第3話 家族と僕
友達とは学校で別れて、一人で家まで帰って来た。
今日は仕事の手伝いもないから暇になるだろう。
玄関をくぐると、まずやることがあった。
「ただいま――、と」
返事がないのはいつものことなので、色々と割愛。
くるりと自分の名前が書かれたプレートを裏返す。
我が家にはオシャレに仕事気分を味わえる(?)出退表示板があるのだった。
八千代さんお手製の木製プレートには家族それぞれの名前が書いてあって、僕の、仁乃はじめのプレートを裏返すと柴犬が描かれていた。日曜大工が趣味の丹次郎さんと絵を描くのが大好きな八千代さんが夫婦で協力して作り上げたものだ。家の至る所に彼らが作った家具が置いてあって、何ともまぁ幸せそうな家庭を築き上げている。流石に家屋そのものは業者が建てたものだけどね、と内角低めにツッコミを入れてみた。ストライクは永遠に取れなさそうだ。
ふぅ、と息を吐くとプレートは微かな音を立てて揺れた。
ただいまと声を掛けても返事がない寂しさを飲み込むたび、喉の奥がチクリと痛む。気が付かないフリをしながら台所へ向かい、冷凍庫から適当なアイスを見繕ってテレビを点けた。
ニュースは政治家の汚職ばかりを報道していて苦痛なほどに退屈だった。アニメの放送には浅い時間なこともあって僕が楽しめる番組はやっていないようだ。することもなくなって、足は自然と自分の部屋へと向かう。一ノ瀬夫妻が帰ってくるまでには時間があるし勉強をして時間を潰そう。
僕と違って友達が多いのだ。
階段をのぼりながら、埃っぽい空気に頭が重くなる。住んでいる家は築二十年、僕よりも年上な家屋は空気の流れが悪いのか埃が溜まりやすい。外壁も一部の塗装が剥げかかっていて格好が悪かった。部屋数の多いくらいが自慢だろうか。収集癖のある丹次郎さんが物置にしている部屋も多く、僕の部屋も、物置のひとつを掃除して使えるようにしたものだった。
食べ終えたアイスの棒をゴミ箱へ、通学鞄は机の側と放り投げた。
制服を脱ぎ散らかし、薄手の服に着替えてベッドへ横になる。湿気が籠っていて、あまり心地よくはなかった。勉強をする前にクーラーをつけようかと考えて、口を半開きにしたまま虚空を見つめる。特別いい考えが閃いたわけでもないけれど、リモコンを放り投げて窓際へ向かった。ガラス窓を開けると、ぬるい風が吹きこんでくる。涼しさは微塵も感じないけれど、ちょっとは健康的な生活をしている感じが出て気分が良い。
「平和だなぁ」
などと独り言を呟いてみても、退屈は薄れない。
生きることは苦痛の連続だ。
ただ、死にたくないから生きているに過ぎないのである。
「……どれ、覗きでもするか」
いや、犯罪じゃないよ。
窓を開けた先には平屋建ての隣家の屋根が見える。今日も赤茶色に錆びついているその屋根の向こう側には我が家と同じ二階建ての家があって、開け放たれた窓にカーテンが揺れているのが見えた。去年までは空き家だったけど、今年の春先に誰かが引っ越してきたらしい。町内会にも加入していないと丹次郎夫妻が話しているのを聞いたことがあった。近所付き合いをするつもりがないようで挨拶回りもしていないようだ。
チクリと、もう一度、胸が痛む。
今度は耐えることが難しくて、僕は机の引き出しにしまっておいた小さな箱を取り出した。白くて、手のひらに収まるサイズの箱だ。そこから取り出した秘密の薬を口元にくわえる。今日はひとまず、そこまでで我慢することにした。
「ご近所さんかー。知り合い以下、だもんな」
時代の流れだな、と素直に受け入れている。小学生の頃、近所に住んでいた老人たちには仲良くしてもらった記憶がある。だから地域住民同士の交流が減っていくのは寂しい気もしたけど、こんな田舎町でも誘拐や強盗みたいな事件があったりするからな。隣人すら信じられない社会になっていくのも仕方ないし、その結果として付き合いが減っていくなら受け入れるべきなんだろう。
どんな人が住んでいるのだろうと眺めていたら、急に部屋の電気が点いた。部屋の主が帰ってきたようだ。家族の話から、引っ越してきたのは二人の兄妹らしい。兄貴の方には興味もないけれど、妹さんの方は僕と同じくらいの年齢らしい。田舎だからな。付き合いがなかろうと噂話をする人々の口に戸口は立てられないのだった。
美人だったらなぁとか、挨拶くらいはする仲になってみたいよなとか、そんな妄想を膨らませる。机の引き出しに隠していた、もうひとつのものに手を伸ばそうとしたところで、マナーモードにしていたスマホに着信が入っているのに気づいた。
「っと、誰だろう」
履歴を確認すると同級生の名前が残っている。ふむ、これが女の子だったら心躍るだろうに男友達だからな。燃えないぜ。
咥えていた薬を箱に戻して電話を掛け直すと、すぐに受話器が上がった。
「佐天か。どうしたんだ」
『ニィノォ、助けてくれヨォ』
「はいはい。で、教科は?」
『古文と漢文。松崎の授業寝ちゃって』
「またか。そろそろ怒られるんじゃないの」
『頼むよ、溜めると後がキツいんだ。マジで。な、いいだろ?』
情けない声でお願いを繰り返す彼は佐天頼人。入学式の日に彼の方から話しかけてきて以来よく絡むようになった相手である。アニメやゲームの趣味も似通っていて話しやすいし、真面目でいい奴なのだが授業中によく寝ている。それで、分からなくなって僕に助けを求めるのだった。
学級委員の仕事や部活動で忙しいらしいし、しょうがない。今日も放課後に何かの仕事を頼まれていたようだし、誰かの為に働くのは悪いことじゃないからな。
教科書とノートを開いて机に向かい、受話器の向こうにいる佐天に話しかける。
「で、どこが分からんのだ」
『全部』
「張っ倒すぞ」
『だってよー、いにしえの日本語とかどうやって訳すんだ。どこから手を付ければいいのかも分からんもん。いにしえの中国語はもっと分からん。まず読めないし』
「古文って言え。いいか、まず単語ごとに分けろ。それから単語集を調べるんだ」
『探し方が分からんのだが。五十音順じゃないし』
じゃぁ今通話に使っている金属製の小箱を駆使してインターネットの海に問いかければいいではないか、とは思っても口にしない。どの出版社でも似たような教材を扱っているから、ネットには古文や漢文の全文訳くらい載っているに違いないのだ。けれど、それで勉強が出来るかって言われたら話が違う。
答えを書き写すだけで花丸が貰えるなら、みんな満点だろう。
「佐天、お前って英語も出来ないタイプだよな」
『おっ、よく分かったな!』
「前も文法聞いてきただろ。……しゃーないか」
友人がバカなのは放っておけない。僕も数学が苦手で彼に助けてもらうことがあるし、相互扶助の精神に則って教えてあげることにした。困ったときはお互い様、死なば諸共の共存関係だ。一蓮托生とはちょっと違うんだなぁ、これが。
「とりあえずノート開いて。あ、テレビ電話にモード切り替えるぞ」
『オッス』
画面の向こうに佐天がドアップで映し出されたけど、リアクションを与えると調子に乗って勉強どころじゃなくなるから無視した。芸人魂には火じゃなくて水を掛ける勇気が必要なのだ。
今日も黒縁眼鏡が似合う真面目系男子に、授業でやったところを伝えていく。佐天も最低限度の予習はしていると信じて、重要なポイントだけをかいつまんで説明していく。
教科書の内容をノートに書き写し、そこに訳や時代背景などを書き込むのが松崎先生の授業スタイルである。教科書に直接書き込むだけでいい、ノートをとる必要はない、と本人は言っているのだけれど文法の解説が詳細すぎて教科書の細い行間じゃ足りないんだよな。
ん?
これ、ノートを写真に撮って送れば教える必要は……字が汚いって言われると傷つくから、気付かなかったことにした。書き写すのはコピーであって勉強じゃない、そういうことにしておこう。
『おーい、仁乃?』
「ん、スマン。ぼーっとしていた」
『どうした。お前も寝てたんか』
「も、って。教えて貰いながら寝るとか、佐天はすげぇ度胸しているんだな」
『あっはっは』
笑い事じゃないだろ、と言いながら僕も頬を緩ませる。
半年前まで友人は丹瀬しかいなかったから、彼と過ごす時間は目新しいことの連続だ。感覚的にはテレビやネットの向こうにしか存在しなかった、手の届かなかった世界へ旅行出来るようになったのに近い。足元がおぼつかなくて、早く様々な経験をしなくてはと焦る気持ちもあった。
美しく尊いものほど、それが失われることを想像して恐ろしくなる。恋愛をしたことがないのも、向けた好意に嫌悪が返ってくるのを恐れてのことだというか、なんというか。
ま、言い訳に過ぎないか。
スマホから間の抜けた声が漏れてきて見ると佐天が顎を外しそうな勢いで欠伸をしていた。一区切りついて、集中力が切れたのかな。
『よーやく終わったぜ。拘束して悪かったな』
「いいよ。その代わり、僕が困ったら助けてくれ」
『オッケー、理系科目は任せろ。じゃあな、ニノ』
最後まで闊達に笑い続けていた佐天との通話が終了すると、溜息と共に肩から力が抜けていく。自分の体重と同じだけの重りを背負っていたように身体がだるい。まだ携帯を使って誰かと喋ることに慣れていないから、家族との通話でもこんな感じになる。
現役高校生ってのは常に携帯を弄っているイメージだったけど、僕には無理だな。小説を読んでいて溜まる心地よい疲労とは段違いだ。肩凝りも酷くなるし、スマホゲームに夢中だと眼精疲労が溜まるとも聞いた。
いいこと、ないんだよな。
大きく伸びをするとバキバキと骨が鳴った。ごろりとベッドに寝転んで時間を確認すると、もう晩御飯の準備をする時間だった。佐天との通話も結構な暇潰しになったようだ。
天井の木目に目を向けてピントを外すと、染みがぐにぐにと動いて見えた。ぼーっとしていたら模様が何かしらの食べ物に見えることもあって、メニューを考えるときは役立つのだ。溶けたように渦巻く焦げ茶色の模様が、焦点の合わない世界でくるくると回る。回鍋肉とか八宝菜が食べたくなってきた。中華系の料理だな。
体を起こすと、自然と視線が外へ向く。
窓から見える、知らない部屋のカーテンに。
あぁ、あの部屋には誰が住んでいるのだろう。シュレティンガーの猫みたいなもので、知らなければ、妄想は無尽蔵に湧き出てくる。
思春期真っ只中な桃色物語を展開して、恥ずかしくなって頭を振る。
今日は美鶴の好物を作ろう、と半袖のシャツを更に捲り上げた。
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