第20話 紅茶と私


 ココアと紅茶、それに珈琲と三者三様に用意された飲み物の匂いが混ざって、喫茶店にでも来た気分だ。紅茶で唇を湿らせて満腹感に包まれたまま平和な時間に浸る。

 スティックコーヒーの銘柄を選ぶだけで五分もかけた二乃は、ちょっと酸っぱい、と素直な感想を漏らしていた。ご飯を食べて風呂も順番に済ませて、リビングでの一ノ瀬家の面々とお喋り会が解散したところだ。お酒を飲んだ後の美鶴パパは普段の十倍喋っていたらしいけど、奥さんのマシンガントークに圧倒されていた私は彼の言葉を聞いた覚えがない。そんなこともあるよね、うん。

 美鶴パパが早々に離脱して、奥さんも部屋へと引き上げていった。美鶴ちゃんも遊び疲れたからと寝ぼけ眼をこすりながら自室へ向かい、残ったのは私と二乃、そして文世だ。良い子は寝る時間だけど私たちは悪い子だからまだ眠らない。明日は日曜日だし、と言い訳をつけてでも起きていたかった。

「丹瀬、神野。何をする予定なの」

「映画見よーぜ。新作、レンタルしました」

「またグロ映画じゃないでしょうね。嫌よ、スプラッタとかも」

「んもう。血がぶしゃーってやつ、私は苦手だから見ないよ」

 本当だろうか。嘘と冗談の境目が大判焼きと今川焼きくらいにあいまいな少女ふみよの台詞をどこまで信じればいいものだろう。ま、分かっている部分だけ突いておこう。文世相手に真面目なことを考えていると私の身が持たないから。

「とりあえず、ホラーが見たいのね。新作っていうと、女子高生とおじさんのアレでしょ」

「おっ、ちーちゃん流石、分かったか~」

「どうして会話が成立するの? 僕にも丹瀬語の訳し方教えてよ」

「長年の勘と経験。そして文世の好みを知っているから」

「そういうものかな? ……僕はおやつ取ってくるよ、っと」

 午前中に買いに行ったアレやソレがあるので、と言い訳をして席を立った二乃の後ろをついていく。無防備な背中を指先でつつくと、彼女は困ったように笑いながら振り返った。

 二乃が戸棚を漁っている間は悪戯しないでおこうと思っていたけれど、あまりにも隙が多いものだからつい手が出てしまう。でも脇腹には触れないことにした。反応が良すぎて、逆に怖い。

「二乃、ホラー映画は苦手なのね」

「そんなことないけど」

「嘘は身体に悪いわよ。あと、コーヒーの粉こぼれた」

 文世と違って、ものすごく分かりやすい反応だ。

 表情は見なくても分かる。絶対に、頬を膨らませている。

「どうして、そんな風に思うんだよ」

「ソファーから立ち上がる時、ちょっと足が震えていたから。あと顔」

「……そんなに分かりやすい? うーん」

 ホラーが苦手だというのを隠すのは諦めたのか、棚のガラスに映った自身の表情を確認しているようだ。これ以上の追及はしないけれど、嫌なら嫌と言えばいいのに。二乃は文世にばかり優しい気がして、腹の底に芽生える感情は心地よいものじゃない。

 一緒に過ごした時間は彼女の方が長いかもしれないけれど、私の方がずっとそばにいるんだから。たまには私の方を見てくれてもいいんじゃないだろうか。

 おやつを持ってリビングに戻ると、文世がその場でくるくると回っていた。二乃がにこにこしながら彼女を眺めているのにむっとして、手からお盆をむしり取ってソファーに座る。私が右端、文世が左端に座れば、自然と真ん中の席が空く。顔が引きつった彼女は「わー、そういうかんじかー」と棒読みしながら私たちの間に座った。苦手なものを直視するのも、人生には大切な経験なのよ。

 一ノ瀬家の面々を起こしてしまわない程度の音量に調整したこともあって、映画は意外と静かな滑り出しを見せた。

 平々凡々な生活を送っていた女子高生が殺人鬼に刺された瞬間、互いの人格が入れ替わってしまった、と衝撃的なシーンから物語は始まる。コメディ描写もほどほどに彼女は仲間たちとともに自分の身体を奪った殺人鬼を追いかけていく。スリラー映画にありがちな描写を現代の技術で表現するだけで、目新しい描写は見当たらない。出てきた小道具のわりに血飛沫は控えめだし、私にはちょっとつまらない。告知の時点では面白そうだったけれど、私には合わないようだ。

 途中で冷めたテンションは終盤になっても盛り上がることはなくて、私の視線は隣に座る二乃へと向いていた。殺人鬼が武器を振るうたびに彼女の身体はぶるぶると震えて、そっと差し出した手のひらはいつの間にか固く握りしめられている。一人でいるときの、クールな感じの彼女からは想像できないほどかわいい。

 この情けない感じ。

 最高だ。たまんねぇー。

 エンドロールを終えて部屋の照明を戻すと、二乃は顔を覆っていた。

「あー、終わっちゃった」

「前評判の割に普通だったね。はじめくんが面白くて集中できなかったけど!」

「十分に怖かったじゃん。暗いし……映画も部屋も……」

「明るいホラーってそれ、出来損ないのコメディじゃないの」

「そうだよ。部屋を暗くしないと、雰囲気出ないし」

 私と文世で二乃をからかう。そこまで面白い映画でもなかったから感想もそこそこで雑談が始まってしまった。私と文世の視線はテレビに流れる深夜のバラエティに向いているけれど、二乃は私の方へ体を向けつつテレビのやや下側へと視線を向けている。余韻が抜けていないようだ。

「鑑賞会やるならウチで良かったかも」

「ちーちゃん、テレビ買ってもらったの?」

「お兄ちゃんにね。引っ越し祝いだって」

「へー。財力あるぅ」

 その誉め言葉? は私じゃなくてお兄ちゃんに言ってほしい。

 文世はおやつを食べながら、そういえば、と質問を重ねる。

「ちーちゃん、ペット飼ってないよね。アパートじゃなくなっても飼う予定ないの」

「今のところは。お兄ちゃんの仕事的に、犬とか鶏は絶対に無理だし」

「ニワトリて。そこはインコとかじゃないのか」

 二乃からツッコミを入れられて、なんかむっとしたので二の腕をつねる。

 大学を卒業した後、就職に失敗したらしいお兄ちゃんは部屋にこもっていた。一日中呪文のようなものを唱えていて、夜中にふと目覚めると鬼気迫る表情でパソコンを操作していたから怖かったのを覚えている。

 お兄ちゃんの部屋宛に届く荷物が一年くらいかけてゆっくりと増えていって、ある日突然、仕事を始めたと宣言された。何をやっているのか不明瞭な点が多いけど、他人の笑顔のために働いている、と本人が胸を張っているから私から言うことは何もないのであった。引っ越したのも仕事に影響するから、らしい。

 私は両親とアパートで暮らしているよりも広い部屋が貰えるから、という甘えた理由でお兄ちゃんについてきた。今も部屋で虚空に向かって喋り続けているだろう兄貴は、誰を笑顔にしているのだろう。

 何かを思い出したように、二乃が声をかけてくる。

「神野って、二人暮らしだっけ?」

「そうよ。私とお兄ちゃんで、二人」

「神野は料理しないって言っていたよね。でも毎日手作りのお弁当。ということは」

「お兄ちゃんが早起きして、弁当を作ってくれるの」

「へー、すごいじゃん。お兄さん、何の仕事をしているんだっけ」

「色々。基本的には部屋でパソコンを叩いていて、必要に応じて打ち合わせのために家を出ていく感じ。でも何をやっているのかはよく分からない」

 部屋の中でカメラを回す意味はないだろうし、歌が下手くそなのに高性能なマイクを用意しても無用の長物になりかねない。お兄ちゃんは一体、何の仕事をしているのだろう。聞いてもあいまいな答えしか返ってこないから、聞かないことにしていた。

「パソコン使える人、格好いいよね。僕、あんまり分かんないから」

「部屋に置いてあったじゃない、あなた」

「美鶴のお古なんだよ。動画を見るくらいだし。ぜーんぜん使えないよ」

 などと言いつつ、実はある程度の作業はこなせるんだろうな。情報科学の授業で色々やったことだし。ぬっ、と私たちが喋っている間に文世が割り込んできた。言葉とかじゃなくて、物理的に頭をぐいっと二乃へと押し付けて、彼女に撫でてもらっている。

「ね、次の映画見よ。テレビ飽きた!」

「あんまり寝るのが遅いと僕、体調が悪くなるんだけど。短めのがいいな」

「じゃ、これが最後、ラストだから」

 寝る前にはこれが最高だよと文世が絶賛した映画は、開始五分でサメが空を飛んでいた。

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