第1―2話「七瀬紫莉、百合を知る」

 高校生活三日目の放課後、七瀬紫莉こと私は興味本位で『百合になりたい部』の部室を覗いてしまったばかりに、その変な部活へ強制的に入部させられたのである。厳密にはこれから欠かされる入部届の提出で正式な入部となるのだが。

 先輩は部室の隅から二つ机と椅子を運んでくると、開けた中央辺りで向かい合わせの形に設置した。そのそれぞれの席に私と先輩が腰を下ろす。

「じゃあ、この入部届を記入してくれる?」

 いつの間に用意していたのか、先輩はクリアファイルから一枚のA4サイズ用紙を慎重に取り出し、私の前にゆっくりと置く。

 うわっ、なんだこの入部届は。用紙のほとんどが入部理由を書く空欄じゃないか。作文みたいに長文を書く人なんていないだろうし、この半分以下のサイズでも十分だと思う。

「まずはここに貴女のクラスと名前、次に入部理由だけど、適当に一文だけで大丈夫よ。ああ待って、……はい、私のペン貸したげる」

 私は先輩のペンを受け取って、自分のクラスと名前を書いていく。

 先輩は用紙の端を押さえてくれながら私の手元を覗き込んでくる。

「これ、なんて読むの?」

「ゆかり」

「へえ、これで紫莉って読むんだ~、良いなあ可愛い名前」

 私は不覚にも少しどきっとしてしまう。可愛いと言われたのは初めてだった。

 そんな単純な理由で照れるのが恥ずかしくて、それを誤魔化すために顔を伏せて、急いで入部理由にペンを走らせる。適当で良いとの事だったのでただ一言、「興味があったから」とだけ、だだっ広い空欄の左上に小さく書いた。

「あと最後に右下、そこに今日の日付と名前ね?」

 言われた通りに書き上げると、先輩は指を鳴らして「やった!」と喜んだ。

 その様子を見て私は思う。

 なんというか、この子は確かに可愛いんだけど、どことなく残念な雰囲気を感じる。部室から出ようとした私を引き留めようと駆け出して盛大に転んだ時といい、泣き落としをするように抱き着いてきた時といい、先輩らしさの欠片もない。

 先輩のペンを返して、改めてこの部活について聞いてみる事にする。

「あの、こうして正式な部員になったわけだし、そろそろ具体的に何をする部活なのか教えてくれる? 『百合になる』って意味も分かってないし」

「そうね、じゃあその説明もかねて、私の自己紹介からするね?」

 なんか、私のタメ口には何も文句を言ってこないし、しばらくこのままにしておこう。

「私は床嶋楓(とこじま かえで)、クラスは五年二組。先輩って呼ばれるのは好きじゃないから、普通に『楓』って呼び捨てて欲しいかな。あっ、あと敬語も、先生の前とか必要な時以外は全然タメで良いから」

 ああ、そういう事か。てか、最初から敬語を使っていない事に気付いていないっぽいな。

「それで本題の『百合になりたい部』についてだけど。まずは『百合』とは何か、そこからよね。簡単に言うと、女の子同士の恋愛とかそういう事を言うの」

「はっ?」

 すぐに理解できなかった私はつい聞き返してしまった。

「もっと詳しく説明もできるんだけど、雰囲気を掴むには見てもらった方が早いかな」

 楓先輩は立ち上がる。私の横を通り過ぎて、彼女が最初に座っていた窓際の席に近づいていき、その机の上に置いてあった一冊の本を手に取る。こちらへ戻ってくると、私の目の前にその本を差し出してきた。

「これって、さっきまで楓が読んでいた本?」

 よく見ると、それは小説ではなく、漫画であった。表紙の絵柄は少女漫画のように線が細くて、ミッション系っぽい学生服を着た二人の少女が寄り添っている。

 学校に漫画を持ってきても良いのかとの疑問が頭を過ぎったものの、そういえば持ち込み可能な私物の中に漫画も含まれていた事を思い出して、すぐに自己解決した。とりあえず差し出された本を受け取って、試しに適当なページを開いてみる。

 すると、突然見開きの絵で少女二人がキスをしていた。

「うわっ!」

 びっくりした私は漫画を手放してしまった。

 机の上に落ちた漫画、その表紙に描かれた少女を見るだけで心臓がどきどきしてしまう。

「どう?」

 隣に立っている彼女との距離間が近過ぎるような気もして、私はやや身を引く。

「どうって、あまり気分が良いものじゃないと言うか、ちょっと気持ち悪いかも……」

「まあ、そうなるよね。わかるわかる、私も初めて知った時はそんな感じだった」

 楓先輩は笑って見せながら私の向かい側の席についた。

「これが百合って事は、つまり楓もこうなりたいって事?」

「実はね、違うの。私は別に女の子を恋愛対象として見た事はないし、その漫画みたいにキスしたいと思った事もない。この『百合になりたい部』を立ち上げたのはただ、ひとえに百合の事を理解しなきゃいけないと思ったからなの。考えてもみて、今貴女が言った『気持ち悪い』って言葉、もし本気で女の子が好きで悩んでいる人を相手に言ってしまったら、その人はどんな気持ちになると思う?」

 私はさっきの自分の言動を振り返る。

 嫌なものを見てしまったとばかりに漫画を投げてしまった事。自分もそういう目で見られているのかもと露骨に身を引いてしまった事。そして、まだそうなのかも分からない楓先輩に放った私の言葉。

 少しばかりデリカシーに欠けていたかもしれないと反省する。

「分かってくれたみたいね? でも、気持ち悪いって思う事自体はたぶん悪い事じゃない。人にはそれぞれ感じ方の違いがあるから。それに本人には悪気なんてなくって、ただ知らない世界から自分を守ろうとしているだけ。だからこそ、私は百合を理解しなきゃいけないと思ったの。自分を守ろうとするあまり相手の気持ちを気遣う事も忘れて、知らず知らずの内に悩める乙女心を傷つけないために。私達だって他人事じゃない、ここは女学園で寮生活をしている生徒もいて、もしかしたら私や貴女の事を恋愛的に好きって子がいて、明日にも告白してくるかもしれない。その時、勇気を振り絞って告白してくれた相手を心無い言葉で傷つけてしまったら、それはすごく可哀想でしょう?」

 この時、初めて彼女が先輩らしく見えた。よく分からない変な部活かと思っていたけど、意外にちゃんとした理由で作られた部活なんだ。この部活で何を得られるのかはまだ分からないけれど、自分を見つめ直す切っ掛けにもなりそうだし、そこから今の自分を変える方法を見つけられるかもしれない。

 そうとなれば、もうちょっと入部理由はちゃんと書いておこうかな。

「……ん?」

 入部届に視線を落とした時、用紙の裏に薄っすらと細かい文字が透けている事に気付く。裏面があるというよりは用紙の下にもう一枚の紙があるような感じだ。

「あっ、それは関係ないの!」

 入部届の下をめくろうとする私を止めようとして、楓先輩が身を乗り出してくる。私は咄嗟にその紙を持って立ち上がり彼女から遠ざかると、入部届の下にぴったりと重なっていた別の用紙を読んでいく。

「なになに、『私は以下の事に同意します。第一、本部活入部から蝶蘭女学園卒業までの期間は絶対に退部しません。第二、部員獲得のためにはいかなる手段も厭いません。第三、部長から部員補填の求めがあった場合はただちにクラスメイトより最低でも……』って、これ契約書じゃない! しかも、さっき最後に記入した日付と名前のとこ。そこだけくり抜かれて契約書の署名欄と重なってて、私が署名した事になってるし!」

 訳を問い詰めようと楓先輩を睨むと、彼女は誤魔化すように笑う。

「だって、入部した後で逃げられたら困るし……、ね?」

 前言撤回、やっぱりこの部活は怪し過ぎるし、楓先輩も信用できないのであった。

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