第3話「七瀬紫莉、壁ドンをする」

 放課後、今日も私は一人で部室へ向かう。

 中学は帰宅部だった私、放課後に寄るべき場所があるのは新鮮な感覚だ。あの頃は親に部活を禁止されていて自宅へ真っ直ぐ帰らなければいけなかった。学校から帰る時、通り過ぎる体育館や運動場で楽しそうに部活動をしているみんなが羨ましくて仕方がなかった。

 この学園で寮生活を手に入れた今、口うるさい親もいないから私は自由なのだ。

 部室の扉を開けて中へ入ったその時、不意に楓先輩が迫ってきた。私は壁際へと追い詰められて、それから逃げようとすると、彼女の片手が壁に突いて逃げ場を塞ぐ。

「ゆーゆ、なんか私に言う事ない?」

 私の下にある楓先輩の表情はどことなく怒っているようだった。

「その、よく分かんないけど、昨日腹パンした事を怒っているとか?」

 しばらく沈黙した後、彼女は堪え切れなくなったとばかりに笑い出す。

「嘘よ嘘、なんもない! ちょっとね、壁ドンってどんな感じなのか気になっただけなの」

「壁ドン? なにそれ」

「えっ、知らないの? 壁ドンってのは恋愛漫画とかでよく見るやつで、男性が女性に迫って壁にドンって手を突く事よ。丁度今、私がしたみたいな感じのやつ」

 ああ、それを壁ドンって言うんだ。見た事あったけど、呼び方は初めて知った。

「まあ、本来は騒音を出す隣の部屋に対して、『うるさいぞ』って壁を鳴らして伝える行為の事らしいんだけどね? 今はそっちの意味が薄れて、現在の意味が主流になったみたい」

「へえ~、変なの。それで、その壁ドンがどうかしたの?」

「そうそう、その壁ドン、百合漫画とかでも結構出てくるのよ。そこで気になったのが『同性から壁ドンをされたらときめくのか』ってね、これは百合を理解する上で重要な事よ。もし壁ドンに相手をときめかせる強力な効果があるのだとしたら、私達は自分の身を守るため、そして相手には変な勘違いをさせないために、その対処法を身に着けておく必要があるの」

 私は思った。それは考え過ぎではないのか、と。

「私はなんとも感じなかったけど?」

「それはきっと、私に身長が足りなかったからよ。ほら、よく見る壁ドンって、身長の高い男性から身長の低い女性へするものでしょ? 百合漫画でも同じで、高身長女子が平均的な身長の女子にするものだし」

 いや、別に関係ないと思うけどね。

「その点、ゆーゆって身長が高いじゃない? 是非、私に壁ドンしてみて欲しいの。ちなみにだけど、最後の身体測定の時は何センチだった?」

「確か百六十八だったはず」

「うわあ、高いね! 卒業する頃には百七十を超えてそう。ゆーゆは大人っぽいメイクも似合いそうだから絶対女子からもモテてるよ。実際、告白された事とかあったり?」

「いやいや、ないない! 女子どころか、男子からも告白された事ないよ」

「嘘だあ、私でも女子から告白された事あるんだから、ゆーゆも絶対あるでしょ」

 そりゃあ、楓先輩は同性の私から見ても可愛いから。女子だって同じ女の子に告白するなら可愛い子が良いに決まっている。

「本当にないってば。それより、私が楓に壁ドンすれば良いんでしょ、具体的にはどんな風にすれば良い? 分かりやすいお手本が欲しいんだけど」

 楓先輩は事前に用意していたらしい一冊の漫画を取り出し、栞を挟んでいたページを開く。

「これ、このキャラの壁ドンを真似してみて。声とか表情とかもなるべく真剣にね?」

 正直乗り気ではなかったが、これも部活動の一環だと思って気持ちを切り替える。

「分かった、やってみる」

 深呼吸をした私は一思いに楓先輩を壁際へと追い詰める。上目遣いになる彼女を見下ろすような形で壁に片手を突いて、片方の足を彼女の両足の間へと踏み込ませ、お互いの息遣いが聞こえてきそうなほど顔を近づける。

「ちょっと、どこ行くつもり?」

 この時、楓先輩は固まってしまっていた。私の思い切った壁ドンの実演に驚いたのかは知らないが、妙な空気が数秒続いた後、急にしおらしい表情になって自分の頬を手で押さえる。

「ごめん、ときめいちゃった」

「ええっ、やめてよ!」

 私は反射的に彼女から体を離す。

「勘違いで好きになったりしないでよ? ほんと私困るから」

 高校生活が始まったばかりで先輩との百合ルートを解禁してしまうのはゴメンだ。友達一人も作れないくせに、たった一回の壁ドンの真似事をしただけで先輩に惚れられるとか、そんな邪道を歩んでなるものか。

「大丈夫、このときめきはきっと、初めての壁ドンに対する胸の高鳴りだから」

 不安だ。これが後々のフラグになっていなければ良いが。

「ねえねえ? もう一回やってくれない?」

「なんで?」

「検証のためよ。一回目と二回目では効果に違いが出るのか確認しないと」

 私が渋々その要望に応えてあげると、彼女は「きゃー!」と黄色い声を上げて大変喜んだ。

「なんだか胸がきゅんとするこの感じが癖になりそう。自分が百合じゃなくても、同性からの壁ドンにはときめくものなのね。これはとても危険だわ。ちょっとばかり手が滑って、私達に片想いをしている女の子に壁ドンをしようものなら、ほぼ間違いなくトドメを刺す結果になるわ。高身長イケメン女子のゆーゆは、特に気を付けないとね?」

 なにその高身長イケメン女子って、色々と言葉が渋滞し過ぎでしょ。

「いや、私は大丈夫だから」

 私を好きになる女子なんていないだろうし、私も女子を好きになる事はない。

「案外、そういう人が一番危なかったりするのよ?」

「絶対にありえない」

「じゃあ、ゆーゆも壁ドンされてみ。そしたら、私の気持ちが分かるわ」

「いやいや、さっき楓に壁ドンされたし、私は何も感じないって言ったじゃん」

 こちらの言葉に耳を貸さず、楓先輩は部室の椅子を持ってきて私の前に置く。その椅子の上に乗ると、澄まし顔で私を見下ろしながら壁ドンをしてきた。

「ほら、どうよ?」

 私は無言で彼女を見つめる。

 見上げれば深みのあるブラウンの瞳と柔らかそうな唇、目の前には制服の襟から薄っすらと覗く胸元、柔軟剤か香水かほんのりと香る柑橘系の匂い、そして軋む椅子の脚。

 私は我慢できなくなって、ついに彼女の体へ手を伸ばす。

「はいはい、椅子の上に乗ったら危ないから降りようね~」

 両脇を抱きかかえるようにして楓先輩を椅子から降ろしてあげる。

 椅子の上に立って壁に寄りかかるのは危険だ。いつ椅子が滑って転げ落ちてくるかも分からず、見ているこっちは別の意味でドキドキしてしまった。

「ゆーゆ!」

 そんな私の反応に不満だったらしい楓先輩はその後すっかり拗ねてしまい、私が彼女にもう一度壁ドンをしてあげるまでの数十分の間、一言も口を利いてくれなかったのであった。

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