第22話 休み明けと僕


 夏休み明けの学校に行くのが楽しかったのは、いったい何時以来のことだろう。小学校は毎日が戦いで、中学校は毎日が憂鬱だった。それでも通い続けたのは丹瀬という少女が僕の友達でいてくれたからだ。高校生になってからは友達が増えて、幸福をかみしめる瞬間も増えてきた。

 だから、かすかな苦みにも敏感になる。

 授業で寝ぼけている間に、父親の背中を夢に見た。言葉が通じても意思が伝わらない相手がいることを、僕は家族と過ごすことによって知った。あの家は鋭い針でできた牢獄にも等しかったのだ。

 相手を否定するためには暴力も強い言葉もいらない。

 たった一言があれば十分なのだった。

 実の娘をたった一言で否定したあの人。

 僕は父親のことが――。

 沈んでいく気分を引き上げてくれたのは、夏休みに知り合った相手。立夏だった。

「ちょっと、起きなさい。授業終わったんだから」

「んあ。ごめ、あふ」

「返事するか欠伸するか、どっちかにしてよね」

 強めの言葉とは裏腹に、僕を揺り起こした手つきは優しかった。

 基本的に言葉も態度も尖り気味なだけで、親切な子なのだろう。

 立夏は待たせていた友達の元へと駆け寄って行って、そのまま教室へ帰っていく。ポニーテールが小さく揺れていて、僕も髪を伸ばしてみようかなと考える。洗った後に乾かすのが面倒で、やっぱりやめることにした。

 今の立夏のことを友達と呼べるかは怪しいけれど、互いに挨拶を交わすようになればあと一歩だ。その一歩が果てしなく遠いのは佐天のせいだけど、彼がいたから立夏に声を掛けられるようになった、と考えることもできる。疫病神と福の神を兼任しないでほしいなぁ、と文句を消しカスと一緒にまるめて捨てる。今日は居眠りをしていた分、ゴミも少なめだった。

 ふぁ、ひふ、へー、と欠伸の三段活用を披露してから席を立った。化学室の机は落書きだらけだったけど、居眠りをするのに汚れは関係ないからね。

 夏休みが明けて、一週間。土日を挟んだというのに休暇中の課題が終わっていない生徒は多くて、彼らは授業後に教師からの呼び出しを受けていた。運動部なのか、日焼けしている子が多いみたいだ。

 担当教諭の仕業だろう、黒板の隅に僕を含めた居眠り組の名前が、バツマークや怒りマークと共につけられている。下野君の名前もあった。授業中に怒られた記憶はないけれど、化学の先生は小心者だしな。期末の成績表で存分に睡眠学習の成果を示してくれることだろう。

 それいいのか。いいんだろうな。

 まぁ、僕はそういう奴だった。

 学校が始まって改めて理解したことも多い。神野にも、普通に友達がいたこととか。

 授業の合間とかに、彼女は僕の知らない誰かと喋っている。そして笑顔になって、唇を尖らせて、僕の見たことのない表情をする。ちょっと胸の奥が痛くなるせいで、僕の独占欲が垣間見えるのが嫌だった。

 あー、嫌だ。佐天とか下野君が他の子と喋っていても、何も感じないのにな。

 化学室から帰ってきて弁当を広げようとしたら、珍しく神野に話しかけられた。

「ちょっと、来なさいよ」

「なんで?」

「黙ってついてくる。ほら、立って」

 弁当、と言っても総菜パンとお茶のペットボトルを手に持って、先生に引率される幼稚園児のごとく向かった先にはクラスメイトの女の子達がいた。眼鏡の似合う子がふたり、弁当を広げている。

「今日から二乃も、私たちと食べること」

「なんで?」

「同じ質問を繰り返す子は成長しないわよ」

「それ、前にも聞いた気がするけど……」

 今日の質問は一回目のはずなのに、と十数秒前のことを惚けて見せる。彼女は席に着くと説明もなく自分のお弁当を広げ始めた。状況から推察するに、名前も分からないクラスメイトと一緒にお昼ご飯を食べることになったようだ。

 なんで?

「おー、不良だ」

「いや不良じゃないですけど」

「そうよ。この子、ちょっとワルなだけで普通にフツーな子だから」

「ホント? 私、パシられたりしない?」

 丸眼鏡の子が物騒なことを口走った。彼女は笑いながらタコさんウィンナーの足をちぎって食べている。ふむ、ヤバい感じの子だな。返す言葉が思い浮かばなくて視線を外すと真っ先に目に入ったのは下野君の背中だった。化学室から帰ってきた後も、彼は机に突っ伏して眠っている。あまりに見事な眠り方に誰も手を出せまい、と思っていたら佐天が下野君のカバンを漁り始めた。

 晒した首筋に菓子パンの袋を置いて、その上にペットボトルや何かを積み上げていく。バランスゲームみたいなものだな、佐天とその友達が一緒に盛り上がっているようだ。見かねた立夏が注意して、賑わしくなったところで下野君が目覚めた。背伸びとともに菓子パンがシャツの下に潜り込んで、悲鳴とともに彼は飛び上がる。

 一層騒がしくなった教室の中心から目をそらして、神野の友達と向き直ってみたら彼女達は僕をみてニコニコしていた。自己紹介でもしておこうかな。

「えっと、二乃です。二乃はじめ」

「よろしく。私は桐嶋! こっちは工藤」

 賑やかな方の丸眼鏡さんが桐嶋、喋ってない子が工藤というらしい。机に乗せた携帯につけたストラップの量からして、桐嶋は色んなアニメのファンのようだ。僕が来たときに軽く一礼したくらいでほぼ喋っていない工藤の方は、うん、どんな子かまったく分からないな。

 それは彼女達から見た僕にも当てはまる。僕らはまだ、知り合ったばかりだ。

「ははーん、分かったぞ。ちっひは僕っ娘萌えだったのだな!」

「変な話にしないで。二乃、こいつらのことは呼び捨てていいから」

「こいつらて。あたしも二乃って呼ぶから、テキトーでいいよ。それかニノン」

「カメラメーカーみたいな呼び方よりは本名で呼ばれた方がいいな」

 変な呼び方をしてくる女の子は丹瀬一人で間に合っている。あまり増えても、僕のツッコミスキルじゃ打ち漏らしが多くなって忙しないだけだ。

 恐る恐るといったていで、向かいに座る女生徒ふたりに目を配る。

「僕、お邪魔じゃない? 大丈夫かな」

「オッケー、モーマンタイ。てか、二乃こそいいの? あたしららと一緒で」

「神野ちゃんに無理やり連れてこられてイラついてない?」

「そんなことないけど。急だったから、ちょっとびっくりしたくらい」

「じゃいいや! でー、昨日のデンパなんだけど――」

 聞いたことのあるアニメタイトルだな、と思っていたら桐嶋の話は途切れることなく続いていく。相槌を打つタイミングもつかめないほど滔々と流れる彼女の台詞に面食らって、神野の顔色をうかがってみる。無表情に白米を掘り進めていた。これは常日頃から桐嶋が一人で突っ走って喋っているから、放置しても問題ないということだろう。工藤に至ってはほぼ無視するつもりなのか、桐嶋から見えない側の耳にイヤホンを装着し始めた。

 自由だな、この人達。

「シマは話し始めると止まらないし、すぐ身内ネタに走るから。困ったら放っておきなさい」

「しかも、その身内は桐嶋ちゃん一人だけだよ」

「ガラパゴスすぎるでしょ、それ。え、喋る意味あるの?」

「いいじゃん。今日からは二乃! 君が聞き役だ」

 言うが早いか、僕の相槌すら気にしていないように彼女はマシンガントークを再開する。これ、集まってお昼を食べる必要があるのか? と思わなくもない。でも理由もなく集まれるのは仲良しの証拠だから、と理屈をこねて大人しくご飯を食べることにした。

 家から持ってきた、小瓶入りの一味唐辛子を焼きそばパンに振りかけていたら工藤から変な目で見られた。やっぱり焼きそばに一味は変なのだろうか。今度は七味にしよう。

「みんな、弁当なんだね」

「そうだよ。でもちっひの弁当だけヤバいよね。デカいし」

「細いのに意外と食べるよねー。大食いに悪人なし、っていうけど」

「私は普通なの。あんた達が小食なだけ。大体、それどこの格言よ」

「でも食欲旺盛なのは事実だろ。この前だって」

「この前? 夏休みにちっひとどこか行ったとか?」

「あぁ、えっと、僕の家族が飲食店をやっているんだけど」

 一ノ瀬たこ焼き店で仕事を手伝っていることを説明したら、思っていた以上に話が盛り上がった。僕ばかりが喋ることになって神野はちょっとつまらなそうだけど、弁当を食べる手は止まらない。僕に友人が少ないことを危惧して連れてきてくれたのだろうか。ここから仲良くなれるかは僕次第だけど、心遣いは無駄にしたくないし。

 他人と話すのは楽しい。後から会話を思い出して羞恥心に悶える時間が苦しいだけで。

 よく食べる人に悪い人はいないんだなぁ、と他人の定規を借りて思うのであった。

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