第一章

第1話 腐った花緑青

 これは、人が死ぬ暑さだ。


 直射日光が照りつける灼熱の朝。全身からとめどなく汗を流す俺は、無造作に伸びた黒髪を振り乱し、ぜえぜえと息を上げながら眉間を伝う雫を手の甲で拭い取る。


 膝に手をついて足を止めた俺の背後からは、「おーい、神田かんだ! お前根性ねえなー!」と揶揄やゆする声が楽しげに投げかけられた。


 密やかに舌打ちをこぼし、俺はふらりと顔をもたげる。



『コラァ、神田かんだ きり! お前、まーた休憩してんのか! ただでさえ出席率低くて単位ギリギリなんだぞ、夏休みの補講ぐらい気合い入れろ! はいもう一周!』


「……あ~~……くそうるせえ~~……」



 わざわざ拡声器を使って名指しで怒鳴る体育教師に辟易しつつ、俺は重たい足を引きずって再び校庭を走り始めた。


 ──二〇一二年、夏。


 本来ならば夏休み。

 家でダラけているはずの七月の終わり。

 しかし、俺──神田 桐は、〝一学期に体育の授業をサボり過ぎたことによる補講〟という地獄の刑を執行されている真っ只中であった。


 年々気温がその脅威を増している炎天下、砂漠の真ん中のように陽炎かげろうゆらめく校庭を、現在こうしてひたすら走らされている。


 俺以外の連中は常習的な服装違反でお馴染みの、素行不良がカッコイイと勘違いしたイキりヤンキーの油カスばかり。

 単純に出席日数が足りておらず、友達すらまともにいない不登校ボッチ陰キャである俺は、ヤツらに娯楽を与えるための格好の餌だった。



「おーい、カンキリく〜ん。お前引きこもってゲームばっかしてるせいで全然足動いてねーぞ! もっとチャキチャキ走れ!」


「陰キャくん頑張れよ〜、お前だけあと十周な!」


「そこで転けたら笑い取れんぞカンキリ! 今だ、ほら!」


「わははは!」



 どいつもこいつもうるせえな──雑音に等しい不良ゴミ共の声を聞き流しながら、汗まみれの顔を歪める。


 〝カンキリ〟とは、カンダ・キリの略称らしく、不登校気味の俺をからかう際にゴミ共がよく用いる名称だ。

 昔の俺ならそう呼ばれた時点で殴りかかりに行ったのだろうが、今ではそんな気力も湧いてこない。


 根性も、感情も、人生も。

 俺という人間の全てが腐っている。



(……どっちがゴミなんだか)



 肺が痛み、足が鉛のように重くなる中、俺は青すぎる空を直視しないよう地面ばかりを見つめて、残りの周回を終えたのであった。




 *




「──お疲れさまぁ、キリちゃん! これ差し入れっ!」



 ぐったりと疲れ切った俺が補講を終えて昇降口に差し掛かった時、夏らしいレモン柄のシフォンワンピースをふわりと膨らませた女子がにこやかに声をかけてきた。

 普段見慣れない私服姿の彼女は、綺麗な黒髪を耳にかけ、冷えたスポーツドリンクを手渡してくる。俺は目を細めて彼女を見据えた。



「……真里奈まりな。お前、わざわざ学校まで来て俺の補講が終わるのを待ってたのか? 暇なヤツだな」


「うん! だってほら、キリちゃん体力ないし、途中で倒れたらマリナが介抱しないと〜って思ってぇ……」


「倒れねーよ、別に」



 はあ、と嘆息しつつ、俺は手渡されたスポーツドリンクを受け取って鞄にしまう。


 彼女の名は、長谷川はせがわ 真里奈まりな

 小学生の頃から関わりのある同級生で、何かと俺に構ってくる幼なじみの女子だった。真里奈はホクロのある唇をにこりと緩ませて破顔し、俺の荷物を取り上げる。



「キリちゃん、疲れてるでしょ? 荷物、マリナが家まで持ってあげる!」


「は? いやいいよ、俺一人で帰るし……つーかお前、この後用事あんだろ?」


「え? ないよ?」


「はあ? じゃあ何でそんなオシャレしてんだよ」


「え〜? それは、その〜、キリちゃんに会えると思ってぇ……」



 真里奈は些か視線を逸らし、もじもじとはにかみながら頬を赤らめている。俺は眉根を寄せ、「なんだそりゃ」と首を傾げつつ靴を履き替えて昇降口を出た。


 建物の影から出た途端に照りつけてくる直射日光に顔を歪め、やかましい蝉時雨の中を進んでいく。真里奈は当然のように俺の隣に並び、何が嬉しいのかにこにこと微笑んでついてきた。



「キリちゃん、補講は大丈夫だった? 周りの人にいじめられなかった? 嫌なことされてない?」


「別に」


「補講の対象者って、城戸きどくんとか、瓜生うりゅうくんとか、小学生の頃からちょっと荒れてる人たちばっかりだったんでしょ? あんまり近付かない方がいいよぉ、マリナ、さっき城戸くんから声かけられて怖かったもん」


「ああいうバカ共には全然興味ないから」



 彼女の投げかけてくる話題の根元をことごとくへし折り、俺は淡々と前へ進む。花壇に植え込まれたサルビアの花は、青葉を揺らす銀杏並木いちょうなみきの下で俺たちを見つめていた。



「もー、キリちゃんったら相変わらず冷たいなあ。人がせっかく心配して様子見に来てあげたのに」


「誰も頼んでねえし、心配とかいらねえ。迷惑」


「えー、でもさあ、城戸くんとか瓜生くんって昔からすっごく意地悪だったでしょ? 心配だよぉ。キリちゃん体力ないから、カツアゲされたらボコボコにされて泣いちゃいそう」


「……」


「ほら、覚えてる? 城戸くんって顔に傷があるからみんなに怖がられてて、まさしく悪のボス! って感じで取り巻きまで居てぇ〜。小学生の頃なんてほんと意地悪で、毎日誰かの下駄箱に砂入れてやられた人の反応見て楽しんでたし──」


「真里奈」



 しつこく会話を続けようとする真里奈の声を、俺は語気を強めてぴしゃりと遮る。

 サルビアの赤に視界の両端を占拠されながら、俺は足を止めた。



「……小学生の頃の話はすんな」



 りん、りん。どこからともなく耳に注がれた風鈴の音が、風に乗せられて二人の間を吹き抜けていく。


 真里奈はそれまで浮かべていた笑顔を消し去り、口を閉ざした。……が、ひとつ間を置くと再び息を吸ってそれを開く。



「……キリちゃん、やっぱり、まだ引きずってるんだね」


「……」


「小学生の時、天音あまねちゃんが死んだこと」



 アマネちゃん。その名を告げられて、俺は一層鋭く真里奈を睨む。

 しかし、彼女は怯む様子もなく俺に続けた。



「ちょうど夏休みだったもんね、天音ちゃんが死んじゃったの。小学四年生の時かな……もうすぐ命日だね」


「……」


「あの日から、みんなおかしくなって、みんなバラバラになった。すごく悲しい事件だったのは分かるし、マリナだって、まだ天音ちゃんのこと思い出すとツラいよ。……でも、みんな今年で十八歳……もうそろそろ、あの事件を乗り越えないと……」


「……やめろ……」


「一番変わっちゃったのは、キリちゃんだよ。昔はみんなのリーダーみたいな存在だったのに、学校いかなくなって、みんなと距離置くようになって、どんどん一人になって……そんなんじゃ、天音ちゃんもきっと心配す──」


「やめろよ!! お前に何が分かんだよ!!」



 思わず怒鳴り、俺は真里奈から自分の荷物を強引に奪い取って地面を蹴った。「キリちゃん!」と背後から叫ぶ彼女の声も無視して、一目散に帰路を駆け抜ける。


 じりじり、照り付ける太陽の光がアスファルトの中に埋め込まれた微細な粒子をきらめかせていた。

 俺は少ない体力で坂道を駆け上がり、息を荒らげて、また額に浮かび始めた汗を片手で拭い取る。


 頭上には、憎らしいほどまばゆい花緑青はなろくしょうの空。

 濁って映って久しい夏空は、まるで俺を責め立てているみたいだ。



「……大人になんか、なりたくねぇんだよ……」



 情けない呟きが漏れて、俺は無造作に伸びた長い前髪を握り込み、その場にくたりとしゃがみ込んだ。



 ──八年前。

 忘れもしない、小学四年の夏休み。


 ド田舎の山の中で育った俺の母校は、全校生徒が五十人にも満たない小さな小学校だった。当然クラスも一学年に一クラスしかなく、クラスメイトは俺を含め七人。


 その中にいたのが、俺の初恋の人──鹿江かのえ 天音あまねである。



『ねえねえ、キリちゃん! 今日、クラスのみんなで私のお誕生日会やってくれるんでしょ!? ホント!?』



 八月十日の朝。色素の薄い栗色の地毛を二つに結い、天音は俺の家へと押しかけてきた。

 リーダー気質だった当時の俺は、クラスメイトを巻き込んで天音の誕生会を秘密裏に開催しようとしていたのだ。


 しかし誰かが情報を漏らしたらしく、サプライズのつもりだった誕生会の計画は見事に本人にバレていた。



『あっ、誰が情報漏らしたんだよ! 言うなって言ったのに!』


『ふふん! なんと城戸くんが教えてくれたのだ!』


『はあー!? くっそ、城戸め……! あいつ今日の誕生日会に来られないから、腹いせに嫌がらせしやがったな!』


『ふふふー、でも嬉しいなあ。みんなを〝ネバーランド〟に招待するんでしょ? きっと喜ぶよ!』



 無邪気に笑う天音は、俺たちの秘密基地──通称『ネバーランド』へとクラスメイトを招くことを楽しみにしていた。

 サプライズは失敗したものの、喜んでいる様子に俺はほっと安堵する。用意しておいた招待状。それも、無事に彼女の手に渡った。



『じゃ、天音。お昼の十二時、ネバーランドに集合な!』


『イエッサー! 楽しみでございます!』



 おどけて笑う天音と、得意げにはにかむ俺。

 あの日の俺はただ、好きな女の子の喜ぶ顔が見たくて、誕生日会の招待状を君に手渡したんだ。


 あの日、空は青かった。

 どこまでも澄み渡っていた夏空。


 あんなにも嬉しそうに微笑んでいたはずの彼女が、数時間後、呆気なくこの世を去ってしまうことになるなんて──きっと、誰一人、想像などしていなかった。




「……ん……」



 じーわ、じーわ。蝉の鳴く声がやたらと近距離から耳に届き、俺は閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げる。


 俺のぼやけた視界には、チカチカまたたいて揺れる木漏れ日と、まだはっきりと視認できない誰かの顔が映り込んでいた。


 ふわり、鼻孔をくすぐるシャンプーの香り。

 誰だろうかと思案したところで、真っ先に浮かんだのは先ほど置いてきた真里奈だ。後頭部に感じる柔らかな感触的に、どうやら膝枕をされているらしい。


 そんな己の状況を分析した直後、目の前の人物が不意に俺を見下ろす。



「あ、起きました?」


「……っ!?」



 ところが、耳に注がれた声は全く知らない女の声だった。たちまち焦燥に駆られ、一瞬でパニックに陥った俺は弾かれたようにその場から飛び退く。


 しかし焦りばかりが先行した結果、俺の手は着地点を大きく見誤り、気がつけば体ごとベンチからずり落ちて虚空へと投げ出されていた。



「う、わああ!?」


「きゃ!」



 どんっ。派手に響いた落下音。

 地面をつついていたキジバトが飛び去っていく羽音を耳で拾い上げつつ、俺は眉間にシワを寄せて「いって……」と声を漏らした。


 すると女は目の前で屈み、俺に向かって手を差し出す。



「だ、大丈夫ですか? キリさん」


「……っ、あ、ああ、大丈──」



 ……ん? あれ?

 いま、俺の名前呼ばなかったか?


 はたりと瞳をしばたたき、思わず硬直してしまう。正面の彼女を改めて凝視すれば、色素の薄い栗色の髪を二つに結ったあどけない顔立ちの少女の姿を視界が捉えた。


 なぜだかその姿が生前の天音の姿と一瞬重なって見えてしまい、俺は息を詰めてかぶりを振る。



「……? どうしました? まだ気分が悪いですか? さっき、道路の真ん中で意識が朦朧としてたんですよ。声をかけたらこっちにきて倒れ込んでしまったので、お水飲ませたらそのまま膝で寝ちゃいました」


「はっ……? お、俺が、自分であんたの膝に寝たのか!?」


「ええ、そうです……正直、最初は変質者かと思いましたよ」


「わ、悪い……すみません……」



 思いもよらない自身の行動を猛省しつつ、見ず知らずの女子にか細く謝る。


 何をやっているんだ、俺は。

 暑さで脳みそがやられたのだろうか。


 じーわ、じーわ、喚く蝉の煩わしい声に鼓膜を叩かれ、ようやく冷静さを取り戻し始めた思考。やがて、木漏れ日の下でこちらを見つめている彼女におずおずと口を開いた。



「そ、そんなことより、あんた……なんで、俺の名前知ってんの……」


「え? ああ……ごめんなさい、びっくりさせちゃいましたよね。私、キリさんの幼なじみのなんです」


「……妹?」



 改めて彼女へと視線を戻した俺は、〝幼なじみの妹〟だと名乗る彼女に怪訝な表情を向けた。幼なじみ連中の家族構成はだいたい把握しているつもりだが、こんな妹がいる奴なんていただろうか。


 着ている服には隣町の私立中学の校章が入っている。つまり中学生──最低でも三個以上は年が離れているはずだ。

 だが、やはり誰の妹なのか思い当たらない。



「あー……悪い。全然誰の妹なのかわかんねえ。俺、いま小学校時代の連中とまともに会ってねえし……」


「ふふ、分からなくて当然ですよ、直接的な面識はないですから。小さい時、姉からよくキリさんのお話を聞いていたので、私が一方的に知っているだけです」


「え? 姉、って……」


「──私、鹿江 天音の妹なんですよ」



 カノエ アマネ。


 その名が耳の奥へ侵食してきて、瞬時にひゅっと息が詰まった。

 根を張るようにじわじわと、鼓膜の向こうまで反響して何度も繰り返されるその名前。


 カノエ アマネ。カノエ アマネ。


 まるで呪いのように、俺の体内の奥深くまで木の根が張り巡らされていく。


 キリちゃん、と鈴の音のようにからころ笑うその顔が、今でもしつこく脳裏に焦げ付いて。

 じりじり、じりじり、黒煙を上げながら俺の頸髄けいずいを焼き始める。


 ぶわり、全身から冷たい汗が噴き出すのが分かった。

 あれほど暑いと辟易していた気温すらも感知出来なくなり、体が冷え、血の気が失われていくのも分かる。


 胃液すら込み上げそうになって、俺はたまらず荷物を掴むとすぐさま立ち上がって背を向けた。



「……悪い。帰る」


「え?」


「それじゃ」


「えっ、あのっ……ま、待ってください! どうしてそんな急に……!」


「いいからついてくんな!! アイツの妹と話すことなんて何もねえ!!」



 感情の制御が出来ずに思わず怒鳴ってしまい、しかしそれでも俺は振り向かず歩き続ける。

 早く、この場から逃げなければと思った。これ以上は体が持たないと本能的に察知できた。


 汗ばんだ肌に赤い蕁麻疹が浮かぶ。

 呼吸の仕方も分からなくなる。


 けれど、頼むから放っておいてくれと願う俺の傲慢な望みを、彼女は決して許してくれない。



「──八年前、姉は死にました」



 五月蝿うるさい蝉時雨の中でも耳に届いたその声は、鮮明に鋭さを増して放たれ、俺の足を縛り付ける。青ざめたまま動きを止めた俺の背後から、こつこつとアスファルトを踏むローファーの音が近寄ってきた。



「十歳の誕生日に、地元の子ども達が大人に隠れて作った〝秘密基地ネバーランド〟と呼ばれる古い山小屋の近くで──姉は、死んだんです。死因は、山の急斜面から滑落し、頭を強打して川に落ちたこと」


「……っ」


「もちろん知っていますよね、神田 桐さん。……だって、あなたは、んだから」



 どく、どく、どく。

 わんわんと泣き叫ぶ蝉の音も耳に届かぬほど、己の心臓が早鐘を刻んで胸を叩く。


 ──キリちゃん。


 そう呼びかけるカノエ アマネの呪いは、ここまでこけむして腐り切った俺を、まだ蝕もうとするのか。



「……神田 桐」



 本名を紡がれ、こめかみを伝った汗の雫が、ぱたりとアスファルトに落ちて。


 彼女はついに、俺の呪いの核をえぐった。




「──あなたが、姉を殺したんでしょう?」




 じーわ、じーわ、じーわ、じーわ。

 蝉の声がようやく鼓膜を叩いて、俺は諦めにも似た虚無感を抱えたまま手に持っていた荷物を地面に落とした。


 あなたが、あねを、ころしたんでしょう。


 幼い頃の彼女とよく似たその声が、俺の消えない罪を振りかざして頭の中を殴打する。


 囚われたように一歩も動けず、俺は立ち止まったまま、渇き切った喉を震わせた。



「……ああ……」



 素直に答えて顔をもたげた俺の頭上から、こちらを見下ろす夏の空。


 あの空の本当の色が、今ではもう、どんな色なのか思い出せない。



「……そうだよ……俺だ……」


「……」


「俺が──」



 ──天音を、殺した。



 八年前の夏以来、濁った色にしか映らなくなってしまった視界の中。


 緑みを帯びてくすんだ、あまりに眩しい花緑青はなろくしょうの腐った空は、やはり、つんと俺の目に染みるばかりだ。

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