第2話 友達と僕

 教室で小説を読んでいたら肩を叩かれた。

 振り向きざまに頬を突かれて、文句を言う暇もなく質問を投げかけられる。

「同性愛について、仁乃はどう思う?」

「なんだよ、急に」

「いいじゃない。社会科のレポート、アンタの意見を書くから」

代筆宣言サボリかよ。ええと……どうも思わないよ。普通だって。特別なことじゃない」

「社会情勢に配慮したありきたりな答えね、満点だわ」

「つまらない、を丁寧に言い換えるな」

「だって本当につまらないんだもの。あなた、いい子ちゃんね」

 態度だけではなく言葉にも出して、神野は大仰に肩を竦めた。特別な事情があるわけでもないのにクラスメイトを馬鹿にしていいわけがない、と思ったけどそもそも他人を嘲るのは相手が誰だろうと、どんな背景があろうとダメな行為だったな。うーむ、考えが自分の中だけで完結して、その上でコロコロと変わる。僕なんかと友達になりたがる奴は、変り者に違いない。

 何を言っているんだろうな、僕は。

 話を切り上げて、読んでいる途中だった小説に視線を戻す。細い指を波のように揺らめかせて、神野がページの上に手をかざして妨害してくる。どうやら常識が欠けているのは僕だけでもないようだ。

「ま、仁乃じゃそんなもんかなー」

「どうして言い切れるんだよ。僕がつまらない理由、説明できるんだろうな」

「いい子ちゃんなのに悪い子。そして、どっちにも振り切れない半端な子だから」

「悪い子って。僕は不良じゃないぞ」

「あなた、学校をサボるじゃない。風邪って嘘を吐いて」

 小説の上に置いていた指を、今度は僕に向けてきた。

 鬼の首を取ったように自信満々、彼女は僕の秘密を暴いて見せる。確かに昨日は学校へ行くのが嫌すぎて仮病を使ったけど、それだけで不良認定されるのは癪に障る。心が折れるくらい普通のことで、普通というのは悪いものではないはずだ。

 いや、ちょっと待って。

「なんで仮病って知っているわけ? それに僕がつまらないこととの関係性は?」

「見た目よりも不真面目、だから信用できないってことよ」

「なるほど? 全然分からん。あぁー、黒髪美少女の神野さんには敵いませんなぁ」

「あら、褒めても何もないわよ」

 伸びてきた腕が僕の肩をぐりぐりと擦る。皮肉のつもりで吐いた言葉が神野を喜ばせてしまった、のだろうか。満面の笑みを向けられては否定するわけにもいかず、僕は溜息を吐いて場を濁した。

 ともかく、今日の授業は終わったんだ。学校に拘束される時間は短いほどいい。

 大きく背伸びをして、退屈な一日が終わったことを心から喜ぼう。

 二度寝したい衝動を堪えつつ登校したけど、高校での生活は存外に楽しいものだった。友達がいるだけで快適度が天と地ほども違うなんてね。誰もが知っているはずだけど、実際にその日々を過ごしてみるまで理解も出来なかったよ。

 とはいえ、学校を休む癖は未だに治っていないけど。

 外は眩しいくらいに晴れている。天気が良いだけじゃない。春という季節そのものが世の中を美しく見せているのだろうか。夏場の熱気が最高潮を迎えるには少しだけ猶予があるけれど、今年もげんなりするほど暑いことだけは確かだった。

「仁乃が窓の外を眺めていると、今にも飛び降り自殺しそうで不安になるわ」

「しないよ。物騒だな」

「本当かしら。飛ぶにしても私が見てないところにしてね」

「飛ばないって」

 ちょっと怒気を絡めて言葉を返すと、神野は冗談だと笑った。整った容貌の神野が笑うと一層、美少女という言葉が相応しいと思う。だけど彼女にとっての僕が友達なのか、たまに疑問に思うことがある。なんというか、玩具扱いされてないかなー、みたいな。いや、別に傷ついたりはしてないんだけど。

 むしろ楽しい。けど、なんか複雑だった。

「暇だね。平和なのはいいことだけどさ」

 背伸びをする。会話が途切れて、少しだけ気まずい空気を誤魔化すように。

 教室では、名前も知らないクラスメイト達が束の間の自由も無駄にしまいと歓談に耽っている。あの日、同級生の、それも同性が抱き合っている場面を目撃してから時間は随分と経過して、既に七月になっていた。あの日の光景を忘れるのは難しいけど、友達が少なければ話をする機会というものは案外訪れないものだ。秘密の暴露をすることもなく平々凡々な毎日を過ごしている。

 数奇な運命に弄ばれているのか、あの日の少女とは友達になっていた。

 神野かみの千尋ちひろ、まさに今、僕と喋っている彼女のことだ。

「はー、ひま。たいくつー」

「本当に退屈しているの? 僕の邪魔をしに来ただけじゃないか」

「そんなことないわよ。私は、あなたとお喋りしに来たの」

 とは言うものの話のタネもなくなったのか、彼女も窓の外を眺めている。品行方正な学生かと言われれば怪しいところもあるが、基本的には信頼のおける少女だ。初対面の相手には礼儀正しく、ある程度親しくなれば軽い冗談も飛ばすような、普通の子に過ぎなかった。僕と違って友達がいるし。いるよね?

 神野から、あの日のことを切り出されたことはない。僕が覗いていたことには気づいていないようだし、神野も抱き合っていたもう一人の少女、丹瀬とはクラスで普通の友達みたいに接している。他人には自分たちの関係を隠しているのだろうか。

 いつ口を滑らせるか不安だから、彼女とは距離をとるつもりだったのになぁ。

「ねぇ、仁乃」

 本当に暇を持て余しているのか、今日の神野は妙に絡んでくる。小説を開いているのに文字を追いかけるより先に話しかけられる。ただし、内容はお湯の量を間違えたときのコーンスープよりも薄かった。

「恋愛って難しいものなのね」

「ソウデスネー」

「返事が適当。なーに、恋したことないよーとか言うつもりなの」

「バカにしてんのか、これでも思春期真っ只中の」

「それじゃ仁乃の恋愛譚を聞かせて欲しいわ」

「……友達も少ないのにあるわけないだろ……色恋とか一度も経験したことないよ」

「ふふっ、それで思春期とか呆れるわね」

 うるせぇ恋愛至上主義者みたいなこと言いやがって、同性間の恋愛が自由に認められる社会では誰とも恋愛しない権利も平等に認められてぼっちであることも正当化されるべきなんだよ分かるかオラ。などと早口でまくしたてたいのをぐっと堪える。

 舌戦、弱いからね。

 僕の反応を見ながらニヤついていた神野が、ゆったりとした姿勢のまま足を組み替える。彼女は机の上に腰かけているから、椅子に座っている僕の視線は彼女の膝元にあって、どうにも居心地が悪かった。善性を試されている気分だ。

 別に、彼女の太腿に触れてみたいとか考えているわけじゃないんだ。

 本当だよ?

 話せるような恋愛譚や色恋沙汰など持ち合わせていない僕は彼女に振り返して誤魔化そうとした。

「神野はどうなの。恋愛トークとか得意なわけ?」

「私に聞くのね。初恋もまだな恋愛初心者さんは」

「うん。哀れな子羊に、豊富な恋愛経験から生み出されたアドバイスをよこせコラ」

「教えを乞う態度じゃないんだけど」

「いいじゃん、教えてよ。僕は恋を知らないんだから」

 正確には、過去のトラウマが起因して恋が出来ない状態なわけだけど。

 僕の煽りを受けた神野は唇に指をあて、何かを考え始めた。整った顔は何処か遠い世界を見ているのか、表情から感情を読み取ることは難しい。人差し指が下唇を左右に往復するのを無意識に目が追いかけていたことに気付いて、微かな自己嫌悪が胸を焦がす。

「……ま、私も恋したことはないわね」

 嘘だけど、と彼女の語尾に付けたくなった。

 サンタクロースの存在を無垢に信じる子供のように、僕は神野が同級生の少女に向けているだろう感情に対してある種の信頼を抱いている。幽霊を信じない人は実際に怪奇現象と出会っても科学的な根拠があるんだと、無理をしてでもこじつける。それと似たようなものだ。

 僕は彼女が、あの日の少女に対して深く重い想いを抱いていると信じている。

 それが他人には話せない秘密だというならば、無理に暴く必要もないだろう。

「はぁ、暇ね。これ何回目の溜め息かしら」

「これから小説を読もうと意気込む僕の邪魔をしておいて出る台詞がそれ?」

「どうせラノベでしょ。面白いの、ないじゃない」

「ひどいこと言うなー」

「事実だからね。表紙もタイトルも似たものばかりだし。あと女の子が薄着すぎ」

 エロ本と青春小説の違いが分からないのか?

 原稿用紙三百枚くらいかけて近代の若者文化に広く発達した文芸作品の一形態としてのライトノベルについて熱く語ろうとしたところで、教室の扉が開いて騒々しい男が入って来た。

 くそぅ、折角の早口チャンスを失ってしまったぜ。

「ほら、入り口でたむろしない。通れないだろ」

 教室の入り口で声を張り上げたのはクラス担任の松崎だった。大学生時代はラグビーをやっていました、と言えば誰もが彼の体格を想像できるだろう。筋肉質で肩幅の広い、三十代の男性教諭だ。休日はバイクであちこちを走り回っているという噂で、今日もいい感じに日焼けしている。彼が受け持ちの授業で披露してくれる土産話は教科書を眺めているよりも遥かに面白くて、一部から高い評価を得ている。

 女子よりも男子からの人気が高い人だった。

「よーし、今日も頑張ったか? 帰る前にプリント配るからな、席につけよ」

 教壇に立った松崎が手を叩くと、教室中に散らばっていた生徒達がそれぞれの席に戻っていく。帰りのホームルームの時間だった。長かったようで短い一日が、今日もようやく終わるのだ。誰も彼もが席に着いた時点で、教室の後ろの扉がガラリと開いて一人の少女が顔を覗かせた。キョロキョロと不安げに視線を彷徨わせて、誰かが声を掛けてくれるのを待っているかのようだ。あ、こっち向いた。

 手招きをすると、ピョコと頷いて教室のなかへと入ってくる。

 小走りだ、あざとい。

「ごめん、遅れちゃった? もう終わるとこ?」

「まだ始まってないよ」

「そか。よかったぁ」

 にこやかに微笑む彼女は、天使の生まれ変わりに違いない。路地裏にも花は咲くけれど、日向に咲いた大輪の花ほどは輝かない。彼女は向日葵のような人間だった。一人で誰かを待つ手持無沙汰な瞬間すらも、彼女なら絵になるほどに美しいだろう。

 容姿を褒め称えるだけでも無数の言葉が出て来るのに、彼女は内面まで清らかだ。

 あぁ、運命というのは本当に分からない。

 茶色い髪の少女、丹瀬文世。

 あの日に見たもう一人の少女は、僕の、一番の友人だったのである。

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