第5話 漆黒の、究極の、まじヤバい雫(語彙力)

「くぁwせdrftgyふじこlp!!」


「う、うるさい……鼓膜破れる……」


 耳元で絶叫された海斗は、なんとか弥生の束縛を振り切って脱する。そしてブリに近寄り、その尾を掴んだ。


「いやああああああああああああああああああああああああああああ!」


 海斗の背中に強烈な衝撃が奔る。弥生のドロップキックが炸裂したのだ。


「いったあああああああ! 何すんだよ! いってぇ……」


 倒れ込んだまま、海斗は背中を押さえる。ライフジャケットがなかったら本当に危なかったかもしれない。


「うるさい! 邪神じゃなくてもドロップキックぐらいするわよ!」


「うるさいのはどう考えてもお前の方だよ!」


 ひとしきり騒いで色々と発散できたのか、弥生は少し静かになり


「い、いいから! さっさと捌いちゃってよ! 刺身になっちゃえば平気だから!」


「おい、それは魚に失礼だろ──」


「ち、近づかないでよ! もっかい蹴るわよ!?」


 海斗は速やかに退散した。


「捌くって言っても、俺まな板持ってないからなぁ」


 流石の海斗でも、まな板を常備しているはずはなく。


「しょうがない、別のもので代用して……」


 ライフジャケットの中をゴソゴソと探る。


「……まぁ緊急事態だし、これでもいいか」


 取り出したのは大きめのビニール袋。それを数枚重ねて石畳の上に敷く。


 本当だったらきちんとした設備の元で調理するのが、魚に対する最大限の敬意だとは思うが、今回ばかりは許してほしい。


 海斗はブリをビニール袋に乗せ──


「よし」


 なんと、次の瞬間には捌き終わっていた。


「できたよ」


 蹲って震えている弥生に声を掛ける。


「は? いくらなんでも早すぎるわよ! こんな一瞬で捌き終わるわけないじゃない! あんた蹴り殺されたいの!?」


 言われた通りに早く捌いても罵られた。海斗はどうするべきだったのだろうか……?


「いや、噓じゃないって。鯖いたから。……あ、捌いたから」


「誤字の仕方!?」


 思わずツッコミを入れて顔をあげた弥生は、視界に捌き終わったブリを捉える。


「あ、あれ……?」


 驚きのあまり目を丸くする弥生。そこには料亭で出てきそうな活造りがあったのだ。


「ほら、捌き終わってるでしょ?」


「ジェ、ジェバンニ……」


 あっけに取られてロクな返事もできないようで、ゆっくりと立ち上がり、無言でブリへと近づいていく。


「……なんであんた、無駄に器用なのよ」


 そう言葉を漏らすと、海斗の隣に腰かけた。いちいち引っかかる言い方をしてくる。


「箸がないから手で食べて。寿司とかは素手で食べたりするし、その延長だと思えばいいと思う」


 「いただきます」と言って、海斗は一切れを口にした。先に食べた方が、弥生も食べやすいと思ったからだ。


「あ~、美味すぎる~」


 厚みの柔らかな身が、舌の上で踊る。上質な脂の乗ったそれはしかし、しつこくなくさっぱりとした味わいだ。流石、冬魚の王様、ブリである。絶品だ。


 海斗の幸せそうな表情に、弥生は思わずゴクリと唾を飲み込む。そして手を合わせてから、自らも一切れを口にした。


「な、なにこれ……美味しい! いつも食べてる魚とは違う……!」


 弥生は目を見開いて感嘆した。


「そうだね。やっぱり魚は新鮮さが命。スーパーに並んでる魚よりもさらに鮮度が高いから、一層美味しく感じるんだよ」


「なるほど、そういうことだったのね」


「それに、俺が捌いたからっていうのもあるかな」


「……は?」


 訝し気な視線を送る弥生。


「いやいや、捌き方は大事だよ? それだけで味って結構変わるから」


 実際、包丁の研ぎ具合で味が変わるというデータもある。刺身というのは単純なようで、奥が深いのだ。


「……って、あんたなんで泣いてるのよ?」


「ぐすっ、だって、だって……こんな美味しい魚を捌くのに、血抜き用のミニナイフしか持ち合わせてないなんて……悔しくて……」


 海斗は腰のベルトに収納してある小型のナイフを握りしめ、涙をこぼした。


 これは血抜きと呼ばれる、魚の鮮度を保つために行う処理で使うナイフだ。文字通り魚のエラを切って血を出すのだが、それは断じて残酷ないたずらなどではなく、魚を家に持ち帰った時、美味しく頂くために必要な処理だ。


 似たようなものに鹿児島の屋久島で有名な「首折れサバ」というブランドもののサバがあるが、このサバの首をわざわざ折っているのは、血抜きをするためでもある。それだけ血抜きは鮮度を左右する重大なものなのだ。


「え、美味しいし、別によくない? 私、包丁でそこまで泣く人初めて見たんだけど」


「なに言ってんだよ! きちんと研いだ柳葉包丁と上質なまな板さえあれば、もっと美味しく食べてあげられたんだぞ! ふざけるのも大概にしろ!」


「いや、ふざけてないですけど……」


 思いもよらぬ沸点に、つい敬語を使ってしまう弥生。


「ああ……醬油があれば、なおよかった……」


「あ、それな。私もそれは思った」


 やっと話の次元が合致し、まともな会話が成立する。


「醬油、それは神の与えたもうた至高の調味料。まるで魚と出会うために生まれてきたような究極の雫……!」


「一瞬でもまともな会話が成立したと思った私が間違ってたわ」


「俺はまともなことを言ってるつもりだぞ」


「なおさらアウトよ。あんたの脳みそ」


 弥生は嘆息をつく気力もなく、虚ろな目で海斗を見ていた。


「あのな、醬油は王道かもしれないけど、歴史の淘汰に耐え忍ぶ人気があったからここまで生き残ってきたんだ。刺身と言えば醬油! それ以外はない!」


「はいはい分かった分かった。一度落ち着きなさい」


 真面目に反応するのも億劫だというように、適当なあしらい方をする。海斗はなにか言いたげな素振りを見せながらも、素直に黙った。


「でも、醬油なくてもやっぱり美味しいわね」


 刺身を飲み込んだ弥生が、醬油から話を逸らす。


「当たり前だよ! マズいわけがない! シンプルイズベスト! 無駄なものをつける必要なんてないんだ!」


「さっきまでの醬油愛どこ行った」


 早すぎる手のひら返しに、弥生は的確なツッコミを入れた。


「うーん、醬油は好きだけど……やっぱりオリーブオイルもいいし、塩っていうのも乙だよなぁ……」


 暫く考え込んだ後、


「やっぱり決められない☆」


「本当、なんなの? あんた」

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