或る末路

「なあ、頼むよ。」


 海辺の砂の城のようにゆっくりと崩れかけた男がそう言った。


「体が、もう無理なのは良く分かってる。だから、だから、な?この魂だけでいいから、なあ救ってくれ、後生だから。約束を破る事になっちまうが。」


 魂の概念があるのに、何故?

 僕は唇を噛んだ。


 そして無理だ、と出来るだけ感情を表に出さないように丁寧に言葉を吐き出す。

 それは軽い口約束や呪いなんて生易しい物ではなく"契約"なのだ。


 しっかりとその姿を、目を見開いて視界に捉えていないと男を不憫に思い感情が揺れてしまう。

 勿論そんな事は許されていない。




 ─すでにそんな段階はとうの前に過ぎてしまったのだ。


「考える力も踏み止まる時間もあった筈じゃないか。残念だ、もうとっくにそれは過去のものになってしまった。あなたの届かない場所へ願いは消えた。」


 ザラザラと少しずつ音を立てて男の身体が崩れていく。

 跪いた男はある種の宗教的な絵画のように見えた。それがとても皮肉めいていて僕は目を逸らす。


 出来る事はただ一つ、見送る事だけだ。


 ─魂か、と僕は思う。


 これだけ悲惨な末路に陥ったとしてもなお魂の救済を求めるものなのだな、と僕はあるたぐいの感銘を受け、もう形を保っていられなくなった男を愛おしいと思ってしまった。


 …前提として、望まなければこんな事にはならなかったのだが。


「駄目なんだよ、魂ももうまともに還る事は出来ない、あなたは然るべき場所に囚われる。すまない。」


 彼は、煮詰めたような苦悶に満たされていく。


 音のない時間が流れる


「…そうか。そう言えばそうやって約束していたか。来世でも家族に会いたいと思っていたがどうやらそれも叶わないらしい。」


 崩れていく男の顔に諦念と共に、ほんの少し安堵の表情が辛うじて見て取れた。覚悟を決めた人間の顔。


 看取るのは初めてでは無い。この結末の、色んな人間の最期に立ち会ったが時々こういう表情をする者達が居た。


 僕は彼が強い人間なんだなと思った。

 …いや、ただ愚かなだけなのかも知れない。

 彼の心中を察する事は出来ない。


 の中にまだいたかっただろうに、彼らは何故か肩の荷が降りたような顔をする。


 それは気付いていないだけのものが大半なのだ。

 "魂が囚われる"事の恐ろしさを理解なんて出来ない、それを語る者など存在し得ないのだから。





 そこで男は事切れた。


 これは救済でも、ましてやだつなんてものでは断じて無い、しかしそんな事を死に際に伝えられるほど僕は非情にはなれなかった。


 ─だから僕はいつも事実だけを伝える、言葉が足りなかったとしても。


 ただ死ぬ事とは訳が違うのだ。



 今回も、これで良かったのかと自問自答し、少し心が痛んだ。



「せめて慈悲を。」



 僕は砂になった哀れなこの男の残骸を両手ですくい上げた、もう言葉も届かないだろう。


 ゆっくりとその両手を契約者に捧げる様に掲げた。


 光を帯びたそれは朝日に照らされると残光のちりの様にさらさらと優しい風に吹かれて消えていった。

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