異世界で彼は何を思う(仮)

ちょり

第1話

 カリカリカリカリ……。


 男が文字を書く音だけが静かな部屋内でこだましている。

 齢は六十四。ただしその年齢と見た目はまるで合致しない。三十代前半と言われても周囲が納得しそうな顔立ちにガッシリとした体格であった。

 男は一心不乱に、だがペースは上がる事も下がる事も無く淡々と書き続けている。部屋の片隅に置かれている蝋燭が一定の揺らめきで灯し続けているように、男もまたただひたすらに記し続けていた。

 傍らには、すでに男が書き終えた辞典ほどもあろうかという分厚さの書籍が八冊置かれてある。現在男が書いているのは九冊目であり、この書籍で最期になる予定だった。


 男が書いているのは今世の実体験。日記と呼ぶには男の文体はあまりにも簡潔な文章であり、どちらかというと備忘録に近い。かくいう男自身も日記を記しているという感覚は無く、ほとんどメモ代わりに書いているような文体だった。


『●月△日 エイバーンで聞いた噂を基にアズクール山登頂。道中、モンスターと八度会敵。特徴的なモンスターは現れず。休火山との話を聞いたが、どうやら地脈深くで未だに活動している事がわかった。噂に聞いていたアズクールの知恵を記された書物は見つからず』


 といった具合だ。


 カリカリカリ……ガリッ――。


 不意に男の書く手が揺れ、書物の上に歪な線が走る。蝋燭の火も同じように揺れた。

 ちっ、と小さく舌打ちした男は、懐から懐中時計を取り出した。時刻を確かめると懐中時計を懐へと戻し、右手を何度か開閉する。じっと数秒そのさまを見ていると、少しずつだが手のひらの皺が増えていく。平坦な表情でそれを確認し終えると、男は記す作業へと戻るのだった。


 カリ、カリ、カリ、カリ……。


 それからもなお記し続けた男。

時計を見る前よりも少し早いピッチで書き続けた男は、途中急速にペースを落としながらも何とか持てる限りの力を持って最後のページを書き終えると、ばたむと本を畳み、ペンを置いた。


「フゥ…ゥゥ……………」


 今にも倒れ込んでしまいそうな衝動を何とか抑え、大きく息を吐く。

 息を吐くだけでも肺が痛い。

 顔全体に深い皺が入り組み、手足が小さく震える。視力は衰え、白内障を発症させているのが男自身にもわかった。

 この世界では珍しい黒髪はとっくに白髪になってしまっており、生気はまるで無い。今の男を六十四歳だと言われても、きっと誰も信じてくれないだろう。それほどまでに男の身体は弱弱しく、老人にしか見えなかった。


「お手を……」


 いつの間にか傍にいたダークエルフの女が声を掛ける。彼女は自身を側仕えと称して男の世話をしている者だ。見目麗しく、所作立ち振る舞いも洗練されている。それら全ては男に向けられており、それをよく知っている男は苦々し気に見ながらも、小さく苦笑して手を取った。


「悪い……」


「いえ、私の役目ですから」


 呻き出すように発した男の声はしわがれていたが、女にはしっかりと聞こえていたようだ。それっきり二人の会話は無くなってしまい、隣室のベッドに男が身体を落とすまで会話は無かった。


 男は女に介護されつつ隣室にあるベッドへ横たわると、懐から懐中時計を取り出し女へと渡した。

 女はそれを頷いて恭しく受け取る。


「全ては手はず通りです。お任せください」


「うん、いつもいつも本当に悪いな。……これで何回目だ?」


「今世で十六度目のはずです」


「そうか、もうそんなになるのか……」


 女の言葉に男はぽつりと呟くと、それきり目を閉じて黙り込んでしまった。女も無理に会話を続けない。今もベッドの上に寝転んでいる男の顔には刻一刻と老いが深まっていく。今にも死んでしまいそうな、今の状況を知らない人間が見たら死人と勘違いしてしまいそうなほどにすでに男はピクリとも動かない。


 それからさらに数分後、男が小さく身動ぎした。口が小さく動く。女は男のその動きを確認すると、男の口元すぐそばまで耳を近付けた。


「……そのまま、王城へ、と、向かう。……それ、から、こ……ちら、へ、戻る…予定だ」


 息も絶え絶えに男が言葉を発した。所々で詰まり、つっかえ、お世辞にも聞き取りやすいとは言えない言葉を女は瞬きすらせずにそれらを聞き終えると、男からわずかな距離を取った。


「承知致しました」


 女が発した言葉はすでに男の耳には届かない。急速な老化は男から視覚と聴覚を奪っていた。

 男の呼吸が徐々に浅くなる。女は男から預かった懐中時計を開き、秒針をじっと見つめる。

 男はすでに自力で呼吸する体力すらほぼ残っていない。女はなおも懐中時計に視線を向け続け、秒針が合わさった瞬間――。


「黙祷――」


 女はそう呟いて目を閉じ、小さく頭を下げた。

カチ、カチ、カチ………。

女の手の中にある懐中時計が時を刻む音だけが部屋に小さく響く。遮音性の高い部屋内では外音が全く入って来ず、懐中時計の小さな刻みすらはっきりと聞こえるレベルだった。


 女は数分間、微動だにすらせずに黙祷を続け、三百秒を男に向けて祈り終えた後、目を開けた。


「………行ってらっしゃいませ。貴方の来世が幸多からん事を……」

 すでにベッドの上に男の姿は無く、直前まで身に付けていた衣服だけがそこには残されていた。

 女はベッドからそれらの衣服を取り出すと、抱きしめるように衣服を集め、軽く口づけを落とす。衣服からは男の匂いが少しだけした。


「さて、それでは準備をしないと」


 少しばかり衣服を抱きしめたまま立ち尽くしていた女だったが、衣服を集め、ベッド上を軽く掃除すると部屋を辞した。

 女にはこれからするべきことが多々あった。数日後に戻る主人を迎え入れる為の準備が。

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