第7話 勝ち負けと僕

 例の約束をした日から二週間。

 終業式で校長先生の長くても短くても退屈な話を聞いた後、僕らは一ノ瀬たこ焼き屋へと足を運んでいた。丹次郎夫妻が経営するこの店舗に、今日は終日休業の札が掲げられている。特別な理由があるわけではない、ただの定休日だ。約束を果たすにはちょうど良かったとも言えるけど、自分でたこ焼き作る破目になったのは面倒だな。

 そうだとも。

 僕は負けた。神野にテストの点数で。

 勝者はカウンター席に座り、澄ました顔でオレンジジュースを飲んでいる。

「神野、頭いいんだな。コテンパンだったよ」

「ダブルスコア狙いたかったんだけど、意外と粘られてしまったのが残念」

「それって僕をめちゃくちゃバカにしてない?」

「あら、違うの? 理系科目、壊滅的だったじゃない」

「文系科目は良かっただろ。でもなぁ、ちゃんと勉強したんだけどなぁ」

「嘘も休み休み言うことね。価値が下がるわ」

 敗北者は逃げることすら許されない世界だった。厳しい。

 しかしこうも無残に負けるとは予想していなかった。物理も数学も、一夜漬けで数式を覚えようとしたのが不味かったか。中学の時も似たようなことやって間に合わせていたんだけどなぁ、高校レベルになると流石に無理かぁ。

 ひょっとしなくても、僕は天才じゃないもんな。

 負けたものは仕方がない。気持ちは早々に切り替えるとしよう。

「たこ焼きの美味しさとテストの点数は比例しないからね。存分に食べてくれよ」

「本当かしら? それじゃ遠慮なく」

 いただきます、と彼女は微笑んだ。

 出会ってから今までで最も透き通った笑みだったと思う。

 まずはソースのかかっていないたこ焼きと、つゆ入りのお椀を差し出した。和風の味付けが好みのようで、注文は醤油、赤味噌と続く。フネに盛り付けたたこ焼きからはふわりと湯気が立ちのぼる。外はパリっと中はふわっと、完璧な焼き加減だった。色んな味を楽しんでもらえるように普段の半分の量ずつで提供しよう。

 一口目を頬張った神野は、はふはふと熱を冷ましながらも頬を緩ませる。

「上手ね、プロみたい」

「そうなる予定だからね。高校を卒業したら、そのまま働くんだ」

「ふーん。この味なら通ってあげてもいいけど」

「あは、そりゃ嬉しい」

 調子に乗って作り過ぎてしまいそうだけど、神野は何皿まで食べてくれるだろう。僕達が食べ盛りの年頃というのは理解しているつもりだが、多感な女子高生が炭水化物の塊を大量に摂取する絵面というものが想像しにくいんだよな。

 創作世界の女子高生しか知らないからしょうがない、でいいんだろうか。

 ダイエットとか言って残されると僕が食べることになるし。いいんだろうか。

「つゆで、もう一皿食べたい」

「あーい。ちょっと待っていて」

 注文をさばきつつ、洗い物も少しずつ済ませてしまう。仕事はこなせるときに済ませてしまった方が楽になる。宿題とかと一緒だな、長いことやっていると自然に身に着くものだった。

 注文通りのたこ焼きを提供すると皿を受け取った神野がすっと腕を伸ばしてきた。

「仁乃。あーん」

「せめて冷ましてくれ」

「えー。ほら、口を開けなさいよ」

「十秒前まで鉄板に乗っていたやつでしょ、火傷しちゃうじゃん」

「ふふ。料理に夢中でこっち見てないかと思って」

 見ているとも。楽しそうに食べる神野は目の保養になるから。

 前屈みになると垂れてくる前髪が鬱陶しいのか、彼女は黒いヘアピンをつけて食事をしていた。この前、教室でお昼を食べていたときはしていなかったように思うけれど、いつから付け始めたのだろう。それに、あんまり首を突っ込む気はないけれど、丹瀬も彼女と同じデザインで色が違うヘアピンを着けているような。ふむ、やはり、そういう関係か。

 どういう関係だよ。

 で、いくつか疑問があるんだけど、どれから解決していこう。

 右手でピックを動かしながら、左手で人を指差した。

「佐天、丹瀬。どうして君達もいるんだい。当然のような顔で注文してくるけど」

「丹瀬との賭けに負けてなぁ」

「ふふ、佐天くん。テストで私に勝とうなんて百万年早いのだぜ」

「どっちも答えになってなくない? ……まぁいいけど」

 佐天と丹瀬も、僕と神野みたいな勝負をしていたのだろうか。ま、友達が家に集まってお菓子パーティーを開くのと変わらないよな。料理番が僕一人だが、その分食べた人間の笑顔を一身に集められるわけだし。悪くなかった。

 ちなみに、の話。

 丹次郎さんから色々と許可は得ている。最後の片付けを徹底すれば、良識の範囲内で何を食べてもいいし、どの調理器具を使ってもいいそうだ。酒とかは流石に提供しないけどな。

 そういう『常識』というヤツを丹次郎さんは求めているのだろう。ライターやら諸々をポケットに忍ばせたまま高校に通う似非……似非か? まぁ僕はプチ不良だけど、問題を起こさない程度の常識はわきまえている。彼らの心配が現実になることはないだろう。

 マヨチーズたこ焼きに舌鼓を打ちながら、佐天が唸った。

「仁乃ってマジで料理うまいんだな」

「普通だよ。たまに店を手伝うくらいで、たいしたことはないんだ」

「ホントにぃ? はじめくん、実はずっと特訓していたとか」

 具体的には中学校から、と時期まで指定してきた。丹瀬は少しだけ僕の家庭事情を知っているから、察している部分もあるのだろう。詳細を伝えたことはないけど、彼女は頭がいいからな。うん、隠さずに教えよう。

「中学の頃に引っ越してからだよ。退屈を持て余しているなら、やってみないかと誘われたんだ」」

「そっかー、じゃぁ三年でプロになったのね。やっぱ、はじめくんはすごいね」

「二乃、引っ越し組だったの?」

「学校区は変わってないんだけどね。中学のときに色々あったんだ」

「ふーん。まぁ、実際に手際がいいのはすごいわ。感心、感心」

 佐天、丹瀬、神野。三人から代わる代わる褒められてしまった。なんか、むずがゆいぞ。

 異世界に転生して、そこでは未知の技術を褒められたなら、こんな気分なのかな。

 照れていたら佐天がぐっと身を乗り出してきた。しかも、手招きをしてくる。

「なぁ、急に話は変わるんだけど。仁乃は夏休みの予定、どうなってる?」

「しばらくは忙しい、と思うけど」

「マジか。遊びに誘おうと思っていたんだけどなぁ……」

 佐天が腕組みをして、天井を見上げた。

 佐天には悪いが、神野と連絡先を交換したときにも遊びに行こうと約束しているものでな。彼女との約束を有言実行するまでは迂闊に予定を埋めるわけにもいかないだろう、と考えつつ神野に視線を向ける。

 酷くつまらなそうな顔をして、たこ焼きを真っ二つに割っていた。

 うーん、誘いにくい。誰か助け舟を渡してくれ。

「大忙しなんだねぇ。はじめくん、大変そう」

「繁盛しているのでしょう、いいことだわ」

「ちーちゃん、皮肉屋だぞ」

「そういうつもりじゃないけど」

 数瞬前までにこやかだったのに、なぜだ。

 神野の地雷は踏み抜いたかどうかを理解するのにも時間が掛かる。より親密な関係を持つ丹瀬くらいしか、神野のことを完全に把握できていないんじゃないだろうか。

 それはさておき、と丹瀬が声を上げる。教室で教師に質問を飛ばすときのように、彼女は真っ直ぐ手を挙げた。ビシッと伸ばされた腕は見ていて気持ちのいいもので、そりゃ先生たちも彼女の質問には丁寧に答えてくれるわけだ。それも優秀な成績を保つ秘訣なのかもしれない。

「はい、丹瀬さん」

「お肉もあるんでしょうか? メニュー表みてたら気になっちゃって」

「あるよ。鶏の照り焼きならすぐ作れるけど」

「お願いします‼」

 食べたーい、と小学生みたいにはしゃぐ丹瀬は可愛かった。もう、それ以外に彼女のことを表現する余地などない。丹瀬とも遊びに行きたいなぁと妙なことを考える。カウンター越しに、絶対に届いていないはずなのに、神野に脛を蹴られたような気がした。

 鶏肉を鉄板に乗せて、軽くコショウを振ってから他の調味料の準備を済ませる。肉が焼けるのって、想像しているよりも少し時間かかるよね。

 調味酒をかけてドーム状の蓋をかぶせたところで、佐天に話しかけられた。

「なぁ仁乃。もう一回顔貸してくれ」

 佐天が再びカウンターに身を乗り出して、何かを言いたげな顔をした。

 鶏肉が焦げないように見張りつつ、彼に耳を近づける。

「プール行こうぜ。今月末に」

「……いいけど、耳打ちするような内容じゃないだろ」

「や、だって同級生をプールに誘うとか勇気いるじゃん?」

 彼の発言の意図を考えて、なるほど、と頷いた。この場に同席している女子二人を誘いたいってことか。丹瀬と約束をしていたのも思惑あってのことだろうか。ふむ、既に試合終了している気もするが果たして。

「僕はいいけど、あとは本人に聞くしかないだろ」

「仁乃が聞いてくれよ、得意だろ」

「お前は何を言っているんだ、僕は君達以外に友達がいないんだぞ。お喋りが得意なはずがないじゃないか」

「ん? なーに、悪い相談ですかァ?」

「……ま、佐天に任せるよ」

 そもそも佐天の口から勇気が足りない、などという言葉が出てくるとは予想外だった。彼なら誰とでも仲良くできるはずなのだが、緊張することもあるんだな。彼は深々と溜め息を吐いて、丹瀬に顔を向けた。

「マジで聞きたいの?」

「うん。君達の秘密の話を、この文世ちゃんが解き明かしてやろう!」

「どうせ平凡な話題よ。期待するだけ損だから適当に聞けばいいの」

「だってさ。佐天くん、気楽に話してみたら? 文世ちゃんは耳をウナギにして聞きますよぉ」

「せめてウサギじゃないのか……ま、いっか。落胆するなよ?」

 佐天は文句を言いつつも事前にプランは練っていたようで、集合場所、時刻の予定なども次々に披露していく。てっきり学校から近い市民プールにでも行くのかと考えていた僕は青春野郎にはなれないのだろう。彼の言っていたプールとは、電車を乗り継いで一時間ほどのところにあるレジャーランドの海水プールだった。スライダーなどの設備も揃っていて、アトラクションとしての質は比較できないほど優れている。

 ひょっとすると、君は天才かもしれない。

 などと呪いみたいな言葉を呟いてみた。

 話を聞いた丹瀬の反応は上々で、カウンターの椅子をギシギシとしならせながら喜びを表現していた。クラブでノリにノっている人みたいに身体も前後に揺れていて、フラワーロックを思い出した。

「夏だ! プールだ! 青春だー!」

「……そ」

「神野のテンションが低すぎるんだけど。なに、プール嫌いなの」

「そういうことはないけど」

「よし水着買いに行くか。行こう、ちーちゃん!」

「……これが五月蠅いから」

「あぁ、なるほどね」

 腕をぶんぶんと振り回して青春パワーを燃やす丹瀬の横で、神野は枯れかけた朝顔みたいにげんなりとしている。助けを求めるようにこっちを見ないでくれ、困るのは僕も同じだ。

 小学生の頃に丹瀬の買い物に付き合ったことがあるけれど、すごく疲れるんだよな。時間も掛かるし。遠足のお菓子を買うだけで一日のエネルギーすべてを使い果たすレベルだった。

「いやぁ、楽しみだなぁ、夏休み」

「いいよなぁ夏休み。一年で一番ハッピーだぜ」

「だよねー。佐天くん分かってるぅ」

 バシバシと音をたてながらハイタッチしている二人を眺めながら、僕も笑った。

 丹瀬文世は、本当に元気な少女だ。傍から見ている分には無限に可愛いだけの生物だけど、実際に関わっていくと魂のもつ熱量みたいなのが段違い過ぎて扱いに困る。咲き誇る花畑に酔って吐き気を催すタイプの人間もいるのだ。愛でることすら出来ずに美しいものを遠ざけるだけの人間も。

 あぁ、青春の雰囲気だけで酔いそうだ。

「で、仁乃も予定いいんだよな?」

「多分ね」

「オイオイ、当日にドタキャンとかやめてくれや」

「そうだよニノニノ、遊ぶなら楽しく、みんな一緒がいいんだよ」

「丹瀬まで。……もー、分かったよ。その日は絶対に休みを取る、それでいいだろ」

「おう。これでオレも喜べるな。バンザーイ」

 この野郎、そんなに僕と一緒にプールへ行きたいのかぁ? 変わった奴め。

 佐天との清々しいハイタッチを繰り返す丹瀬の前に鶏の照り焼きを差し出す。

 人生には幸せしかないように笑う彼女を、神野はどう見ているのだろう。

 黒髪の少女は何かを考え込むように、空になった皿を見つめていた。

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