家庭内トラブルに隣人が突っ込むのはアリですか?
第26話 僕と私
父親から手紙が届いていた。
少し読んだところで、心臓がドクドクと鳴り始める。
内容なんてなくて、社交辞令が延々と続くだけの手紙。
半分も目を通さないうちに、握っていた手紙は紙切れになっていた。身体が小さく震えて、その場にしゃがみこんでしまう。めまいがした。世界がぐるぐるとまわって、胃の内容物がせりあがってくる。
う、ぇ。
「にぃちゃん。大丈夫?」
「その手紙、誰から来たの」
「……にぃちゃんの父親だな。手紙だけは、たまに寄越してくるんだ」
美鶴と、泊まりに来ていた神野に助け起こされた。
背中を摩られて、水を飲まされて、ぐったりしたまま僕は部屋へと運ばれる。
甘いものを持ってくるから、とふたりが部屋を離れた隙に身体を起こす。
今日はもう、耐えられそうにない。
「無理だ、無理だ、無理だ、無理だ」
耐えられない。壊れたくない。生きたまま死にたくない。
吐き気をこらえながら机の引き出しを開く。この前、松崎の前で取り落としてから封印していたタバコの箱を手に取って、自分の指よりも短くて細い棒切れをつまみあげる。残り少なくなったライターのオイルでも火が付くことを確かめて、震える手で煙草を口元に咥える。
そして、僕は
「やめなさい」
肩を掴まれて、窓辺から引き離される。
咥えていたタバコも、火をつける前に唇から取り上げられた。
寄せてきた彼女の顔はこれまで僕に向けられた表情の中で、もっとも怖くて、綺麗だった。
「もう一度だけ、父親と向き合ってみたら? ひょっとしたら、事態が好転するかもしれないじゃない」
「……この前、手紙が来たのは半年前なんだ」
「それは普通のことなのか、変なことなのか、考えてみた?」
「…………」
「嫌いな相手とはね、縁を切るか、関係を改善するしかないのよ」
どんな相手だろうと、この世から存在を消す魔法があるわけじゃない。だとしたら彼女の言っていることは正論もいいところで、僕は返す言葉も見つからない。家庭内トラブルに、事情を知りもしない隣人が首を突っ込んできたら僕は敬遠するだろう。
でも、それが親しい友人だったとしたら? 嫌われたくないと願う気持ちはしたたかな損得勘定を始めて、けれど僕程度の人生経験ではどちらに転んでもマイナスで、何が起こってもプラスになると矛盾した予測しか立てることが出来ない。
神野に肩を掴まれたまま、遅れてやってきた妹にも視線を向ける。
美鶴は小さく首を振った。僕に決断しろというのか。こんなにも辛いことを。
「私が傍にいてあげる。それじゃ、ダメ?」
「でも」
「見た目の通りに超真面目、優等生な神野サマを信じなさい」
「でも……」
走馬灯のように思考を横切るのは神野と過ごした時間だ。たった半年の間に、彼女は他の誰よりも僕と仲良くなった。触れ合った時間も交わした言葉の数も、世界の誰より多いだろう。
神野が傍にいてくれるなら。
家庭内トラブルに隣人が突っ込んでくるのも、アリだと言えるかもしれない。
震える指先で、僕は窓の外を指差す。
窓を開けた先には平屋建ての隣家の屋根が見えていた。今日も赤茶色に錆びついているその屋根の向こう側には、一ノ瀬家と同じ二階建ての家があって、閉じたカーテン向こう側に神野の部屋があることを、今の僕は知っている。
僕はゆっくりと、視線を下に下ろした。腕もゆっくりと、下へ向けていく。
チクリと、鋭い痛みが心臓に走る。
ずっと無視していたもの、視界に入っていて、認識もしていて、だけど特別に触れようとしてこなかったものと、僕は向き合うべきなんだろうか。その答えは、たとえ正解を示されたとしても納得できるのか分からないけれど。
窓を開ければ視界に映り込む、隣家の赤茶色の屋根を指差した。
「ここなんだ」
「え?」
「この、隣にあるのが、僕の家なんだ」
錆びついた屋根を指差したまま、僕は動かない。
神野が小さく息をのんだのを見て。
あぁ、ちょっと驚いんだな、と思った。
人生色々だ。
二乃は父親と違う家で暮らしている。私も家族とは離れているけれど、隣の家で住むなんてことはやっていない。いや、ホント。マジで、どういうことだ。表札も掲げられていない家が誰の家かなんて、私には予想することもできなかった。
「それで、本当にいいのね?」
二乃は頷いた。
ぷるぷると、生まれたての小鹿のように足元が震えている。
今日はこれから、二乃の父親に文句を言いに行く。彼女の話を聞いた限りでは、直接に会話をするのは小学校を卒業して以来、三年半ぶりらしい。
いや、違うか。
言葉は相手に届いて初めて意味を持つ。二乃が父親と心に残るような意思疎通をしたのは彼女のトラウマになっている日のものだけで、それ以外のすべては壁打ちに過ぎないのだ。会話が存在しなかった二人が、初めて言葉を交わす。それが今日だ。どうか、彼女の人生が好転してくれればいいのだけど。
対話が不可能な相手がいることを、私は知っている。
だからせめて、彼女が倒れるときに、支えてあげたいと思った。
「それじゃ、準備はいいわね」
二乃の返事を待たずに、私はインターホンを押した。一ノ瀬家の面々とも相談して、事前に訪問する時間は彼女の父親に指定してある。これで家に二乃の父親がいなければ、そもそも彼女の勇気も無駄になってしまう。あり得ないことだとは思うけれど、娘とまともに向き合ったこともない父親だ。どんな思考回路をしているか、分かったものではない。
緊張の時間は続く。
握った彼女の左手が汗ばみ始めたころに、玄関が開いた。
「……いらっしゃい」
扉の無奥に立っていたのは、特別目立つところのない男の人だった。
無精ひげを生やした中肉中背の男性。
なで肩で、くたびれた灰色のシャツを着ている。
二乃は、母親に似て育ったらしい。
「入るかい?」
「いいえ。このままで失礼させていただきます」
咄嗟に割って入ったことを後悔する。けれどこれで良いだろうと私は思った。
二乃は心が弱いから、負担に耐え切れずにつぶれるかもしれない。
私がクッションになろう。彼女が壊れてしまわないように。
自動車が数台、家の前の道路を走り抜ける。
二乃はぽつぽつと話し出した。
「ぼ、ぼくは、あなたが嫌いです」
私の手に二乃の爪が食い込んだ。痛くはない。二乃を心配する気持ちが勝っている。平然とした表情を崩さずに言葉の続きを見守った。
「手紙、ばっかりで。形式だけの、つまんない手紙で」
「形式は大事だろう? それに、電話をかけてもはじめは出てくれないだろうし」
「ずっと、無視していたくせに。ぼくを、愛さなかったくせに」
「そんなことはないよ。僕は君のことが好きだった」
「バカなこと言うなよ。だったら、どうして、褒めてくれなかったんだ。撫でてくれなかったんだ。抱きしめてくれなかったんだ」
「仕方なかったんだ。仕事が忙しくて」
瞬間、二乃が沸騰した。
彼女が父親を、私と繋いでいない方の腕で殴り飛ばしたと気付いたのは、彼が呻きながら後退さった後のことだった。握っていた手をそっと離して二乃の震える背中に手を当てると、彼女は堰を切ったようにしゃべり始めた。
「嘘つき。僕はずっと覚えている。あの日、僕が『女の子が好きだ』ってことを自覚したあの日から、アンタの態度が変わったことを。それまでよりずっと、悪くなったことを。なんで女の子が好きじゃいけないんだ。普通にしていちゃいけないんだ。ただの一度もアンタに、アンタの子供として愛してもらっていないのに、どうして人間としても否定されなくちゃいけないんだ。僕はただ、たった一度でも、一度でもいいから……」
「誤解だよ。そんなことは一言も」
「黙ってよ。ぼくは、ぼくはっ!」
「でも世間の目って奴は」
乾いた音が響く。
今度は平手打ちだった。
「誰かを好きになるのに、知らない誰かの許可なんか必要ないだろ!」
それは誰に向けた言葉なんだろう。言葉を吐き捨てて二乃は一ノ瀬家へと戻っていく。変わらない世界に取り残された父親と、まだ変わり切っていない世界になじめない娘。
親子間の断絶は深くて、一朝一夕に乗り越えられるものではなかったらしい。
「今日はおしまいね。また、今度にしましょう」
「……次は、暴力なしで頼むよ」
「えぇ。あなたが嘘を吐かなければ、ね」
彼の返事を待たず、二乃が住んでいた家に背を向ける。
悲しい結末だ。私が首を突っ込んだところで、すべてが丸く収まるわけもなかったのだ。
二乃は認められたかった。ありのままの自分を愛してもらいたかった。
父親が自分と同じ感性を持つ必要はない、それは彼女も思っていただろう。
ただ、知ってほしかったんだ。
「ひとつだけ、私からあなたに言いたいことがあるわ」
扉を閉めて、家へと戻ろうとした二乃の父親に声をかける。彼の責任とか、親としての態度とかに文句をつけるつもりはない。大人だもの、そのくらいは自分で考えるべきだ。
だけどこれだけは伝えておこう。
「時代も、人も。時を経て、変わっていくものなのよ」
真実の愛を探し求めるのが人生なら、きっと失恋する人も大勢いるのだろう。そして誰が誰を好きになるかなんて、神様にだって決められないはずだ。
彼女は女の子が好きな女の子で、それが普通として受け入れられる家庭であること。それが、どうして高望みになるというのだろうか。私の言葉を、きっと十全には理解していないだろう彼は、小さく頷いて扉を閉めた。
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