『サニー・サイド・アップ』
第10話 いもうとと僕
「にぃお帰り。プール楽しかった?」
「ただいま。……はぁ」
「わわわ、急にハグするのやめろよ。え、何。ナンパ失敗とか?」
「してないし。そんなことでヘコまんわい」
「えー。じゃあどうしてくっついてくるんだよ」
特に意味などない、と説明したところで納得しないだろう。だから話さないことにした。
この世で一番可愛い
あぁ、どうしよう。
ショックすぎて、数分前のことのはずなのに記憶が曖昧になりつつある。
神野が早々に話を切り上げて余裕たっぷりに僕をからかい始めたのが先か、それとも僕が逃げるようにして玄関の鍵をかけて閉じこもったのが先か、果たして正解はどちらでしょうか。答えは考えるまでもない。どちらにせよ僕の負けだ。
うぅ、お腹痛い。
ヤバいなぁ。
どうしよう。
「にぃ、ケータイ鳴っているよ」
「誰だよ。丹次郎さんか」
「パパでもママでもねー。にぃのカノジョですわ」
「幽霊か?」
「存在の否定方法が高度過ぎる……カミノ、だって」
もう殺しに来たか。
これなら井戸から出てくる系怪奇現象の相手をする方がマシだったかもしれない。
「くそ、ヤベェよ……どうしよう」
「逆ナン相手?」
「違うわい!」
性格を考えれば神野が強請ってくることはないだろう。真面目に正しいことだけを信奉している子でもない。そういう奴だったなら、僕が喫煙者だと知った時点で教師や諸々にチクっていても不思議じゃないし、それをしていない以上、彼女は僕を泳がしたまま放置する気なのだろう。だいたい、彼女が何処へ告発しようとも僕にはそれを咎めることなどできないのだ。こればっかりは、僕が悪いからな。
すべてを諦めて妹から携帯電話を受け取る。そして通話ボタンを押した。
「もしもし」
「今にも死にそうな声ね。ま、無理もないけど」
いっそ殺せ。殺してくれ。うぎぎ。
「それで、あなたに頼みたいことがあるんだけど」
「はい。命と妹以外なら差し出します」
「どれだけ重い頼み事よ。違うから」
「ホントぉ? 言っとくけど、借金の連帯保証人になれるのは成人だけだよ」
「取り敢えず、玄関まで来て欲しいんだけど」
「……
冗談を無視してくるとは、神野の奴も僕の追いつめ方を理解しているじゃないか。このまま現実逃避して晩御飯の調理を再開したいところだけど、状況が悪化する恐れがある以上は逃げ出すことも出来ない。死にたくなってきたな。
「でー、結局誰なのさ。元カノ?」
「お前はどうして僕に彼女を作りたがるんだ」
「だって、にぃちゃんは女の子が好きでしょ?」
私は範囲外、セーフ! と訳の分からないセリフをぽんぽんと出してくる。この辺りは丹瀬といい勝負が出来そうだった。溜め息と一緒に出てきそうなゲロを辛うじて飲み込みながら玄関へと向かう。
大きく深呼吸をしてから扉を開けると不安げな表情の神野が立っていた。なぜ君がそんな顔をしているんだいハハハと冗談を飛ばすのもいいが、あまり不用意なことをすると精神力が尽きてしまうから控えることにした。
「で、お願いって何」
「今日だけ泊めて欲しいの。頼める?」
「トメル? ……宿泊? ウチに?」
「そうよ」
真剣な顔で頼んでくる彼女を真っ直ぐに見つめ返して、真意が掴めずに首を傾ける。冗談、ではないようだ。
「どうして家に帰らないんだよ。目と鼻の先にあるのに」
「鍵、持って出るのを忘れたみたいで。お兄ちゃんは仕事で、明日まで家に帰って来ないし」
「丹瀬の家に泊まる、という選択肢はないのか」
「遠いし、あの子の親に迷惑かけるのも、ね」
親しい仲にも礼儀あり、と言いたいのか。それとも娘が彼女を連れてくるという状況を許容できない人が丹瀬の親なのか。まぁ、丹瀬の母親ならヒステリックに神野を罵倒する可能性もあるな。
僕は丹瀬の母親を知っているけど、丹次郎さんほど自身の常識外の人間に甘い人は珍しい、とだけ説明すれば誰も名誉を失ったり体裁を崩したりせずに済むだろうか。丹瀬の母親を僕はあまり好きにはなれなかった。
それにまぁ、なんだ。仲の良い相手だからこそ遠慮してしまうこともあるだろうとは、友達のいない僕にも想像に難くない。部屋は余っているし、年頃の女の子に外で夜を明かさせるのも気が引けるし。色々な言い訳を用意しつつも、僕は既に彼女の頼み事を受け入れる姿勢を作っていた。お願いを断れないのが悪い癖だと美鶴に指摘された経験があるが、その通りだと思う。
「ちょっと待っててね。連絡だけ済ませるから」
丹次郎さんの携帯に電話をかけようとして、まだ仕事中だったことを思い出す。店の電話番号を電話帳から引っ張り出して掛け直すと、少し長めのコール音の後に、覚えのある高い声が聞こえた。
「はーい、一ノ瀬たこ焼きです」
「あの、はじめだけど。頼みたいことがあって」
「なんだ、はーちゃんか。で、なぁに」
「友達がウチに泊まりたいんだって。今日一緒に遊びに行った子で、家族が仕事で帰ってこないから、家に一人じゃ寂しいんだと」
親を滞りなく説得するための嘘を吐いたら、神野に背中を叩かれた。
それも結構な力で、跡が残りそうな勢いだった。
「いいよー、パパにも言っておくから。あ、晩御飯は?」
「家で食べるよ。あ、今から作る予定なんだけど」
「なら安心か。みーちゃんの分もよろしくね」
「あーい。仕事頑張ってね」
親指を立ててグッドのサインを出したのに、神野は不満げな顔をしていた。
「妙な嘘を吐かないでよ」
「いや、鍵がないとか言うと心配するかもだし」
「仁乃にしては言い訳が上手ね」
「ホント気難しい奴だな、神野は」
彼女にとっての僕は何者なんだ。音の出るサンドバッグとか?
神野は安堵のため息を吐くと、何かを呟いた。
よく聞こえなかったけど、お礼の言葉だと思うことにしよう。
彼女は静かに、床をすべるように玄関へと入って来る。水着が入っている鞄を三和土に置いたまま上がろうとしたので引き留めて、荷物は持ったままに家へ入ってもらう。客人の荷物を玄関先に放置したとあっては、僕が丹次郎さんに怒られてしまう。
塩素やら何やらで水着が痛むのも心配だから、後で洗濯機を貸しておこう。ぜひとも再び、彼女にはあの水着姿になってもらいたいし。……僕は何を言っているんだ。
「で、晩飯は何食べる? 食べたいもののリクエストは出来る範囲で聞くけど」
「別にないけど。仁乃が食べたいものはあるの」
「特にないなぁ。あ、カレーは嫌だ。昨日食べたから」
「じゃハンバーグ。エビフライでもいいわ」
お子様セットの王道じゃん。僕のことを小学生だと思っているのか? あと、微妙にありあわせの材料では作れそうにないものをセレクトしてきたところに嫌がらせポイントを感じる。
寝室の用意は後ですることにして、まずは台所へと彼女を案内する。我が愛しの妹はダイニングテーブルに突っ伏して暇を持て余していた。
「美鶴、お客さん来たからな。あんまり恥ずかしいとこ見せるなよ」
「え、その美人なに? ホログラム?」
「微妙に実現しそうなラインを突くなよ。友達だよ、高校の」
「こんばんは、神野です。一晩だけ泊めてもらうことになりました」
よろしくお願いします、と深々頭を下げる神野。
妹は口を大きく開いたまま、僕と彼女とを交互に見つめるだけだった。
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