第25話 意地悪と僕


 食べ歩きでショッピングモール内を散歩していたらぱらぱらと雨が降り始めた。携帯で天気予報を調べてみたら夜にかけて雨脚が強まるらしくて、仕方なく家に帰ることになった。本当は映画館へ行く予定もあったけれど、歩いていくには時間がかかるし風邪をひいてもつまらない。帰路についた僕たちは、神野の提案でそのままお泊り会をすることになった。普段と違って、僕が神野の家へ泊まらせてもらう格好だ。

 部屋の窓から覗いていたカーテンの向こう側が、僕の目の前にある。

 分厚い小説を読みこなし、成績も優秀な神野の部屋はさぞかし難しい本で埋め尽くされているのだろうと覚悟していたけど、現実は拍子抜けするほどに可愛い趣向が凝らされた部屋だった。僕の部屋からは見えなかったカーテンの裏地には綺麗な花が刺繍してある。ベッドやカーテンなどは基本的に緑系の色で統一されていた。

 目に優しげなところだ、で感想としてあっているだろうか。

 ご飯は僕の家で一緒に済ませて、色々とお泊りの準備を済ませてから先に帰った神野の元へ向かった。今は、お風呂に入っている神野が戻ってくるのを待っているところだ。

「お待たせ。着替えてきたわ」

「おかえり。お風呂はどうだった?」

「普通よ。いつも通り。あ、ちょっと待ってね」

 敷かれたカーペットに落ちていた髪の毛が気になったのか、彼女はコロコロで掃除をし始めた。今日は薄く紫色の花があしらわれた白いシャツを着ている。僕の家へ遊びに来るとき好んで着ていたミントグリーンの半袖シャツは洗濯機にでも入っているのだろうか。身体にぴったりフィットする服は好きじゃないのかも。そして、今日の下着もライトグリーンで統一しているんだな、とか思った。

 いつぞやと違って僕をからかうつもりなどなく、普通に見えているだけ、なんだろうか。

 聞きたくねぇ。

「よし、掃除終了。これでだらけても大丈夫よ」

「ありがと。僕的には他にもっと気になることがあったんだけど」

「あぁ、あれのことね。あのぬいぐるみ、文世の趣味だから」

 彼女があごをしゃくった先には、小学生低学年の子供くらい大きなくまさんのぬいぐるみがあった。古いものなのか毛羽だっているけれど目立つ汚れは見つからない。こまめに洗っているのだろうか。

 洗濯機で輪舞するくまさんを想像したら、なんだか笑ってしまった。

「なによ、文句あるの? 私には似合わないかな」

「そんなことないよ。かわいい趣味だとは思うけれど」

「文句じゃなくて嫌味ってこと。今度、文世には伝えておくから」

「そんなつもりじゃない、って、僕をからかっていらっしゃる?」

 慌てて否定しようとしたら、神野の唇が不敵に吊り上がった。

 ぐぬぬ。

「さて、それじゃ映画の時間ね。私のオススメはこれ、上映するのもこれ」

「僕の意見は取り入れてくれないのかよ」

「二乃が決めると一時間はかかるでしょ」

 そんなことはない、と言い切れないのがダメだった。ここは映画有識者の神野に任せておくことにしよう。ポチポチと慣れたようにリモコンを操作して、彼女は映画を流し始めた。

 神野も丹瀬と同じ動画配信サービスの会員になっているらしい。定額で好きなだけ映画が見られる奴で、ご飯を食べるときに垂れ流しにすることもあるそうだ。インターネット様々な時代になったんだなぁ、と機械に詳しくない僕は感心するばかりだ。

 後ろに座った神野に後ろから抱えられながら、僕は映画を見始めた。

「?」

 状況が分かんないから内容もあまり頭に入ってこない。おかしいな、既に何度か見たことのある有名な映画のはずなんだけど。もう一度、説明しよう。僕は神野のベッドに腰掛けて、テレビの正面よりやや左に位置していた。そんな僕の後ろへと回りこんだ神野は、そのまま僕を抱きしめて映画の上映を始めたのだ。

 ちょっと顔を右へ向けると、そこには神野の顔がある。右耳に彼女の体温を感じた。

「いや、どうして」

「この映画の象徴的なシーンの真似」

 そんなシーンあったかな、と神野に抱えられたままに見進める。

 そして背中で分かる神野のアレやそれが頭をバグらせてくる。卑怯だぞ。柔らかいなんて。

「あんまり前屈みにならないでよ。そのまま潰しちゃうから」

「うぅ……」

 頑張って映画に集中しよう。思考は今、邪道なものである。

 神野がやっているこのポーズは、確かに劇中に存在していた。最序盤の、幼い兄と弟が仲良くしているシーンだ。家の納屋で兄弟は草刈り機の整備をしている。休憩をしようと兄が足を開いて座ったところへ、年下の弟が甘えたように座って、ちょうど僕らと似た体位になった。

 無垢な信頼感が伝わってくるいい場面だ。演じている俳優もイケメンだし。

「このシーン、宣伝ポスターにも使われていたのよ」

「そうだっけ。で、実際にやってみた感想は?」

「んー、期待したほどではなかったかな。二乃が逃げようとするから」

 そんなことを言われても、と唇を尖らせる。ぐっと背中で押してみたら、神野がふっと僕の右耳へと息を吹きかけてきて、腰が抜けそうになった。というか抜けた。

 閑話休題。

 父親と息子の対立、そして和解までを描いたヒューマンドラマだった。

 アメリカの片田舎で兄弟が成長していくところから物語は始まる。幼いころに母親をなくし真面目一辺倒な父親の元で育った兄弟は、反発心から都会へ飛び出して様々なことに手を出していく。都会に出てきて初めて仲良くなった友達から誘われるままに、ギャンブルも、女遊びも、父親から禁止されていたことはすべてやった。

 友達が火遊びをやりすぎたことで身を滅ぼすのを見た後で、彼らも仕事に精を出し始める。社交的な彼らは人間関係にも恵まれ、新規に事業を立ち上げるほどの成長を見せた。ほどなくして兄は女性との同棲を始める。淡く甘い恋だった。クリスマスの夜、ロマンティックな雰囲気から一転して、物語に暗い影が落ちる。

 兄弟は同性愛者だった。

 そして兄は、自分がそうゲイであることを認識していなかったのだ。

「あぁ、このシーンもよく覚えている。すごく胸が痛くなるんだ」

「苦しいなら休憩にしてもいいけど。それとも」

「大丈夫。この映画は好きだから」

 恋人との関係がこじれて、救いを求めた兄は見知らぬ街へ一人旅に出かける。

 そこで出会った、父親と同年代の男性と初めての夜を過ごして、兄はなぜ自分の相手をしてくれたのかを尋ねる。昔の恋人に似ていたから、と答えたその男性の写真を手に彼は弟を連れて地元へと戻っていく。嫌いだった父親から再三送られてきていた、帰ってくるようにとだけ書かれた手紙を握りしめて。

 幼いころを過ごした家で、病床に伏した父親に兄は尋ねた。

「なぁ、父さん。聞きたいことがあるんだ」

 ここからの台詞は、暗記するほどに印象的だ。僕が一番好きなシーンでもある。

「母さんは一体、どこへ行ったんだい?」

 父親も同性愛者であったこと、母親はそれを知っていて結婚したが、生活が長く続かなかったこと。そして兄弟は、父親の子供ではなかったことが明らかにされる。兄弟に窮屈な思いをさせていたこと、そして隠し事をしていたことを謝る父親と子供たちは互いの手を取り合う。

 固く、手を握り合った。

「それでも僕たちは、父さんの息子なんだよ」

 涙ながらの和解を果たした後、父親は天に召される。エンドロールは地元を離れ成功した兄弟たちが過去を回想して、幼い養子に自分たちの父親がどんな男だったかを誇らしげに語りながら終わる。

「人と違っても間違っているとは限らない。自分に正しく真っ直ぐに生きることだ」

 僕が聞きたかった、そして聞けなかった台詞を残して映画は終わる。

 本当にいい映画だ。好きな映画だ。だからこそ、悲しい気持ちになる。

 現実との落差が大きく、埋められないほどの溝があることに。

「手を貸して。二乃」

「どうぞ。片手だけ、ね」

「涙なら私が拭ってあげる。……冗談よ」

 分かっているとも、と強がりながら目尻をこする。

 ぎゅっと握られた手のひらの上を、彼女の細い指が動いた。ちょっとくすぐったいけど、おかげで肩から力が抜けていく。心地よい憂鬱に浸ったまま現実に戻れなくなってしまうこともあったし、ちょうどいい塩梅だ。

 学校をズル休みする日の前日にはこの映画を見ていることも多い。一度沈みきった後なら、多少の毒は受け流せるようになるし。少し回復して、また傷つくために社会へと戻っていくのだ。

 苦しさの連続が、僕の人生だったから。

 僕の、肉の薄いお腹をつついていた神野がその手を止めた。

「胸がつかえているなら、話を聞いてあげてもいいけど」

「……………………じゃぁ、ちょっとだけ」

 本当にちょっとだけ、神野には話しておこう。

 丹瀬にも話したことのない、深い、不快な話まで。

「僕は女の子が好きな自分を、他とは違うなんて考えたこともなかったんだ」

 小学校の頃までは、と区切りを入れる。

 同級生の誰それは誰これが好き、という話題が聞こえてくるたびに、なぜ彼女達は男の子のことを好きになるのだろうと疑問に思っていた。物心ついたころには母親がいない家で育っていて、学校で起きたことや、思ったことのすべてを僕は父親に話していた。

 壁に話しかけているようなもので、相槌もろくにしなかった父親から、その日は珍しく返事が返ってきた。あの日、父親と話をしていなければ、と思うこともある。今となっては、どうしようもないけれど。

「なんて言われたの?」

「やっぱり、血は繋がっているんだな、って」

 僕の母親は女性を相手に浮気をして、幼かった僕を残して家を出ていったそうだ。ものわかりが良くて、賢くて、大人しい。幼稚園の頃の先生にそう評価される僕の性格は、つまるところ物事に深入りせずに足踏みをするだけで満足する性質だったというだけの話だ。

 一度知ったら、無知な頃には戻れない。

「はじめは、ホントは誰の子供なんだろうなって」

 夫婦に愛の営みがなかったとして、母親が同性しか愛せなかったとして。

 僕はどうやって生まれたんだ。誰の子供として生まれたんだ。

 僕は、僕はただ。

「振り向いてほしかっただけで。だけど、伸ばした手を、……握ってくれなかった」

「そう。私は順風満帆な人生だったから、二乃の苦しみは半分も理解できないわ」

 知らないことだもの、と彼女は僕の手を握ったまま離そうとしない。

「でも、あなたの手を握ることはできるから。そうしてほしいなら、抱きしめてもあげる」

「それって、僕が好きってこと?」

 期待を込めて、胃袋がひっくり返りそうなほど緊張しながらも聞いてみたら両手の爪をお腹に向けて食い込ませてきた。積極的に近づいてくると思ったら照れて離れていくし、かと思えばからかってくるし。

「もー、なんなんだよ」

 それでも彼女は、僕にとってなくてはならない存在になっていた。

 身体をよじって神野へと身体を向ける。気力を振り絞って抱き着いてみた。抵抗もなく後ろへ倒れた神野は僕の腰へと手を回し、抱き合ったままに時間が流れていく。……僕の耳から出火してないかな。めちゃ熱いんだけど。

「うぐっ、うっ」

「二乃、調子に乗っているところ悪いんだけど言い忘れていたことを思い出したわ」

「んな、なんでございましょうか」

「ベッドはひとつしかないから。今日は私と添い寝してね」

「…………」

「そっちは禁止」

 無言で床を指差して雑魚寝の意志を示したら拒否されてしまった。

 今夜も彼女は、僕を寝かせてくれないのかもしれない。

 そんな意地悪な神野に、今日も僕は救われていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る