第8話 プールと僕

 夏休みは、労働バイト宿題しごとで毎日の予定を塗りつぶしていくのが通例だった。

 塾には行っていないし部活にも所属していないから、学校がある期間は中途半端に時間が余りがちだ。友達もいなかったから毎日が退屈との戦いだったけれど、夏休みは家族の仕事を手伝うと言う大義名分がある分だけ過ごしやすかった。何よりも、時間を使い倒すことが出来るのが良い。その上で小遣いもくれるのだから、丹次郎さんには――父親の役割を引き受けてくれた彼には感謝しかない。

 荒れていた小学生の頃と比べたら、すごい真人間になった。

 僕という人間の生き方を認めてくれる彼は本当の父親よりも強く優しい人だった。

 それはさておき。

 地元で一番デカい駅に集合して、電車を乗り継ぐこと一時間。

「市民プールでよかったのでは」

「それじゃ楽しくないだろーが」

「そうだけど。ちょっと……電車に酔ったんだよ」

 佐天と二人、自販機で買ったスポーツドリンクを飲みながら一息ついていた。電車に乗るうちに気分が悪くなってきて、それがようやく回復したところだ。昨日、晩御飯を食べ過ぎたのが原因だろう。帰り道は大丈夫だと思うけど、果たしてどうなることやら。

 自己管理が出来ていない、と神野に笑われてしまった。

 まったく、幸先の悪いスタートである。

 更衣室前で男女に別れた後、着替え終わった人から順次、集合場所へとやってきていた。海水を使っているプールという事前情報から潮の香りでもするのかとも思っていたが、普通に消毒の臭いもする。当たり前のことだけど、初めて来たから知らなかった。

 風が吹くたびに植えられたヤシの木が揺れる。開園から一時間も経っていないはずなのに、結構な数の家族連れがプールの中ではしゃいでいた。遊びに全力を尽くすその姿勢、嫌いじゃないぜ。

 子供達の完成された歓声が、惰性で遊んでいるはずの大人達も笑顔にさせている。幸せの象徴のような写真が撮れること請け合いだ、実際にカメラを持って子供を追いかけている母親の姿も見かけたし。うーん、羨ましいな。

 酔いも醒めて来て、小腹が空いてきた。ゼリーとか食べたい気分だ。

 準備運動を済ませてしまったら後はすることもない。

 ぼーっとしていると佐天に肩を叩かれた。

「なんつーか、想像通りの水着だな」

「どういう意味だよ」

「仁乃って制服の下のシャツ、いつも真っ赤じゃん?」

「まぁ、好きだからね。赤色」

「今日の水着も真っ赤だからよ、唐辛子って感じだ」

「その理屈だと佐天はスイカだな? センスがないのはお互い様だろう」

 緑と黒の縞々模様が入ったスイカっぽいサーフパンツを指すと彼は豪快に笑った。休憩がてらにしゃがみこんだところで誰かに後ろから抱き付かれて、滅茶苦茶にびっくりしながらも振り返る。

「よっす、待たせちゃってごめんね」

「な、な、丹瀬かよ」

「そこまで驚かなくてもいいじゃん。小心者か~」

 うりりり、と妙な鳴き声を出しつつ僕の頭を撫でまわしてくる。

 丹瀬から抱き付かれるのは慣れているけれど、髪を梳かれるのは始めてだ。猫か犬にでもなって、毛並みを整えられている気分になる。くすぐったくて、蜘蛛の巣を取り払う時みたいに腕を振り回す。それでも執拗に頭を撫でられて、しまいには走って逃げることになった。丹瀬は笑いながら追いかけてきて、無意味な鬼ごっこは神野が集合場所に現れるまで続いた。

「……どうして仁乃は息切れしているの」

「はしっ、走って、いたからね」

「え、なぜ」

 心底不思議そうな顔をしないでくれ、僕にも分からないんだから。

 息を整えつつ、着替え終えた美少女二人を視界に収めた。神野は黒いフリルつきの水着で、丹瀬はオレンジ色の明るい奴だった。

「神野がオフショルで、丹瀬がホルターネックか」

「オフ……? ホ……?」

「そうだよ。佐天くん詳しいね」

「昨日の夜に調べたからな。あっはっは!」

 言葉の意味は不明だが水着の種類か何からしい。二人の美少女がめちゃ似合う水着を着ていました、などと小学生レベルの説明しかできない僕とは違うようだ。首を傾げていたら、佐天が詳しく教えてくれた。

「ホルターネックは背中が広々としてて、マジで夏向けって感じ」

「そうとも。涼しいんだぜぃ」

 言いながら丹瀬はその場でくるりと回ってくれた。

 背中は彼女が言った通りに広々としていて、彼女の白い肌が露出している。明るい発色と解放感のあるデザインは夏の盛りに相応しく、通りかかった人の視線が一瞬とはいえ丹瀬に吸い込まれていく。

 丹瀬の水着には首元に向日葵柄のリボンが付いていて、よく似合っていた。

 機能性よりもお洒落性能しか理解できそうにない僕の知能よ、どうか成人するまでには成長していてくれ。それで、と佐天が神野に向き直る。

 神野の来ている黒い水着は、へそよりも少し上まで生地がある。フリルこそついているけれど、かわいいよりも落ち着いた雰囲気の方が勝っている印象を受けた。神野には、その方が似合っているとも思う。

「オフショルはオフショルダーって奴だ。肩を露出してセクシーにアピールしつつも、普通の水着よりも丈があるだろ? 服みたいに着られるところがポイントだな」

「しかもこれ、フリルがあってかわいいんだよね。本当はもっと胸元を強調する奴着せたかったんだけど。クロスホルダーとかー、いいと思ったんだけどなー」

「なんでよ。私は地味なのが良いのに文世に選ばせると露出が派手になるから嫌い」

「いいじゃん。ちーちゃん美人なんだし。スタイルも自慢していこうぜ!」

 他人が着る分にはいいけど自分が着るのは地味な奴がいい、と神野は僕に視線を向けながら文句を続ける。僕が選んで持ってきた水着は神野のお気に召すようなものじゃないようだ。色も赤くて派手だし。僕はクロスホルダーがどんなものかも知らないのだけど、話についていくために分かったふりをしておこう。

「丹瀬、どうして神野に派手な水着を選ぼうとするの?」

「えっ……ちーちゃんだから……? 私よりも色々とおっきいし」

「文世。あんまりなこと言うと、本気で叩くわよ」

「買い物の時にぶっ叩いたじゃん……かっちょいいビキニ着せたかっただけなのに……ちょっとえっちな衣装をとか思ってたのに……」

 睨まれてしょんぼりする丹瀬は珍しい。レア差分を手に入れた気分だ。

 ともかく、情報を仕入れた上で改めて着飾った女性二人に視線を向ける。

 丹瀬はテレビでアイドルがやるようなポーズを決めてくれたけど、神野は胸元を隠すように腕組みをしてそっぽを向いてしまった。二人とも完璧に近いほど似合っているのだけれど、あまり褒めると妙な考えを抱いているのかと疑われそうで言い出せない。

 と、佐天が活路を開いてくれた。

「ん。まぁでも、いいんじゃないか」

「そうだな。……神野も良く似合っているよ」

「そ。ありがと」

 礼を告げながらも脛を蹴って来るのは何故なのか。これが分からない。

 苦しむ僕を笑いながら、佐天は言葉を続ける。

「しかし意外だな。神野はドレスタイプとかだと思っていたから」

「お。佐天くんご明察。ちーちゃん、最初は真面目系で地味な奴ばかり選ぼうとしていたんだよねー。それ落ち着いたママさんが着る奴! みたいな?」

「でも好みなら仕方ないんじゃね? ってか神野、スタイルいいのな」

「気付かなかっただろー。制服だと体型分かりにくいよね。体育も男女別だし」

「それな。ちょいぷになのを想像していたけど、スレンダー神野って概念もグッドだぜ。二乃もそう思うだろ?」

 勝手気ままな評価を付けた後、佐天は泳ぎに行こうぜと走り出してしまう。そんな彼の後ろを丹瀬は嬉々として追いかけていき、神野は、と恐る恐る視線を向けてみれば深々と溜息を吐いて俯いていた。首を横に振る度、長い髪が左右に揺れる。佐天の言葉に悲しむでも怒るでもなく、呆れている、ってのが正しいかな。

 ふむ。少しは心が読めるようになってきたようだ。

 僕も泳ぎに行こうかと、一歩踏み出す。

 でも神野は動かない。

「ねぇ、行こうよ」

「私泳げないの」

「だから乗り気じゃなかったのか」

「まぁ、そういうのもあるわね」

 ふっ、と吐いた息で彼女の前髪が揺れる。目に掛ったそれを払う所作は熟練の女優のように美しくて、一瞬とはいえ見惚れてしまった。だから、だろうか。格好いいところを見せたくなったのは。

「本当に泳げないなら、僕が泳ぎ方を教えてあげようか?」

「あら、お願い」

「…………」

「どうしたの、急にフリーズして」

「あ、いや」

 冗談半分に吐いた言葉の責任を取ることになった、のは問題ない。

 誰かの為にって言葉ほど抗いがたい魅力を持った呪いはないし。

 でもなぜか、差し出してきた手を握り返せなかった。この前は普通にできたのに。少し立ち止まってみれば、心に引っ掛かるものがある。それが原因だった。

「ちょっと、どうしたのよ」

「いや、その」

「そんなに恥ずかしがらないでよ」

 差し出してきた手の平で、彼女は僕の肩を叩いた。恥ずかしがっているわけじゃないとは思うんだけど、照れているのは間違いない。そして他人に触れると言う行為が僕の心臓に与えてくるものは清らかで青春チックなものだけじゃない。

 胸の高鳴りには、常に痛みが伴った。

 微笑むべき場面で僕の顔は歪んでしまったのか、神野の顔もかげりを見せる。

「なによ、私のこと嫌いなの」

「それはないよ。でも……」

「ふーん。前から思っていたけれど、あなた、あんまり人付き合いが好きじゃないのね」

 バレていた。当たり前か。

 他人と心を擦り合わせるのはあんまり好きじゃない。雰囲気に流されるまま他人と触れ合った後は、その時に感じていた幸福よりも遥かに大きな後悔、みたいな奴に押し潰される。軽はずみな言動で相手を傷つけたんじゃないかと怖くなる。

 退屈は嫌いだ、でも孤独は苦しい。だけど、親しい人間と別れる日が来るとしたら。決別でなくとも、愛しき日々が薄れていくものだとしたら。僕はそれに、耐えられるだろうか。

「仁乃」

「大丈夫だよ、神野が嫌いなわけじゃないんだ」

 言い訳をして伸ばした腕は少し震えている。神野は僕の腕と顔とを見比べて、そしてぐっと近づいてきた。息が掛かるほどの距離で彼女は僕の瞳を覗き込んでくる。彼女は綺麗な瞳をしていた。心臓の痛みを、ほんの少しだけ忘れてしまうほどに。

 数回の瞬きの後、納得したように息を吐いて彼女は身体を引く。

「事情を聞いて欲しい?」

「別に」

「そ。じゃ聞かない」

 そう言って彼女は僕の手を握った。ズキリと胸が痛む。吐き気がした。

「でも話してくれなきゃ、私もこの手を離さないから」

「……ありがとう」

 彼女は驚いたように目を開く。でも、少し微笑んだ。

 あぁ、痛みが消えない。過去も忘れられない。

 この激しい鼓動が誰のせいで鳴っているのかも分からない僕は、このプールで過去のことも水に流せたらいいな、とか。そんな下らないことを考えていた。

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