第3話 過去の残り火

 タイムリープ。

 そんな胡散臭い雪音の話を信じたわけではなかった。

 所詮は中学二年生の口から発せられた言葉だ、話半分に聞いてテキトーに受け流すに限る。


 そう思っていたのだが、一切の揺らぎもないあの瞳に射抜かれてしまうと、なぜだか叱られた後の子どものような後ろめたさが付きまとって何の言葉も返せなくなってしまった。さっさと突き放して帰りゃいいのに──と己に辟易しながらも、こうして彼女の後を追いかけてしまっている。


 下ばかり向いていたせいで苔むした塀の影に身を潜めていたトカゲと視線が交わり、青光りする尾をひるがえされた。植木の奥へと姿を消すそいつを目で追っていれば、雪音は不意に砂利道の奥を指さして口を開く。



「ここ、昔は駄菓子屋があったんですよね。気付いた時にはもう更地になってましたけど……昔、姉に聞いたことがあります」



 その指が示す先にあるのは、砂利道の一角に現れた空き地。彼女が言うように、ここは幼い頃に古びた駄菓子屋があった場所だ。

 今はもう取り壊されてしまった駄菓子屋の跡地を眺めつつ、雪音は懐かしむように目を細めて通過する。


 やがて奥にある細道を迷わず曲がり、舗装の行き届いていない畦道あぜみちに逸れた。彼女が選ぶのは幼い頃の足跡を辿るかのような昔懐かしい道ばかりで、次第に俺は目的地を察し始める。



「……おい、お前、まさかあそこに行こうとしてんのか?」


「どこのことです?」


「とぼけんな。秘密基地ネバーランドだよ」



 鋭く指摘すれば、雪音は「そうですよ」と悪びれなく頷いた。露骨に嫌な顔をしてしまうが、彼女は「帰らないで下さいね」と先手を打って俺の手を捕まえる。



「な……っ! おい!」


「ふふ、女子中学生と仲良く手を繋いで歩く機会なんて、なかなかないでしょう? その様子じゃ彼女も出来たことないんじゃないですか、キリさん」


「う、うっせーよ! からかいやがって……!」


「でも、意外です。てっきりもっと嫌がられて、強引に突き飛ばされるかなと思ってましたけど、振り払わないんですね。……私が姉に似ているから?」



 すべてを見通しているかのような口振りで微笑まれ、俺はつい言葉を詰まらせる。


 眩しい日差しの中で二つに結ばれた、ふわりと揺れる栗色の髪。あの日の天音の記憶が戻ってきて、俺は視線を泳がせた。



「……別に──」



 だが、俺が掠れた声を紡ぎかけた時。視界に飛び込んできたのは見慣れた二台の自転車だった。

 途端に俺は背筋を冷やし、足を止めて雪音の手を強く引く。



「ちょっと待て……!」


「きゃっ! な、何ですか急に……」


「今はこの先に行かない方がいい」



 早口で紡げば、雪音は怪訝な表情を浮かべる。しかし警戒を強める俺の耳は、早速〝ヤツら〟の声を拾い上げていた。

 無意識に舌打ちがこぼれ、俺は雪音の手を握ったまま鬱蒼と木々が茂る雑木林の中へ彼女を誘導する。



「えっ!? ちょ、ちょっと! そんな蛇とか虫とか居そうなとこ行きたくな……」


「静かにしろ、アイツらに見つかったら面倒なんだよ!」


「むぐっ!?」



 騒ぐ雪音の口を強引に手で塞ぎ、背後から羽交い締めにして草木の生い茂る雑木林に身を隠した。暴れようとする彼女を押さえつけ、静かにするよう促しつつ息を潜める。


 人口の少ない田舎町であればあるほど、車や自転車というのは見るだけで誰の所有物なのか分かるものだ。やがてその場には二人分の足音が近づいてきた。



「──おい、テメェ!! さっきから無視してんじゃねえぞ!!」


「……!」



 ざくざくと土を踏み締め、突として怒鳴った男の声に雪音の肩がびくりと跳ねる。俺は息を潜めたまま、そっと木々の隙間から前方の様子を窺った。


 着崩した制服姿のまま不機嫌そうに歩いてきたのは、虎を思わせるジグザグ模様の剃り込みを入れたツーブロックの頭が特徴的な男──暴君・城戸きど 玲於れお。『レオライオン』という名前なのに剃り込みが虎縞模様なのは、単に勉強が苦手で英単語の意味を履き違えた結果らしいが、報復が怖くて誰も指摘できずにいるとの噂だ。


 今でも昔と変わらず〝悪のボス〟の立ち位置に君臨する彼は、涼しげな顔で淡々と歩くもう一人の男──瓜生うりゅう 千晃ちあきを睨んでいる。



「テメェ、まだ無視すんのか、あぁ!? おいコラ、クソ瓜生! そろそろ殴んぞカス!」


「ふあ~……眠……」


「何あくびしてやがんだァ! ナメやがって!!」



 暴君と恐れられる城戸の怒声をものともせずに大あくびまでしている瓜生は、グレージュに染めたミディアムマッシュの髪を気だるげに掻き、城戸の口撃を見事にかわしていた。


 考えの読めない瓜生の、浮雲のように掴み所のないその性格は今でも健在。相変わらず歯に衣着せぬ物言いのため敵を作りやすく、やはりクラスで孤立している。


 そんな二人の姿を視界に捉え、俺は苦く表情を歪めた。



(チッ……やっぱりさっきのチャリはコイツらのか……。こんなとこで何してたんだ? この先には秘密基地ネバーランドしかないはずなのに……)



 そう訝しんでいる間に、停めていた自転車の前まで戻ってきた彼ら。無視を続ける瓜生が鍵を差し込んだところで、とうとう城戸がその胸ぐらに掴みかかってしまう。


 小三の春に瓜生が転校してきて以来、この二人の仲は険悪だ。これはマジで殴り合いになるかもしれない──と懸念したところで、それまで無視し続けていた瓜生がようやく面倒そうに口を開く。



「はあ~……いつまでもダルい絡みばっかしてくんじゃねーよ、田舎のちっせーお山の大将風情で満足してるボス猿がさぁ。マジ萎えるんですけどぉ」


「んだとテメェ……! あんまナメた態度してんじゃねえよ、その無駄に整った顔ぶん殴って潰してやってもいいんだぜ? あ?」


「くくっ、なんだそれ、ダッセー脅し文句だなぁ? 虎とライオンの違いもわかんねーお子ちゃま猿のなんちゃってヤンキーくん、女にモテねーからって僻むなよぉ」


「テメェェ……!」



 憤る城戸と、更に胸ぐらを掴み上げられる瓜生。案の定、あいつは言葉をオブラートに包むというやり方を知らないらしい。

 一触即発の空気がその場に満ちるが、瓜生は不敵にニヤつくばかりで焦る様子もついぞなかった。余裕綽々といったその態度が気に入らないらしい城戸は、不服げに眉根を寄せていたが──やがて、嘲笑混じりに口角を上げる。



「……ハッ。随分と余裕ぶってやがるが、いいのかよ、瓜生」


「はー? 何がぁ?」


「知ってんだぜ? 俺。──お前が隠してる秘密」



 ──ぴくり。


 城戸の発言に、それまで余裕の笑みを浮かべていた瓜生の表情があからさまに強張る。わずかな動揺を見せた彼の反応に城戸はほくそ笑み、密やかに聞き耳を立てている俺は眉をひそめた。



(……瓜生の隠してる秘密? 何のことだ?)



 不可解な会話の内容。黙って耳を澄ましていれば、笑顔をなくした瓜生が冷たい瞳で城戸を見据える。一方の城戸は楽しげに喉を鳴らし、掴み上げた胸ぐらを引き寄せて彼に顔を近付けた。



「くくっ……小学生の頃から、テメェの行動はどこかおかしいと思ってたんだよ。俺の考えが当たってりゃ、随分うまいことってことになるよなァ? 感心するぜ」


「……」


「誰とも関わらねーようにわざと反感買うようなこと言って他人を遠ざけてんのも、全部〝そのこと〟を隠すためだろ。幸い誰もお前の秘密に気付いてねーようだが、俺の目はごまかせねーぞ」


「……お前、どこまで知ってんだ」



 何らかの情報を得ているらしい城戸に、瓜生は声を低めて探りを入れる。

 すると彼は口角を上げたまま、瓜生の耳元に唇を寄せて何かを耳打ちした。



「──」



 何を伝えたのか、俺の耳には届かない。しかし城戸が何らかの言葉を告げた途端、瓜生の目の色がガラリと変わったことだけは傍目からでも見て取れた。


 次の瞬間、彼はすぐさま城戸の首に掴みかかる。



 ──ドンッ!



「……っ!」



 険しい表情で城戸の背中を巨木に押し付け、明らかな怒気を纏ってその首を締め付ける瓜生。出会って以来初めて目にするその表情と予想だにしない展開に、息を呑んだ俺は咄嗟に雪音の目元を手のひらで覆い隠した。


 〝暴君〟の称号を持つ城戸もさすがに怯んだのか、見開かれた目には色濃い焦燥が揺らいでいる。



「……っ! か、は……っ!」


「……なー、城戸、お前さー。猿山のボス気取りでイキんのは別にいいけど、言っていいことと悪いことの判断ぐらいはできるようにした方がいいんじゃねーのぉ? 人相悪くてよく吠えるってだけで、実際は喧嘩よえーんだからさー」


「ぐ……っ、う……!」


「おーい、聞いてんのかクソ猿。お子ちゃまにも分かるように、噛み砕いて教えてあげましょーかぁ? ……あのさぁ、間違っても、のことで軽率に俺を脅そうなんて思うなよ。俺の弱み握って優位に立とうとか、マジで甘いから」



 完全に形成が逆転した両者。暴君は完全に首を捉えられ、全く予測のつかない瓜生の動向に血の気を失っていた。

 殺気立っている瓜生はさらに城戸の首を締め付け、冷たい瞳で忠告する。



「──これ以上首突っ込んでくるようなら、マジで殺すぞ。二度とその話すんな。大人しくしてろ」



 底冷えするほどの低音を発し、瓜生は締め付けていた城戸の首を開放すると何事もなかったかのように自転車に跨った。

 そのまま山を降りていく彼。その背を忌々しげに睨んで咳き込んだ城戸は、ぎりりと歯噛みして自身も自転車に跨る。



「……っの野郎、ナメやがって……! 待ちやがれ!!」



 鬼の形相で怒鳴り、城戸は苦しげに咳き込んだまま瓜生を追って下山していった。

 彼らの会話の全貌はついぞ把握できなかったが、喧騒の遠ざかった山には当然のように蝉時雨の号哭ごうこくが戻ってくる。



(何だったんだ、今の……)



 俺と雪音はおずおずと元の道に戻り、互いに顔を見合わせた。



「……今の方々は、キリさんのお知り合いですか? 揉めていたみたいですけど」


「まあ、一応……あいつらも、俺と天音の同級生だよ。揉めてる内容はよく分かんなかったけど……」



 素直に答え、瓜生と城戸の会話の内容を思い返す。


 〝瓜生の秘密を知っている〟──そうのたまった城戸に何かを耳打ちされて、普段滅多に感情を表に出さないはずの瓜生がキレた。

 そもそも、この場所にあの二人がいたこと自体がまず奇妙だ。この先から降りてきたということは、秘密基地ネバーランドにいたという可能性が高い。……だが、一体何の目的で? あの空き家はまだ使われているのか?


 様々な疑問と憶測が脳内で飛び交う中、隣でしばらく黙っていた雪音は少しの間を置いて不意に口を開く。



「……あの二人は、姉が死んだ日、例の誕生日会には参加していたんですか?」



 問われ、俺は一瞬考え込み、すぐに答える。



「頭に虎縞模様の剃り込み入れた方の奴……城戸っていうんだが、アイツは誕生会には来なかった。確か、ばーちゃんの墓参りがあるとか言ってたような」


「もう一人のイケメンさんは?」


「瓜生は、一応あの場にいたけど……俺たちの輪には入らず一人でウロウロして、急にいなくなったりして、まともに参加はしてなかった気がするな。誰もあいつと仲良くなかったし、何しにきたのかよく分かんなかったっつーか……」


「ふぅん……少し怪しいですね、あの瓜生さんという方。姉と仲良くもないのに誕生日会に参加するだなんて、他に目的があったんじゃないですか? ──たとえば、姉を殺すために参加したとか」



 サスペンスドラマに出てくる刑事のごとく、顎に手を当てて憶測を告げる雪音。俺は眉をひそめ、「お前、急に何言い出すんだよ」と思わず低い声で問いかけた。


 しかし雪音は涼しげな表情で顔を上げ、淡々と答える。



「あの二人のどちらかが、姉を殺した可能性もあるということです」


「……はあ!? お前、今さら何言ってんだ!? 天音は俺のせいで死んだんだぞ! 俺を助けようとして、斜面から──」


「でも、実際に姉が死ぬ瞬間は見ていないんですよね?  キリさんは」



 まっすぐと確信を貫いた彼女に、俺は言葉を失った。

 雪音の言う通り、実際に天音が死ぬ瞬間というものを、俺は見ていない。


 八年前──喘息の発作で気を失って、目が覚めたらすでに天音は死んでいた。

 意識を失う直前に彼女が目の前から消えていたことから、てっきり俺のせいで天音が死んだのだと思い込んでいたが……確かにあの時、何かが川に落ちる音も、悲鳴のようなものも聞いた覚えはない。



(いや、でも、俺の意識はずっと朦朧としてたし……あいつが悲鳴上げる頃には、もう俺の意識がなくなってただけなんじゃねえのか……?)



 どく、どく。嫌な鼓動の音が、俺の胸を叩き始める。

 雪音は冷静に俺を見つめ、さらに続けた。



「私、あなたから姉が死んだ時の話を聞いて、確信したんです。姉を殺したのは、やっぱりあなたじゃないって。他の誰かがやったんだって」


「な、何言って……! 確かに俺は、天音が死ぬ瞬間を見たわけじゃない! けど、あれはどう考えたって俺のせいで起きた〝事故〟だろ!」


「そうですね、状況的には不運な事故です。事実、姉の死は事故死として処理されましたから。……でもね、キリさん。よく聞いてください。これは、家族から聞いた情報なのですが──」



 雪音は俺の主張を一度認めた上で、黒い瞳をまっすぐとこちらに向けた。うだるような暑さの中、つうと流れる冷たい汗。彼女は些か鋭い目付きで言葉の続きを語る。



「姉が死んだあの日、あなたが倒れていた現場には、が落ちていたそうです。それは姉の私物でした」


「……え?」



 じとり、嫌な汗は背中にまで滲み、俺の衣服を湿らせた。

 ビニールバッグ──確かに天音は、あの時そんなバッグを所持していたような記憶がある。だが、それに〝水が入っていた〟のは、明らかにおかしい。


 違和感に辿りついた俺の疑惑を確信に変えるように、彼女は更なる言葉を紡いだ。



「あなたの記憶の中では、意識を失う直前まで、姉は水を所持していなかったんですよね? けれど、後に見つかったあなたのそばには、水の入ったバッグが残されていた……それが何を意味しているか分かりますか?」


「……天音が……水を汲んで、持ってきたってことか……?」


「そうです。姉はあの時、急斜面の下の川で……そして、あなたの元にちゃんとんです。それなのに、姉は斜面から落ちて死んでしまった。おかしいと思いませんか」



 ぬるくて不快な風をまとって揺らめく木々。露呈されていく不審な過去の残り火。

 小さな火の粉はぱちりと弾けて、俺のそばの雑木林がざわめいている。


 天音は、俺を助けようとして斜面を降りた。

 でも、一度は無事に戻ってきた。

 なのに、斜面から落ちて死んでしまった──。



(待てよ……俺……今まで、とんでもない勘違いをして生きてきたんじゃねえのか……?)



 戦慄して黙り込んだ俺の目の前で、雪音は栗色の髪を風になびかせる。



「……姉を殺したのは、あなたじゃない。そしておそらく、事故死でもない」



 彼女は神妙な面持ちで視線を落とし、眉根を寄せた。そして明確に宣言する。



「姉は、別の誰かによって突き落とされ、殺された可能性が高いです。……あの日、ネバーランドにいた、誰かに」



 過去に灯る不審火の小さかった火の粉は、やがて俺の罪をも飲み込み、黒煙を上げて燃え広がり始めた。

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