第9話 隠し事と僕


 神野の水泳力は、小学校低学年レベルだった。

 水面に顔をつけたり、浮いたりするのは問題ない。それから泳ぐという動作に至るまでのステップが遠いようだ。身体の動かし方を分かっていない、とでもいうべきかな。三回ほど水中で足を攣って僕を浮き輪替わりにしていたし、運動音痴なのかもしれない。

 ん、前に丹瀬から似たような話を聞いたような。

「…………ん」

「ううっ、近い、近いぞ」

 僕の肩に寄り添ったまま眠る神野が吐息を漏らした。耳元を抜けた風がくすぐったくて、小さく体を震わせる。丹瀬や佐天が見たら「いちゃついているのか? オレ達を差し置いて?」とか言いそうだ。もっとも、その二人も前の座席で眠っているが。

 乗車前は五月蠅いほど喋り倒していたのに、いつの間にか静かになっているもんなぁ。仕方ないか。昼過ぎまで遊び倒して、体力を限界まで使い切ってから帰って来たから。僕が起きている理由は、電車に乗ってすぐ眠ってしまったから。三十分ほど経ったところで神野に起こされて、今度は神野が眠ってしまったのだった。

 僕、起こされる必要あったのか?

 悶々としつつも二度寝が出来ずに困っていた。神野と密着しているのが居心地悪いけど、あまり動いて起こしてしまうのも可哀そうだ。何より、妙に緊張している。神野の髪に触れようと指を動かして、やっぱり触れられなくて溜め息を吐く。親に話しかけられない子供みたいなことを繰り返していた。

 今度こそ、と奮起したところで車内アナウンスが流れ始める。

「本日はご利用ありがとうございます、次は終点の――」

 なるほど、僕が起きていたことにも意味が出てきたな。

「ねぇ神野、着いたよ。佐天、丹瀬も起きて」

「ん、何よ……」

「そろそろ到着の時間だからね。ほら、降りる用意をして」

 眠っていた友人達を起こして、忘れ物がないようにと声を掛ける。寝惚け眼の彼らを引き連れて電車を降りて、そこから駅の改札をくぐるまで、ツアーガイドの添乗員みたいなことをやってみた。うむ、こういうのは好きだな。

 誰かの役に立っている、という気がして。

「ふぁ……。ねむ……」

「コケて落ちて来るなよ、佐天。僕は避けるからな」

「とか言いつつ、ちゃんと受け止めてくれる仁乃であった」

 ふらつきながら恍けたことを抜かす佐天の腹に肘鉄をお見舞いしつつ、構内を歩いていく。少し開けたところに荷物を置いて、めいめいに身体をほぐした。背伸びをしたり、肩を回したり、丹瀬は神野に抱き付こうとして拒絶されていた。

 ふむ、人前でのハグは避けているのか。ということは、プールで溺れかけた彼女に抱き着かれたあの経験は、相応に珍しいものだったのかもしれない。事故でも、ハグはハグだから。

「今日は楽しかったなぁ」

「うん。でも日焼け大丈夫かなー。一応は対策してたけど」

「日焼けした丹瀬もアリだろ。なぁ?」

「僕に同意を求めるなよ」

 背骨を思い切り伸ばすと、ゴクンと骨が動く音がして肩が軽くなった。電車に乗っている間は変なところに力が入っていたから、やっと人心地ついたぜ。本当なら一服したいところではあるけれど、同級生たちの手前、控えておこう。

 悪いことは、バレないようにやるべきだ。

「仁乃よぅ、また遊ぼうな」

「うん。佐天、今日はありがとう」

「私お迎え来ているから、ここで。ばいばい!」

 欠伸を噛み殺しながら自転車に跨った佐天と、親がクルマで迎えに来るという丹瀬を見送って、僕も自転車置き場へと向かう。駅に隣接する白い豆腐みたいな建物から出ると、別の駐輪場へ行ったはずの神野が腕組みをしながら待ち構えていた。

 ふむ。

 こりゃ家までお預けだな。

「出待ちされると怖いね」

「あなたみたいな不良でも?」

「いや、小学校の帰り道とか、同じ学校のヤツらが待ち構えていたから」

「本物の不良エピソード持ち出さないでよ……」

「神野が言い出したんだろ。いやー、懐かしいな」

 自転車に跨って、さて。

 彼女が僕を待ち構えていれたのは、お喋りをするため、に違いない。そりゃ友達と過ごす時間は長ければ長いほど、濃密であればあるほどに嬉しいものだ。だけど僕には家に帰って妹のご飯を用意するという仕事が残されている。

 両親の帰りまで待たせるわけにもいかないし、コンビニ飯じゃ生活の彩りに欠ける気がしていた。

「…………」

「どうしたの、急に黙って」

「いや、早く帰らなくちゃなと思いまして」

 神野はきょとんとした顔で首を傾げた。えぇい、他人の心の機微など僕の知ったことじゃないが、今だけは喋らずとも伝わって欲しかったぞ。

「家で妹が待っているから、早く帰らないといけないんだ」

「へー、あなた妹がいたのね」

「そうだとも」

 血は繋がってないけどね、などと余分な情報を伝えそうになって口を噤んだ。

 誰にだって隠しておきたい秘密のひとつやふたつはあるものだ。家庭内トラブルを曝け出して楽しめる人間など露悪趣味の持ち主でしかないのだろうし、ここは黙っていた方が得策だろう。

 友達に変な気を遣わせたくなかった、とも言える。

「私、こっちの方角へ帰るんだけど」

「僕もその方角だよ。……途中まで一緒に帰ろうか」

「そうね」

 胃を震わせるほどに緊張しながら申し出ると、神野は頷いて小さく笑ってくれた。

 晩御飯の買い物の為にちょっとだけ駅直通のショッピングモールへと足を延ばしたが、それ以外には予定を挟まない。本当に、家へと帰るだけだ。

 先行しながら時折後ろを振り返ると、子供じゃないんだからと笑われる。何か気の利いたことを喋りたいけれど、友達付き合いが少ない乾いた子供時代を過ごしてきたもので、どうにも喋るのが下手くそだった。

 信号待ちをしている間に、思いついたことを聞いてみる。

「神野はどの辺りに住んでいるの」

「こっちの方角」

「それはさっき聞いた。場所とか、町名とか教えてよ」

「教えない。どうせ分かるから」

「ケチかよ」

 風に紛れて聞き取れまい、と呟いた言葉は夜風の精霊たちが彼女に届けてくれたようで、背中をバシバシと叩いてきた。痛くはないし、このやり取りにも随分と慣れたのか笑ってしまう自分がいた。

 あぁ、あの頃とは違うんだな。これが、幸せってことなんだろう。

 交通量も少なくなってきたところで、神野と並走する。

 彼女が背筋を正すと、長い髪が風に乗って流れた。

「夜も暑いなんて、夏はヤな季節ね」

「僕は好きだけど。スイカが美味しいし」

「冬が嫌い、って言ったら?」

「鍋が美味しいから好き、って言う」

「バカみたい」

 彼女は楽しそうに肩を揺らした。

 少ない街灯が夜の道を斑に照らしている。舗装が剥げた部分を避けるように車道へとはみ出しながら、真っ直ぐな道路を走っていく。転がっていたペットボトルに乗り上げると、くしゃりと乾いた音を出して潰れた。

「いい夜だ」

 晴れた夜が好きだった。

 小学生の頃、親と喧嘩をした後は家を飛び出して街を歩き回っていた。

 他人がいなくて静かな道を目的もなく黙々と歩く時間。あれは心を落ち着かせるために必要なものだったのだと、後になってから思い返すこともある。最近は健康的な生活を送っているせいか、めっきり夜中の散歩もしなくなったけど。

 あぁ、見慣れた風景になってきた。神野ともここでお別れか。

 なんだか寂しくなってきたな。

「もう到着するからね、僕の家に」

「はいはい、知ってまーす」

 妙なことを言う奴だ。まるで僕の住所を知っているかのような言い草じゃないか。

 夜の闇を切り裂く彗星にでもなった気分で自電車を漕ぎ続けていたら、そのまま何事もなく家までたどり着いてしまった。流石、に夏休み入ってすぐにトラブルに巻き込まれるとか、そんな小説みたいなことは起こるはずもないのである。

 ここが僕の家だよ、と指で示しながら自転車を漕ぐ足を緩めた。

 神野は小さく頷くとペダルを大きく踏み込んで、そのまま惰性で進んでいく。隣の、そのまた隣の家にまで進んだところで足を下ろして、こちらを振り返った。またねか、ばいばいか、どちらが良いだろうかと台詞を考えているうちに彼女はその家の軒下へと自転車を停めてしまった。

 引っこ抜いた鍵を手元でキラキラさせながら僕を手招きしてくる。

 何事か、と思いつつ彼女の元へと近付いていく。

 表札の彫り込みは、神野となっていた。

「…………」

「どうしたの、仁乃」

「聞きたいことがあるんですが、よろしいでしょうか」

「どうぞ。つまらないことは答えないわよ」

「神野の家って、ここ? マジで?」

「何に驚いているか知らないけれど、私は今年引っ越してきたばかりだから。ご近所さんのことは、よく知らないの」

 彼女は唇に手を当てて、心底楽しそうに微笑んだ。

「例えば、家で煙草を吸っている不良高校生のこととかも、ね?」

 楽しそうに笑う彼女が、指先で胸元を突いてくる。

 最悪だ、と声に出た。そのまま僕は、顔を覆って天を仰いだ。

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