第17話 バッティングと僕


 晩御飯は丹瀬の希望通りのものを作った。

 そして食後にもう一本の映画を見てから寝ることにした。

 二本目の映画も良作で、タイトルだけは僕も聞いたことがある作品だった。内容は想像していたものとは違っていたけれど、鑑賞の終わった後にコーヒーを飲みながら物語についてしゃべる時間がとても楽しかった。

 お風呂に入って、歯を磨いて、あとはもう、眠るだけだ。

「そういえば、来週には夏休み終わるんだね」

「早いな。せめて八月が終わるまでは休みほしかった」

「しょーがないよ。友達と会えない日が続くと憂鬱じゃん」

「僕は友達が少ないし……」

「私がいるでしょ? もー」

 お風呂上りの、すっかり乾いた髪を押し付けてくる。ドライヤーを使えばいいのに僕に拭かせるとは、彼女の甘えたがりも相当なものと見える。おかげで腕が疲れていた。筋肉痛になるレベルじゃないことだけが救いだ。これが神野みたいな長髪だったらと考えると、ぞっとするな。僕も春先までは髪を伸ばしていたけど、あまり似合わなくてやめてしまった。

 窓辺に佇んで外の景色を眺める。丹瀬も、僕に寄り添っていた。

 眠そうな彼女から、窓のサッシ、隣家の屋根、そして思い出したくない過去へと視線は下向きの移動を続ける。幸福の象徴から不幸の象徴へとシームレスな移り変わりを見せるあたり、人間の脳は高機能なポンコツだ。悪い感情や嫌なことが想起される前に、確認用ポップアップくらい出てくれないものだろうか。

 顔を横に振って何も考えないようした。

 辛いことは見て見ぬふりをする。これ、人生の鉄則である。

 気付いたら、丹瀬が僕を見ていた。

「いいもの見える?」

「いいや。何も」

「そっか。そっかー」

 僕を窓辺から引き離した丹瀬が、僕の正面に立ったまま手を大きく広げている。抱きしめてほしい、という彼女なりの合図だ。ぎゅっと体を寄せて頬をくっつける。もちもちしていた。柔らかいなぁ、と同い年の肌に溺れていたら彼女の手が僕の脇腹に伸びてくる。くすぐったくて振り払うと彼女も柔らかく頬を緩めた。

「笑っている方が、はじめくんはくぁーいーよ」

「ん。分かった。努力するよ」

「よろしい! ところで知ってた? ちーちゃん、この辺に住んでいるんだって」

「へ、へー」

「まだ私も行ったことないんだ。今度、一緒に遊びに行こうね。ちーちゃんも喜ぶだろうし」

 ちょっと失敬、と丹瀬は部屋を出ていった。お手洗いだろう。

 もう寝よう、と窓を閉めてベッドに向かう。布団の上に放り投げたままの携帯電話が、急に画面を白く光らせた。誰だ、こんな時間に電話をかけてくる奴は。

「……神野か」

 また鍵を失くしたのだろうか。いや、前は家に忘れて閉め出されたんだっけ? 忘れた。

 ま、いっか。

 電話を取ると、開幕から不機嫌そうな声をしていた。

「もしもし。ひとつ聞きたいんだけど」

「始業式は来週の金曜だよ」

「違うわ、そうじゃない」

 咳き込む音が聞こえて、遠ざかった声が戻ってくる。

「私が聞きたいのはね、どうしてあなたが文世と一緒にいるのか、ということよ」

「…………」

「ちょっと、聞いているの?」

 閉めてしまった窓をもう一度開いて、外を確認する。僕の部屋は、平屋建ての隣家を隔てて隣の家の窓と向かい合わせになっている。部屋割りを聞いたことはなかったけれど、恐らく、そこが彼女の部屋なのだろう。電気は消えたままだけど、両開きのカーテンには隙間があるようだ。夜の暗さも手伝って彼女の姿は見えないけれど、彼女の側からは僕らの姿が確認できるのだろう。だって、僕の部屋はまだ明るいから。

 僕の悪癖を知っていたことといい、彼女には覗き癖があるのだろうか。

 趣味の悪いやつだなぁ。

「丹瀬が泊まりたいって。向こうから話が出てきたんだからな」

「そ」

「嘘じゃないよ」

「ふーん。キスするくらい仲がいいのに?」

「……ん? 神野は何を言っているんだ」

「窓際でいちゃついて。私の気持ちも知らないで」

「いやいやいや。キ……って、そんなわけないじゃん」

 ただの友達相手にキスする習慣を持つほど、僕らの貞操観念は柔らかくない。

 彼女はまだ、こちらを覗いているのだろうか。

 腕を大きくクロスさせてバツマークをつくる。そして、はっきりと否定する。

「違うから! 丹瀬とは、ただの幼馴染なんだ」

「で?」

「いや、だから、その、キ……とか、するわけないだろ」

「嘘よ。私見たもの、あなた達が学校で抱き合っているところ」

「いつの話だよ、それ」

「……春先のことだけど」

 春先、学校、と聞いて思い出すのは生徒指導の先生に呼び出された時のことだ。脛に傷持つ僕としては何を言われるのか不安でしょうがなくて、丹瀬に同伴を頼んだのを覚えている。先生からは大した指導はなくて、十分くらいの面談をしただけで終わった。ただ、高校生になったからには規律正しい学生生活を送るようにと言われただけだ。

 そして、帰り際に教室へ寄って、あぁ、確かにハグはしていたけれど。

「キ……とか、したことないんだけど。神野はどうなんだよ」

「私? どうして」

「僕だって見たんだぞ。神野が丹瀬と抱き合っているところ」

 僕が生徒指導で呼び出されたのよりも、後の出来事だけど。

 お互いに無言になって針の筵に包まれたようだ。お手洗いから帰ってきた救いの女神に助けを求めよう。音声のみのモードからテレビ通話に切り替えて、画面を丹瀬に向ける。くりくりした目が、大きく見開かれた。

 画面の向こう、暗い部屋にディスプレイの明かりだけで映る神野は、やはり不機嫌そうだ。

「あれ、ちーちゃんじゃん。どうしたの」

「あなた達が抱き合っているのが見えたから」

「見えた? どこから?」

 事情を知らない丹瀬のために、神野の引っ越し先が僕の部屋から見える位置にあることを説明した。寝耳に水だったようで、ぽこぽこと肩を叩かれた。勢いよく腕を振るものだから、彼女の髪がぴょこぴょこと揺れる。砂漠でオアシスを、山奥で民家を見つけたような気分だ。

「ひどーい。そんな面白そうなこと黙っているなんて」

「だって、その」

「むぅ。ふたりだけの秘密ってやつぅ? いいなー」

 そういう話じゃないけど、あえて否定しない。面倒なことになりそうだ。

 些細な隠し事にも頬を膨らませた丹瀬は目元が笑っている。不快になるどころか、楽しんでいるようだった。僕が困り顔だから、だろうか。

「ちっちゃい時から一緒なのになー。あ、ってことはちーちゃんも?」

「うちに遊びに来たことあるよ」

「いいなー。まぁ私は古いおうちにも遊びに行ったことあるけどー」

 けどー? と丹瀬は語尾を繰り返す。小学校から知っている友人だが、その心中を察するには僕の人間力が低い。ヒューマンパワーという奴だ。話し相手の心の機微を感じ取る能力というものが、どうにも足りていないように思えた。

「もっと早く知りたかったなー。超仲良しなのにー」

「それって、付き合っているってこと?」

「いや、どうしてそんな話になるんだよ」

「そうだよ。家に遊びに行っただけで付き合っているとか、ちーちゃん小学生か?」

「文世、後で覚えときなさい」

「ヤッベ。助けて、はじめくん」

 画面の向こうの神野が恐ろしいのか、丹瀬が僕に抱き着いてきた。

 暗い部屋にスマホの明かりだけで映り込んでいるからか、それとも僕がまだ見たことのない表情をしていたからか、神野のことが怖くなった。というかチビった。

 スマホの画面から顔を遠ざけようと、腕を精一杯に伸ばす。丹瀬はこの状況も楽しんでいるようで、怖い怖いと言いながらニコニコと僕に抱き着いてくる。神野が怒っているのは、これなんだろうなぁ。

「本当に付き合っていないの?」

「しつこいぞー。だって、私は男の子と付き合いたいもん」

 知っていた。丹瀬は、男の子が好きな女の子だ。僕とは違う。

 この期に及んで、神野はまだ食い下がってくる。

「でも、四月末の、祝日の学校で、あなた達」

 その話は、さっきも聞いた。

 僕が彼女達の抱き合っている場面ハグ・シーンに出会ったのは春先のこと。

 だけどそれは、校舎裏の駐輪場での出来事だ。

「んー、祝日? 何かあったかな」

「あれだよ。高校生生活を送る上での生活指導、みたいな奴」

「怖いから付き添いしてー、って私が頼まれた奴だ」

「別に怖かったわけじゃないんだけど」

 強がって虚勢を張ってみた。完全にバレているけど。

 素行不良の疑いがある生徒に対して行われるもの、らしい。小学校時代の悪名が高校生になっても響くとは、と思ったけど中学校の頃も特別に良い生徒ではなかったからなぁ。一応、一か月間は普通に経過観察をするぞ、それが問題なくてもずっと真面目に過ごすように、あんまり目につくようなら自主退学を勧告させてもらうからな、という内容だった。本当に、それだけの話なんだ。

 その後は教室に忘れ物を取りに行って、丹瀬と喋って、普通に過ごしてから帰路についた。でも、どうしてそのことを神野が知っているんだろう。丹瀬が何か知らないものかと向き直ると、彼女は僕の頬をむにむにと、ちょっ、やめてくれ。

「たんえ、あおぅえ」

「わはは、はじめくん面白い顔になってるー」

「文世、真面目にやりなさいよ、私は」

「もー。だから、私とはじめくんは友達なだけ。ま、ちょー仲良しだけど」

 しんゆー、とVサインを作って神野に見せつけている。まだ納得していないのか、神野は丹瀬のことをにらみつけている。溜め息を吐いて、やれやれと首を振って、存分にためてから彼女はしゃべり始めた。

「私は男の子が好きなの。それは、分かった?」

「そう、で、それで?」

「はじめくんはね、ちーちゃんと同じタイプだけど。私は違うの。分かった?」

「同じって、どういうことよ」

「もー、ちょっと考えれば分かるでしょ」

 画面の向こうで神野は沈黙している。丹瀬は神野の反応を待って退屈したのか、僕にくっついてくるのをやめない。携帯を持つ手が重くなってきたころに、ようやく神野からの返答らしき声が聞こえた。

「……………………った」

「オッケー。私とはじめくんは友達。証明終了Q.E.D.

「証明にはなってないけど。……まぁ、その」

「安心した? 希望があるぜって」

「うるせー」

 ぶっちんと神野が通話を切って、画面が沈黙する。頭がいい子同士の会話は、詳細な説明を省いても色々と伝わるらしい。僕は丹瀬の言葉がうまく呑み込めなくて首を傾げていた。

 彼女は幼子に諭すように、かみ砕いた言葉で教えてくれた。

「ちーちゃんは、女の子が好きな女の子なの。ね、はじめくんと同じでしょ?」

「なるほど」

 それなら分かりやすいな、と頷く。

 僕は生まれた時からずっと。

 、なのであった。

「私、はじめくんとちーちゃんならお似合いだと思うけどな」

「どういうこと?」

「付き合っちゃえばいいのに。ちーちゃん、はじめくんのこと好きだろうし」

 …………。

 これまで神野と過ごした時間を反芻する。

 …………。

 うっ。

「はじめくんも、ちーちゃんが好きなら告白すれば?」

「ち、違うわい!」

 神野が僕に抱き着いてきたこと、やけに距離を詰めてくること。彼女と過ごした時間を都合のいい解釈でゆがめて、不埒な色に染まったフィルター超しにのぞき込んで、妄想は止まることなく膨らんでいく。

「ち、違うんじゃ! そういうんじゃないのじゃ」

「わはは、変な言葉遣いになった」

 すべてを見透かされているようで、僕は、ひどく赤面した。


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