第11話 お泊り会と僕


「ごめんね、二乃。パジャマまで借してくれるなんて」

「いいよ別に。神野とは友達だから、最大限尽くやさしくしてあげる」

「もっと恰好いいものがあれば良かったんだけどなー」

「贅沢だな、キミは」

 着替えを持たない神野には僕の寝間着を貸すことになった。黒くて薄手、手触りが最高な夏用パジャマだ。身長がほぼ同じ妹の服は当然というべきか胸元が苦しかったようで、僕のものを着ている。僕にピッタリということは彼女にとっては丈が短いということで、動くたびにへそ周りのチラリズムを感じてしまう。風邪をひかないか心配になった、ということにして不徳をなくそう。

「この部屋は自由に使ってくれていいからね」

「ありがとう。ここって、誰も使ってないの?」

「部屋が余っているんだ。元は家と倉庫を兼用する予定だったらしくて」

 丹次郎さんが日曜大工で色々と作っていくうちに、居住スペースが拡張されて倉庫の部分がなくなっていったのだった。他に用意すべきものはあるだろうか、と部屋を見渡していたら神野に肩を叩かれる。

「朝になったら帰るから、そんなに気を遣わないで」

「そうは言ってもなぁ。誰かを泊める、って経験がないからね」

「ひょっとして緊張しているの? 柄にもない」

「僕にだって、友人を大切にしたいと思う日があるんだよ」

 思いついた言葉で口答えをしてみたら脛を蹴られた。くそぅ、なんで暴力に訴えるんだ、こいつは。晩御飯を食べている時はどこか落ち着かない様子だったけれど、お風呂に入って着替えも済ませたら緊張がほぐれたのだろう。ごろりと布団の上へと寝転がった神野は普段よりも小さく見えた。

 彼女の隣に腰かける。体操座りをした。

 何か話したいことがあるわけでもないし、座れと命令されたわけでもない。僕が彼女の隣に座りたいから、こうして腰を下ろしただけだ。これまでの人生で、手を伸ばせば届く位置に同級生が寝そべっている、などという状況になったことがあるだろうか。丹瀬以外には、記憶のどこを探しても相手がいない。

 小学校の修学旅行は相部屋の連中が他の部屋へ遊びに行ったまま帰ってこなかったし、中学校の時は家庭の事情というものがあって参加できなかった。やりたくて出来なかったことや、普通ならやっていただろうけれど僕には経験がないことは、数えればきりがない。

 ……僕は彼女かみのに、思った以上の初めてを捧げているのかもしれない。

 神野の手が僕の背中に触れて、ぐるぐると円を描き始める。

 仁乃、と名前を呼ばれた。

「妹さんは? 晩御飯の後、すぐに姿を消したけど」

「部屋で遊んでいるんだろうな。多分」

 美鶴はゲーム大好きっ子だ。お気に入りの配信者がいて、その人がやったゲームを追いかけるようにしてプレイしている。夏休みだって、友達と遊ぶ以外のすべてをゲームに捧げると言っていた。他人と繋がる喜びを知っていながら、それ以外の楽しみも持っている妹が羨ましくない、と言えば嘘になる。

 だけど、妹だから。

 僕は、そんな理由だけで美鶴を愛せるのであった。

「妹さん、可愛いわね。あなたとは大違いだわ」

「そうだろう、当然だよ」

「そこ謙遜するとこでしょ。それか、自分の方が可愛いって宣言するの」

「別にいいじゃん。文句あるのかよ」

「シスコンかー? あの子のこと、どんだけ好きなのよ」

 困ったようにも笑っているようにも受け取れる溜め息を吐いて、彼女はゆっくりと体を起こす。僕の背中をぐいぐいと押しつつ移動して、どうやら背後に座ったようだ。特別な理由こそないが、振り向くのも躊躇われた。

 背中に触れたままの手は、まだ何かの模様を描き続けている。くすぐったいけれど、心地よくて止める気にもなれない。どちらも話しかけないまま時間だけが過ぎて行って、やがて、神野の手が止まった。心臓の上に当てられた手のひらから、じんわりと熱が広がっていく。

「ねぇ仁乃。気になることがあるんだけど」

「おう。何でも聞いてくれ」

「安請け合いするのね」

「聞かれて困るのはスリーサイズだけ。だって、知らないからね」

「バカ。……じゃぁ、聞くんだけど」

 ごくん、と神野が唾を飲んだ音が聞こえた。

「あなたとご両親の苗字が違う理由って、何?」

 神野の手が離れると、冷たい何かが背中の上を這った。

 心臓が脈打つたび血液が抜けていくかのように、体温が下がっていくのを感じた。

 僕の部屋から持ち出してきた扇風機が首を傾げながら、静まり返った部屋で音を立てる。もし扇風機のスイッチを切っていたら、世界が静止したんじゃないかと疑っていたことだろう。

 家族は、一ノ瀬丹次郎、八千代、美鶴。そして、二乃はじめ。

 一人だけ名前の違う四人が、ひとつ屋根の下で暮らしていた。

今日日きょうび、両親の姓が違うのは珍しいことじゃないわ。でもあなたのは別件でしょ」

 彼女の言い分に頷く。この家で二乃姓を名乗るのは僕一人だ。

「妹さんも一ノ瀬だったわね。玄関のとこにプレートが掛けてあったわ」

 再び、神野の手が背中に触れる。観察眼もよく、勘の鋭い彼女からは逃げられそうになかった。楽しい話じゃない。だけど知りたいなら、教えてあげた方がいいのだろう。それで嫌われるなら、嘘を吐いてまで友達付き合いをしたいとは思わない。背を向けたまま話を始めた。

 これは、ちょっと昔の話である。

「小学生の頃、荒れていたんだ。父親と仲良くなれなくって」

「仁乃が乱暴者だったって噂なら知っているけど。ナイフとかを隠し持っていた、って話よね?」

「誰が流したか知らないけど、別に危険物を持ち歩いていたわけじゃないんだぞ」

「そうよね。あなたアリを踏みつぶすのも躊躇しそうだし」

「そんな聖人に見えるのか? ……ま、ライターだけだよ」

「不良め」

 神野に叩かれた背中が乾いた音を立てて、無性に笑いがこみあげてくる。

 そうだ、当時の僕が求めていたのは、こうした普通のコミュニケーションだった。父子家庭だったことに文句があるわけではない。母親が父親とは別の愛をみつけて、それに人生を捧げると決めただけ。そして、そんな母親と同じ方向性の愛を僕が持っていたから、父親にはそれが気に入らなかったのだ。

 特別に優秀な子供ではなかったけれど、努力を惜しむようなこともなかったはずだ。テストで良い点を取って、体育にも熱心だった。美術の授業で描いた絵が市展の佳作を貰ったりもして賞状を持って帰ってきたこともある。

 だけど、父親は僕に無関心だった。

 僕の内面に干渉してくる癖に、僕自身の素行には無頓着だった。

 良いことをしても、悪いことをしても。

 ぬかに釘、暖簾に腕押し、豆腐にかすがい。

 芽生えたばかりの自我は導きを求め、父親はそれを拒絶した。成長に必要な他人との交流は愛を与えられない理不尽への怒りと悲しみで寸断されて、小学生の僕は地獄に生きているような心地だった。心に余裕がないから、些細なことで喧嘩もした。同級生との衝突も激しかったから、悪い噂には事実に基づいた誇張が含まれているのだろう。危険物がどうのっていうのも筆箱にカッターを忍ばせている奴がいたから、そいつの話と混ざったんだろう。

「その頃から煙草を?」

「吸ってないよ」

「嘘吐き。ライターは持っていたんでしょ」

「でも喫煙はしていない、いなかった」

 揺らめく灯火を見ていると心が安らいだから、と嘘を挟んでみる。

 本当は、常に誰かに構って欲しかったんだ。褒めてくれる人がいないなら、怒られる理由を持ち歩いてでも他人と繋がりたい。拒絶して壁を作っておきながら、そこに一点の穴を穿つのだ。

 ワガママな奴だよな。未だに他人との交流が下手なのは自分から誰かに近づいた経験が少ないからだろうか。

 閑話休題。

 小学校を卒業した直後の冬休みだった。

「父親と喧嘩をして、家を飛び出しんだよ」

「何かあったの?」

「日々の積み重ねも大きいけど、一番は、」

 当時のことを思い出した瞬間、視界がはじける。熱湯をかけられたように頭が真っ白になって、耳鳴りがするほど心臓が跳ねる。肺から空気が絞り出されて吸い込むための筋肉が動いていない気がする。打ち上げられた金魚のように口をパクパクと、ぐるぐると回る過去が――。

 ……息が出来る。いつの間にか神野に手を握られていた。背中に彼女の体温を感じる。話したくないこと、話せないことは伏せて、避けながら進もう。共有することで軽くなる負担も、きっとあるはずだから。

 震えながら、続く言葉を絞り出す。

「ちょっと、あってね」

「うん。それで?」

「お腹がすいて、ご飯を食べようとしたんだ。それで、丹次郎さんのお店に入った」

「お金はどうしたの? お小遣い?」

「そんなもの貰ってなかったよ。帰らないつもりだったし、親の財布持って家出したんだよ。金があれば大抵のことは大丈夫だ、ってのが親の口癖で」

 笑い話のつもりで話したけれど、神野には伝わらなかったようだ。きゅっと、僕の手を彼女が握りしめたのが分かる。僕の心臓も、釣られるようにして少し縮こまってしまった。

 家庭環境について細かい話をするつもりはない。面白くないし、誰だって汚れの溜まったゴミ箱の底を覗き込んで愉悦に浸るような趣味は持ち合わせていないだろう。痛みなどない方が人生バラ色に決まっているのだ。

 髪や服装の乱れた子供が、分厚い財布を持って店にやって来たら?

 しかも、近所に住んでいる子供が。

「丹次郎さん、すぐに勘づいたらしい。あ、家出してきたんだなって」

「へー。知り合いだったんだ」

「うん。美鶴のことも小学生のころから知っているよ」

 当時も可愛かったけど、今ほどじゃないな。それはそれとして。

 近所の子供が家出したのを見て、丹次郎さんは迷いなく助け船を出してくれた。待たせているだろうお客さんもいるだろうに厨房から出てきて、開店中の看板を店の中に仕舞い込んでまで。

「家出のこと、どう説明したの?」

「何もかも話したよ。家庭事情から、僕が思っていたことまで。全部」

「へー……暴れたりしなかったんだ」

「ド真面目が祟っていただけで、僕は不良じゃないから」

 その証拠に、しょーもな不良エピソードには事欠かない。登校途中にゴミ拾いをしていたら隣町まで行ってしまって、それが遅刻の原因になったりとかね。

 家出をした理由と二乃家の家庭事情を知った丹次郎さんは僕が落ち着くのを待って家まで送り届けてくれた。僕の家じゃなくて、一ノ瀬の家に。

「まんまと一杯食わされたわけね」

「うん。その後、たこ焼きご馳走になった」

 ご飯を美味しいと感じたのは、あの時が初めてだったかもしれない。

「そこから色々あって、今はここで世話になっているんだ」

「色々ありすぎでしょ。端折はしょるな」

「いやー、書類とか諸々、めっちゃ大変だったんだぞ」

 例えば、僕は一ノ瀬家の養子ではない。実質的に養われてはいるものの、学校に出す書類とかは実父のハンコが必要だし、生活に掛かる費用のこととか諸々のことは親同士が話し合って決めていた。細かいところはすべて丹次郎さんに任せているので、全然分からないんだけど。

 まぁ、住み込みの弟子みたいな扱いだろう。よく分からん。

「分からなくても死なないし。家族であることに変わりはない」

「うーん、まぁ、そうなんだろうけど」

「……やっぱり、知らないのはマズいのかな」

「そりゃ、そうだろうとしか」

 神野は何度目かの溜め息を吐いた。これは分かる。呆れているんだ。

「ちょっとガッカリした」

「は?」

「刃傷沙汰とか、もっとヤバそうな話が出てくるのかと思っていたから」

「いやいやいやいや、それはないでしょ」

 首だけで振り返ってみたら、彼女はとても落ち着いた表情をしていた。

 何処にでもある、普通の話だ。ちょっと家庭の居心地が悪くて、学校で問題を起こして、偶然ながら善人に救われる。陳腐過ぎて小説にもならないレベルの、当たり前の話だ。物語的起伏の強弱はあれど、誰もが経験していることだろう。

 しょうもない人間の、しょうもない過去だった。

 だから、これからの人生を真面目に生きていこうとしているのだ。

 学校はサボるけどな。

 ちなみに、煙草を咥えるようになったのは家出をした日からで、自分ではどうしようもない不安に押しつぶされそうになった時だけライターを使う。そう、吸わなくても、咥えているだけで落ち着く程度の依存症なのである。

「聞きたいことは、それだけ?」

「うん。あー、なんか損した気分。もっと波乱万丈、血沸き肉躍るドロドロ身内サスペンス的なのを期待していたのに」

「あるわけないだろ。僕は優しい人間だからな」

「そうね」

 あっさり肯定されて、ちょっと困惑する。

 横になった彼女は、相変わらず僕の背中を撫で続けている。

 ……段々、クセになってきた。ほんの少し、少しだけ、気持ちいい。

「ところで、美鶴ちゃんのことだけど。なのよね」

「そうだよ。。それで間違いない」

「そう」

「あっ、血は繋がってないから、正確には妹とは呼べないかも」

「いいのよ、分かったから。……可愛かったなぁ。私もお姉ちゃんになれないかな」

「ダメだよ。美鶴は僕の妹なんだ」

 ちぇ、と唇を尖らした神野も案外に可愛い。けどそれを本人に伝える勇気はなくて、僕は話題を逸らしてみる。最愛の妹を褒められたのも、気恥ずかしさを増幅させているようだ。

「おやつ食べる?」

「お構いなく。あ、歯ブラシの新しいのがあったら欲しいんだけど」

「もう寝るのか、はやいね」

「……夜更かししてみる?」

「やめとく。今日は疲れたし」

 神野に目配せされて、急に気恥ずかしくなって顔を背ける。

 立ち上がると、少しふらついた。昼間の疲れが出てきたのか。

 あぁ、でもこれだけは言っておこう。

「家庭環境、のことだけど」

「うん」

「大人の都合で子供が不幸になるなんて、クソだと思う」

 彼女は言葉を繋がない。

 それでも、僕の言いたいことを少しは理解してくれているような気がした。

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