第4話 右から二番目の夏

 衝撃的な事実に、まだ心が追いつかない。


 変わらず降り注ぐ蝉時雨。己の罪への糾弾だとすら思えていたそれも、今ではどこか無味無臭で味気なく感じる。頭上でとめどなく喚く蝉の声を拾い上げながら、俺たちは無言で足場の悪い坂道を上がって行った。


 程なくして、俺と雪音はとうとう秘密基地ネバーランドへと辿り着く。

 まだあの古い空き家が残っているのか定かではなかったし、残っていたとしてもきっと荒れ果てているのだろうと考えていた俺だったが──予想に反し、八年ぶりに訪れた基地は小綺麗にあの頃の原型を保っていたのだった。



「ここだ……ネバーランド……」


「どうですか? キリさん。久しぶりの秘密基地は」


「……あー……思ったより、荒れてないな……むしろ八年前より綺麗になってる」



 呟き、刈り取られた形跡の残る周辺の草に視線を巡らせる。ここに来るまでの道中、雑草は伸び放題で管理されている様子など皆無だった。だが、この基地の周辺だけは明らかに人の手によって草が刈り取られている。



(誰かが掃除してる……? まさか、さっきの瓜生と城戸がやったのか?)



 一瞬そんな考えが脳裏をよぎるが、俺はすぐにかぶりを振った。



(いや、そんなわけねえな……あいつら、全然汚れてなかったし)



 もし草を刈り取ったのがあの二人であれば、服や手が土で汚れているはず。そんな様子はなかったため、おそらく彼らが管理しているわけではないのだろう。ここには電気や水道が通っていないのだから、洗い流すことも不可能だ。


 俺は空き家に近付き、錆びついた窓から中を覗き込んだ。内部にはテーブル代わりのビールケースが置かれており、箒やカマ、スコップなどの道具、それから体育倉庫でよく見るマットのようなものが敷かれている。四畳半ほどの小さな一室のため、それだけでスペースがほとんど埋まってしまっていた。


 雪音もひょっこりと中を覗き込み、ふむ、と顎に手を当てる。



「誰かが住み着いているんでしょうか」


「電気もガスもないのにか?」


「であれば、誰かがここをラブホテル代わりに使っているのかもしれませんね」


「ラッ……!?」



 平然と告げる雪音に、俺はつい露骨に狼狽えてしまう。まずい、経験ないのバレる……と別方面の懸念をはびこらせ「そ、そうなのかもな……」とぎこちなく答えたところで、俺は気まずさから強引に話題を切り替えた。



「と、ところで、雪音……お前、なんで俺をここに連れてきたんだよ」


「それはもちろん、あなたをタイムリープさせるためですよ」


「はあ? タイムリープって……お前本気でそんなこと言ってんのか?」


「あら、信じてないんですか? 今からに行けるっていうのに」



 当然のようにのたまう彼女。俺は嘆息し、無造作に伸び放題の黒髪を掻いて眉を顰める。



「……そもそも、本当にそんなこと出来るんだったら、お前が自分で過去に戻りゃいいだろ。わざわざ俺に頼む理由がない」


「何言ってるんですか、大ありです。私、あなたより四歳年下なんですよ? 八年前いくつだと思ってるんですか」



 ばっさりと一蹴され、俺は「う……」と言葉を詰まらせた。


 言われてみれば確かに、八年前の俺たちの年齢は十歳。更に四歳年下の雪音は、当時六歳だったということになる。

 まだ小学校にも上がっていない年齢の彼女が、一人でこんな山の上まで登って来られるはずがなかった。



「……なるほど。それで俺に頼んでんのか」


「理解して頂けたようで何よりです」



 くすりと笑い、雪音は二つに結んだ髪の毛束を解く。星型の飾りがついたヘアゴムを手に取り、彼女はまた口を開いた。



「お話の中に出てくる〝ネバーランド〟って、どこにあるか知ってますか? キリさん」



 唐突な問いかけ。俺はほんの一瞬目を泳がせたが、記憶を辿ってすぐに答えた。



「……知ってる。〝右から二番目の星〟だろ」


「ふふ、正解。詳しいですね。キリさんもピーター・パンがお好きなんですか?」


「いや……昔、天音が俺に教えてくれたんだよ。アイツがよくピーター・パンの話してたんだ。この秘密基地に〝ネバーランド〟って名前付けたのも、天音」



 目を細め、俺は呟く。


 右から二番目の星──童話『ピーター・パン』の中で、ネバーランドがあるとされている場所だ。

 天音は昔から、ピーター・パンの話をよくしていた。本も映画もしょっちゅう見ているのだと言っていた気がする。


 雪音はしばらく黙っていたが、やがておもむろに俺の手を取り、先ほど解いたヘアゴムを俺の手首に通した。



「……? これは……」


「キリさん、知ってますか? ピーター・パンは自分の影を追いかけて、窓からウェンディヒロインのお家に侵入するんですよ」


「え……」


「そのあと、ティンカー・ベルが妖精の粉を振り撒いて魔法をかける。空を飛んで、窓から飛び出した彼らは、右から二番目に輝く星──ネバーランドをめざす」



 言いながら、雪音は秘密基地の錆び付いたを開いた。鍵すらかかっていないそれは容易く開き、ぬるい風が室内に吹き込んでいく。



「あなたはピーター、姉はウェンディ。そして私は、あなたに魔法をかけるティンカー・ベル」


「……俺が、ピーター……?」


「そうよピーター、あなたがあの星の中に取り残されたウェンディを救うの」



 すっかりティンカー・ベルになりきっている彼女は、楽しげに破顔して開いた窓の淵に俺を押し付けた。息をのみ、俺は雪音の瞳に射抜かれる。


 しゃらり、先ほど手首に通されたヘアゴムの星飾りが揺らいだ。



「大丈夫。飛ぶのに必要な妖精の粉おまじないは、もうかけたよ」


「雪──」



 とんっ。


 刹那、強く胸元を押されて体が傾く。ぐらりと視界が反転し、俺は目を見開いたまま背筋を這う浮遊感に戦慄した。


 傾いた体は窓枠を越え、秘密基地ネバーランドの中に落ちていく。



(うわ、やべっ、頭打つ!)



 そう危ぶみ、次なる衝撃に備えて強く目を閉じた──が、その直後。


 耳に届いたのは、聞いたことのある幼い声だった。



「ねえ〜、キリちゃん。お薬飲まなくていいの〜?」


「……へ?」



 聞き覚えのある間延びした声。聞き慣れているようで、どこか懐かしいその声。

 恐る恐るまぶたを持ち上げれば、目の前にはこちらを見る真里奈の姿があった。しかし、普段よりも背が低く、見た目も幼い。



「……っ、え!? ま、真里奈!? おま、何でここに……てか、なんか背ぇ縮んだ!?」


「んん……? なに言ってるのぉ? キリちゃん。マリナ、大きい方だよ? 一四〇センチあるもん」


「お、大きいって……たった一四〇センチで!?」


「ふふ、なあに、キリちゃんったらぁ。さては、いま台に乗ってるから、マリナより大きくなったつもりでいるんでしょ〜。まだ一三五センチしかないもんね〜、キリちゃんは〜」



 くすくす、あどけない表情で真里奈が笑う。彼女の言うように、俺はなぜかビールケースの上に乗って、折り紙で作った輪っかの紙飾りを手に持っていた。

 状況が理解できず視線を泳がせる俺に、「ねえねえ、そんなことより、喘息のお薬飲まなくていいのぉ?」と真里奈は再度問いかける。



「ぜ、喘息の薬……? 何言ってんだよ……俺、もう何年も喘息なんて……」


「──おーい、キリ! 大変だ! ヤブ子が怪我した!!」


「!?」



 刹那、真里奈との会話を遮って駆け寄ってくる足音。弾かれたように振り向いた俺の視界に入ったのは、なんと何年も会っていないはずのモッチーとヤブ子だった。



(……は!? モッチー!? ヤブ子まで……!?)



 背の高いモッチーと、赤縁眼鏡をかけて恥ずかしそうに俯くヤブ子。

 どこか既視感のあるその光景に困惑する俺を差し置いて、モッチーは更に続ける。



「どーしよ、キリ! めっちゃ血が出た! な、ヤブ子! 痛いよな! めちゃくちゃ大怪我だぜ!!」


「う、うぅ……あの、えっと、あのぉ……」


「……っ」



 ざわり、ざわり。胸の奥で妙な感情が渦巻いて、俺の脳裏に浮上し始めるひとつの可能性。



 ──知っている。この会話を、俺は聞いたことがある。



 喘息の心配をする真里奈。

 ほんの少しの切り傷で大袈裟に騒ぐモッチー。

 声に詰まってなかなか言葉を続けられないヤブ子。


 俺の記憶が正しければ、この後アイツが──。



「ふっ……何が大怪我だよ、紙でちょっと指切っただけじゃん。大袈裟すぎー。お兄ちゃんぶっちゃって、ばかみてー」



 程なくして、予想通りに横入りしてきたあざける声。十歳という年齢にしてはどこか大人びた雰囲気を醸し出すその声は、やはり俺の記憶と一字一句たがわぬセリフを紡ぎ出した。

 眉根を寄せて振り返ったモッチーの視線の先には瓜生が立っている。そして、俺はほぼ確信した。


 ──繰り返している。過去と同じやり取りを。



「はああ!? んだと、瓜生!」


「うわー、怒った。田舎の猿だー、こえー」


「おい、キリ! 何であんなヤツまで呼んだんだよ! 全然準備手伝わねーしムカつくし、むしろ邪魔なんだけど! マジで何しに来たんだアイツ!」


「……」


「……あれ? キリ? どうした?」



 きょとん。何の反応も示さない俺を、周りの三人が不思議そうに見つめている。揶揄したあとに一度離れようとした瓜生ですら、怪訝な表情で立ち止まって俺のことを見据えていた。


 一方で俺は黙り込んだまま、今の状況を紐解き始める。



『──大丈夫。飛ぶのに必要な妖精の粉おまじないは、もうかけたよ』



 ようやく冷静さを取り戻し始めた脳内には、窓の向こうへと俺を突き飛ばした雪音の言葉が蘇っていた。「まさか……」とか細く呟いた俺は、即座に顔を上げてビールケースから降りる。



「え、ちょっ、キリ──」


「おい、真里奈! お前、確かケータイ持ってたよな!?」


「えっ? う、うん……」


「ちょっと貸せ!」



 焦りばかりが先行して思わず語気を強めてしまう中、おずおずと差し出された折りたたみ式のジュニアケータイ。半ば奪うようにそれを手に取り、すぐさま中身を開いた。


 表示された日付と時刻は──二〇〇四年、八月十日、午前十一時三分。



「……うそ、だろ……?」



 それはまさしく、八年前の天音の誕生日と同じ日付だった。

 疑惑が明確に確信へと変わり、こめかみに浮かんだ汗の雫が、つうと肌の上を伝っていく。


 今は関わりの薄い同級生。

 過去の日付。

 以前と同じ会話のやり取り。


 ああ、俺、本当に──



(俺、本当に……っ、タイムリープしちまってるのか……!?)



 窓枠を越えたピーターパン。脳裏で笑うティンカーベル。


 いたずらな妖精に魔法をかけられて、右から二番目に輝く夏の中へと辿り着いた俺が窓越しに見上げた空は、まだ、憎らしいほどに青かった。

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