「まさに三段論法ね。自分の好きなもの=女の子の脚、女の子の脚=女の子だとすれば、自分の好きなもの=女の子となる。『女の子が同性に対するフェチズムを感じた時、それは百合と成り得る』という可能性が示唆された以上、これは今後も議論を続ける必要がありそうね」

 この二人の話が噛み合っている事に、私は戸惑いを隠せなかった。

「えっ、何この流れ、これってそんな真面目に論じるべき事なの?」

 私の困惑をよそに、先輩は藍原さんに歩み寄ってその手を取る。

「どうやら、この『百合になりたい部』にとって、君は必要不可欠な人材みたい。そうと分かれば、私からも改めて君を勧誘させてもらうわ。これから私達と一緒に、百合への理解を深めていきましょう?」

 その誘いを受けて、藍原さんは表情を明るくしながら先輩の手を握り返す。

「うん! 私も百合の事、そして私自身の事をもっと知りたくなったし!」

 なんだか知らないが、上手くまとまってしまったのだろうか? 何にせよ、一つだけ確かな事は、藍原さんをこの部活に誘うべきではなかったという事だ。

 今になって後悔したものの、やはり後の祭りなのであった。

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