第2話 れくいえむ
ノアは、ほとんど眠れなかった。
明け方、ようやく少し,うとうとした。
鼻孔をくすぐる香ばしい匂いに、母の笑顔を思い出す。
母さん。よくパンを焼いてくれたね。
限りなく優しい、母の微笑み。
「ノア、起きて。もう8時を過ぎてます」
若い男の声で、起こされた。枕元から声はしたが、もちろん、直接、ベッドサイドに来たわけではない。
そうだ、タキ。
早朝、敷地内を散歩しよう、と約束したのに、それどころではなくなった。
ヤオの話は、衝撃がひどすぎた。タキにも聞いてほしかったが、初めて訪れた家で、寝入りを起こされ、そんな話を聞かされるのは、と考え直した。
「おはようざいます」
さわやかな笑顔。
ペパーミントグリーンの半そでシャツに、生成りのエプロン。
テーブルには庭の花が、つつましく飾られている。
「いい匂いだね」
どうにか笑顔をつくるノア。
タキは、クルミ入りのパンを焼きあげていた。
「どうして、私の好物が」
ノアが目を丸くすると、
「パンも焼きます、と言ったら、私は、クルミパンが好きだって」
自分で言ったんですよ、とタキに指摘され、
「そうだったかなあ」
記憶にないが、それを覚えていて、わざわざ焼いてくれたのは嬉しい。
ヤオの話を聞いていなかったら、どれほど楽しい朝食だったろう。
高すぎる天井。巨大なテーブルに、いつもひとりで食事をとるのに。今は、そばにタキの笑顔がある。
「おいしいよ」
正直、味わう余裕がなかったが、義務的に言った。
脚に顔をすりつけてくるリビは、女の子。
とろり半熟の目玉焼きは、庭に放し飼いの鶏が今朝、産んだもの。猫にも鳥類にも異変はなさそうなのに、なぜ人間の女性だけが。
昨夜、どうしても寝付けず、闇の中で、ムゼに命じた。
「モーツァルトの、レクイエム」
鎮魂の音楽であるレクイエムを、すべての女性に捧げたかった。が、
「配信不能」
「なに」
ムゼの応答に愕然としたが、すぐに、ぴんときた、女声が入っているからだ、と。ソプラノ独唱に、合唱も。
「デュリュフレのレクイエム、はいかがでしょう」
ムゼの提案に、
「じゃ、それを」
妥協するしかなかった。
このレクイエムも悪くない。オルガン伴奏で、女声の部分は、ボーイソプラノだ。
永遠の安息を彼らに与え
絶えざる光でお照らしください
全世界の男性が、女性への祈りを捧げているような歌声。
涙が、枕を濡らしていった。
そんなこんなで、食欲はなく、タキを心配だせてしまった。
「お口に、合いませんでしたか」
「いや、最高においしかった。ただ」
食事中に、まさか、あの話はできない。
食後のコーヒーを呑みながら、ノアは、タキに昨夜の件を明かした。
あまりのことに、タキも声を失った。
「地球上のすべての男が、母を、姉妹を、妻を恋人を、女性の友人、知人を。失ってしまった」
ため息をつくノアに、タキは、
「でも、まだ確定では」
「たとえ確定したところで。公表しないだろう」
「そうですね」
ここ10年ほど、何も公表されていない。人口も、男女比も、死亡数、出生数、その他もろもろが、一般人には全く知らされていないのだ。もちろん、女性が激減していることも。
「報道の自由は、どうなったのでしょう」
タキが、眉をひそめる。若者らしい、素直な疑問だ。
「報道しない自由、というものが、あるんだよ」
そう答えるしか、なかった。
「ノア。いま、こっちのスペースポートに着いたよ」
ヤオの声が、頭上から降ってくる。壁の大型モニターに、見飽きた顔があった。
「やけに早いな」
まだ午前10時だ。
「一刻も早く、おまえに会いたくて」
「なに言ってんだ」
苦笑するノア。腐れ縁の男から、こんな熱い言葉を受けるとは。
「タキ。もうすぐヤオが着く」
「プライベートジェット?」
それにしたって、早朝に出ないと無理だ。
「いや。プライベートロケットだ。シンガポールから5分」
「へえ」
80キロまで上昇、下降すれば、短時間で来られると聞いてはいたが、タキの周囲に、搭乗経験者はいない。ヤオが大富豪であることを、タキは聞いていなかった。
「さすがに、ここに着陸するのは無理だ。近くのポートからは高速移動機だろう」
そうこうするうちに、ヤオの移動機がやってきた。
黒光りする大型で、タキの乗ってきた白い移動機の隣に着陸した。タキのがオモチャのように小さく見える。
「ノア、会いたかった」
ヤオは、迎えに出たノアに、抱きついた。
「おいっ」
こんな スキンシップは初めてだ。
戸惑ったが、うれしさもある。昨日、タキと握手して、久しぶりに人のぬくもりに触れた歓びに、それは通じている。
ヤオの後ろから、屈強なスーツ姿の警護アンドロイドが2体、下りてきた。黒いサンクラスをかけて、いかにも、な風貌だ。
「ひどいことになった」
いつもは若々しいが、今日のヤオは、心痛のせいか、老けて見えた。
昼間から、ウイスキーをあおっている。ノアとタキは、炭酸水。
ノアが、ため息交じりに、
「なんだか、女性がすべて、月に行ってしまった気がするよ」
今、女性は月である。
平塚雷鳥の、そんな言葉からの連想だったろうか。
「女性がいるなら、俺は今すぐ月に飛んでいくよ」
ヤオは、口をゆがめた。
「あんな、石ころだらけの。かぐや姫の御殿なんか、ありっこない」
一時、月の開発が盛んだった、様々な資源が埋もれていると。だがコスパが悪すぎる上に、世界的な人口減の中、意味がないとして、月は再び、打ち捨てられた。
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