Phase4

 前々から思っていたことなのだが、やはり六畳のアパートは狭い。

 二人で住むとなるとなおさらだ。

 仕事を始めて数カ月経ち、貯蓄も少しずつたまってきた。

 そこで俺は引っ越しを決意した。



 気に入った部屋はすぐに見つかった。

 会社に自転車で行ける距離のマンションの一室だ。



 引っ越しの準備は岸井さんと協力しておこなった。

 最初彼女は、俺が引っ越すと同時に俺のもとから去らないといけないと思っていたらしく、寂しそうにしていた。

 しかし俺に岸井さんを追い出す気は毛頭無かった。


「一緒に引っ越さないんですか?」

 

 そう訊いた。


「いいんですか?」


 彼女は目を輝かせた。






 引っ越しの一週間前、俺らはテレビを見ながら段ボールに荷物を詰めていた。



 テレビではニュース番組が放送されていた。

 プロ野球の速報から画面が切り替わり、キャスターが前日に起きたらしい殺人事件について報道し始めた。

 娘を連れた父親が、ナイフを持って暴れている男を止めようとした際、運悪く自分にナイフが刺さってしまい、そのまま亡くなったということだった。

 隣に目をやると、岸井さんがとても苦しそうな顔で小刻みに震えていた。


「どうした? 体調悪い?」


 俺が尋ねても岸井さんは反応しない。代わりにぶつぶつと呟いていた。


「あの時私は、私があんなこと言わなければ、どうしてあの時、私は、私は………」

「大丈夫か? 落ち着いて」


 さっきよりも少し強めの口調で言ったが耳には入っていないようだ。

 岸井さんは右手で包帯を巻いた右目を押さえながら呟き続ける。


「私は、私のせいでお父さんは、私のせいでお父さんは、私のせいでお父さんは、お父さんが死んだのは、私の、私の………」

「岸井さん、落ち着いて!」


 俺は目を押さえていた右手を掴んでもう一度、今度はもっと強い口調で言った。

 岸井さんは黙った。

 彼女はしばらく左目を見開き、右手を右目に当てたままぼんやりしていたが、少し経つとゆっくりと包帯から手を放した。


「ごめんなさい。びっくりさせちゃって」


 まだ呆然としているように見える彼女の横顔を見て、ふと、彼女の目には今、どのような景色が映っているのだろう、と思った。

 俺は彼女が取り乱したのを、酔ったとき以外でそのとき初めて見た。

 それは俺が岸井さんと何日も同じ場所を共有しながら、彼女のことを何も知らないということなのかな。

 彼女がどのような人生を歩んできたのか、俺が知っているのはほんの少しだ。

 彼女が本当に心穏やかに過ごせる場所はもしかしたらないのかもしれない。

 でも、でもせめて俺のところでだけは、安らかに過ごしてほしい。



「岸井さん、あんたにどんな過去があって、何に怯えてるのか、俺にはほとんど分かんね。でも、ここではありのままの自分で過ごしていいんだぞ。ここにいる限り、俺が岸井さんのことは守るから」


 岸井さんは驚いた顔をして、その後泣き笑いの表情に変わった。


「ありがとう……ございます」






 引っ越しの前日の夜のことだった。

 岸井さんは昼に買い物に出かけて、そのまま帰ってこなかった。








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