第28話 水族館に行った(3)
そう言ってカタリナは、机の上のノートをばらばらめくった。月震のせいでノートの紙も揺れていたが、カタリナはそれを手で押さえた。
ノートには文章がぎっしりだったが、カタリナはそれを丁寧に読まず、そっと左手で片側のページを覆って、小さくつぶやいた。
「‥‥わたしたちには時間がないわ。なんとしてもXデーまでにユマを味方につけないと、この戦いに勝つことは不可能よ」
『なんならオレたちがハンナを妨害しまっせ?』
電話の声がそう言うと、カタリナは表情を曇らせた。
「‥‥‥‥引き続きユマやハンナの監視をお願いするけど、それ以上のことはわたしの指示があるまで待機して」
『へいへい』
「それでは、我らがオルガに栄光を」
『我らがオルガに栄光を』
カタリナは電話を切って、そっと机の上に置いた。そして、そのスマートコンとノートをまとめて、ペンライトを当ててボール形状に縮めた。そのボールを持って椅子から立つと、タンスの上にぎっしり並んでいるトロフィーのうち奥にあるものを選んで、そのカップの中にころんと入れた。月震に合わせてボールが転がり、カップが音を立てる。
カタリナはユマのことが好き。でも、それは本当のことだろうか?ユマを好きな自分と、ユマを危険に晒そうとしている自分は、果たして矛盾していないだろうか。時々、それがわからなくなる。
だが、その日が来るまでにユマを味方につけないと、間違いなくカタリナは死ぬ。カタリナはそれを確信していた。
「‥‥やれやれ、悪役も楽じゃないわね」
そう言って、ため息をついた。
カップの中を転がるボールが、この時ばかりはやかましく感じた。
◆ ◆ ◆
「わあ、ペンギンだよ!」
東館では、部屋いっぱいに広げられた柵の中で、ペンギンが多数飼育されていた。本来なら人間がペンギンたちの中に入って触れ合うこともできるのだが、月震のためにどのペンギンも落ち着かない様子で、もちろん触れ合いは中止だ。それでも、かわいいペンギンたちが団欒している様子を見ると、癒やされる。
「ほら、あそこの親子ペンギン、かわいい」
月震で震えている子供ペンギンをなぐさめる親ペンギンという構図がかわいくて、私は思わずそれを指差した。
「あちらのペンギンは揺れの中でも水中を泳いでいて、たくましいです」
ハンナもかわいいペンギンを見て興奮したのか、あちこちのペンギンを次々と指差した。元気が戻ってきた様子で、私はほっと胸をなでおろした。元気のあるときのハンナの笑顔はかわいくて、愛嬌を振りまいていて、見ているだけで癒やされる。純粋な白髪と、特徴的なエルフの長い耳が、ハンナの雪のように美しい顔を引き立たせている。
「‥‥ユマさま?」
ハンナが心配そうな顔をして私に尋ねてきた。
「え、どうしたの?」
「先程からわたくしを見ているようですが、何かありましたか?」
そう言われて、私ははっと気づいた。私、さっきからペンギンではなくハンナを見ていた。無意識のうちにそうしていても違和感ないくらい、ハンナが愛嬌振りまく様子はとてもかわいらしく、ペンギンに負けないくらいの異彩を放っていた。
「‥‥あ、何か言おうとして忘れた、何でもないよ」
私はごまかすように顔をぷいっとそむけた。この胸の高鳴りも、ハンナに告白されていなければ、これがデートではなくただのお出かけだったならば、起きなかったのだろうか。私は柵をぎゅっと握って、ハンナの指差した方向にいるペンギンを眺めて褒める作業を始めた。
東館で過ごすうちに、月震の揺れが少しずつ小さくなってきた。このペースだと、あと30分あれば完全に収まるだろう。ペンギンたちも落ち着いてきた様子だ。その時、アナウンスが流れた。
「イルカショー、15時開始予定だったものを30分延期しておこなうって。よかったね、ハンナ」
「‥はい」
ハンナは嬉しそうに顔を赤らめてうなずいた。
◆ ◆ ◆
夕日は2時間前と比べてさらに深く沈んでいたものの、イルカショーは大きなトラブルもなく終わった。何より、高く跳ぶイルカが印象的だった。あれは私たちの身長どころか、屋上にある施設の高さすら超えていた。30メートル、低めに見積もっても20メートルはあったと思う。あれだけの高さをイルカは跳んだのだ。インストラクターが魔法で空中に浮かべた大きなフラフープを、イルカは安々とくぐり抜けてみせた。
もちろん水しぶきも、地球とは比べ物にならない規模で襲いかかった。前にいた私たちはもちろん、後ろの方の席にもかかった。月の水族館が初めてで後ろに座る人たちはたいていシートも何も用意しておらず無防備だったらしく、ショー開始前に係員が何度も警告していたにかかわらず、後ろの方から大きな悲鳴がとんできた。ただ、水しぶきがかかる範囲が広い分、私たち2人にかかってきた水の量はそれほど多くはなかった。
「イルカ、すごかったね!」
「はい、つやつやした体が印象的でございました」
ショーが終わった後は私もハンナも興奮気味で、フードコートのテーブルを囲んだ。アイスも平らげたにかかわらず、私とハンナはイルカの話で盛り上がった。お互いが楽しそうに話している話題ほど、話しやすいものはない。
話していて思ったのだが、昼食時にハンナが不機嫌そうな顔をしていたのは、世間話をしているときに私があまり楽しそうな顔をしていなかったからではなかったのだろうか。話し相手がハンナという理由で楽しいには楽しいのだが、それがハンナにきちんと伝わらなかったのかもしれない。それもきちんと伝えたほうがいいだろう。
「ハンナ、話は変わるけど」
「‥はい」
意識して笑顔のままでいた私と対照的に、ハンナは急に真面目な顔になった。
「昼ごはんの時、私たち話してたよね。その時、ハンナはつらそうな顔をしてたけど」
「‥‥っ」
「どうして?」
図星だったのか、ハンナはさらさらの白い髪を揺らしてうつむいてしまった。少し待っても答えは来ない。答えづらい問いだろう。
「私が楽しそうにしてなかったのを気にしてたからだと思うけど、合ってる?」
「‥‥はい」
ハンナは小さくうなずいた。
「私は、話し相手がハンナだからいいと思ってるの」
「‥えっ?」
ハンナはまた顔を上げて、驚いた顔を私に見せた。
「確かにお昼の話は今のと比べて楽しくないというか、つまらないって意味ではないけど、普通の雰囲気だったよね」
「はい」
「でも私は、話し相手がハンナだったから楽しかった」
「‥‥っ」
少しのけぞったハンナが机の上に置いていた手に、私は自分の手をそっと乗せた。
「今日のために一生懸命計画立ててくれたのも、計画が狂って落ち込んだのも、私に嫌われたくなかったからでしょ?」
その質問にハンナは固まったまま答えなかった。
「私は、ハンナが思っている以上にハンナのことが好きだよ。もちろん友達としてだけど。デートがうまくいかなくても、こうしてハンナと一緒にいられるだけで楽しい」
「ユマさま‥ユマさまはお優しいです‥」
ハンナは目を細めて、それから片側の目を手の甲で押さえた。涙が出ているようには見えなかったが、それがハンナの今の気持ちだろう。
「友情と恋は違うし、私もどこからが恋なのかよくわからないけど、ハンナはいつも通りのハンナでいいと思う。私を楽しませてって言いづらいけど‥もっと肩の力を抜いて」
「‥‥ユマさま、ありがとうございます」
ハンナはぺこりと頭を下げた。この仕草も丁寧でかわいくて、真っ白な後ろ頭を見て私は笑顔になった。
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