第25話 姉のクッキーを食べた

思えば小さい頃から、カタリナは料理が得意だった。すば抜けて得意というわけではなかったが、それでもレシビを一度教えただけなのに飲み込みが早いと義理の母が言っていたのだから、普通の人よりは上手いのだろう。

私が初めてカタリナのクッキーを食べたのはジュニアスクールに入ってからだった。当時、カタリナが初めて作ったというクッキーも、超がつくほどおいしかった。憧れの姉だからといって贔屓したわけではない。プロには若干劣る程度の出来栄えだったのだ。そのあと、カタリナはクッキーを何度か作っただけで、店で売っているようなクッキーの味を超えた。

カタリナは特に菓子職人を目指しているわけではない。噂を聞きつけた近所の菓子屋のアルバイトから熱心に勧誘されたが、カタリナはあくまでメグワール学園への進学を望んだ。当時の私にはそれの意味が分からなかったが、カタリナの妹であることは幸せだと思った。

だが、これだけは強調したい。別に腕前がいいという理由ではない。作った人が私の憧れで自慢の姉だから、このクッキーは世界で一番美味しいのだ。


「‥‥私も何か、お返ししたいな」


ほとんど無意識に、私はぼそっとつぶやいた。それがカタリナの耳に入ったようで、「ふふ」という小さい笑い声が聞こえた。急に私は、自分には一流のプロレベルのお菓子に釣り合うものが作れないことを思い出した。背中から冷や汗が流れているのを感じる。


「あっ、い、今のなし」

「わたしは嬉しいけどな」

「えっ?」


カタリナは、逃げる獲物を捉えるように、すばやく反応した。


「ユマがわたしに何か作ってくれるなら、それがどんな出来でも関係ないわ。わたしはユマのことが好きだから」

「‥‥っ」

「大切な人がわたしのために何かしてくれるだけで、わたしはそれが世界一嬉しいの」


私の頬は紅潮していた。しかし、そんなことを気にする余裕はなかった。ただカタリナの言葉が私の中に突き刺さって、心臓の大きな鼓動が頭から離れなかった。


「お姉さん‥‥私‥‥戻るね」


私はそれだけ言って、素早くベッドから立ち上がった。カタリナは特に止めてこなかった。私はカタリナが動く前に、早足で部屋を出て、ばたんとドアを閉めた。廊下には何人か人がいたが、私は顔を隠すようにうつむきながら素早く歩いた。どうやっても、カタリナの顔とあの柔らかい声が頭から離れないのである。口の中には、奥歯にクッキーのかけらがまだ引っかかっていたようで、そこからまたふわりと、わずかに甘い味が口の中に広かった。


◆ ◆ ◆


私は隣の部屋の同級生から借りたお菓子の本を机の上に広げた。レイナもたまにお菓子を作って学園に持ってくるのだが、あいにくこの時はでかけていた。

本を読みながら、私は先程の自分の気持ちにいろいろ説明をつけていた。私はカタリナのことが姉として好きであって、百合としての好きではない。何かあるたびに、そうやって自分を無理に納得させている。何度も何度も自分に言い聞かせると落ち着くのである。


「クッキーか‥‥」


クッキー以外にも色々なお菓子の作り方が書いてある。ただ、ショートケーキは自分にはハードルが高そうだし、パイもサイズが大きくて敷居の高さを感じる。


「どうしよう‥」


私はその本をゆっくりめくりながらぼんやり思案した。私は特にお菓子作りが得意というわけではないが、カタリナはどんなものでも喜んでくれるという。だからといって適当に作ったものを押し付けたくないし、一生懸命作ったもので喜んでもらいたい。


「お菓子の本でございますか?」


突然横から声がしたので、私はびくっと反応して声の主を見た。ハンナが横から覗き込んでいた。


「あ、うん、なんかお菓子を作りたいなって」

「わあ、ユマさまの作るお菓子、食べとうございます」


ハンナはにこっと笑って反応して、それから少しの間を置いて言った。


「わたくしもお菓子を作って、ユマさまに食べてもらいたいです」

「ん‥‥ハンナ、お菓子作れるんだっけ?」

「いえ‥」


学園で技力を避けて魔力を専攻しているだけあって、手先があまり器用ではないハンナはためらっている様子だった。ハンナも私のことが好きで、私のために何かしたいと思っているのだろうか。だが、ハンナが少し怖じ気ついた様子だったので、私は助け船を出すことにした。


「難しいお菓子じゃなくても、簡単なのでもいいかな」

「は‥はい」


ハンナはゆっくりうなずいた。そして荷物を自分の机の上にそっと置くと、そのまま部屋を後にした。


◆ ◆ ◆


その2日後。ハンナとのデートの日が来た。

デートプランは全てハンナが決めると言っていたが、不器用なハンナにすべて任せるのはやっぱり不安なので事前にどこに行くかくらいは聞いてもいいだろう。そうすれば私も事前にある程度調べられる。そう思って私は起床するやいなやハンナのベッドに行ったのだが、もうそこは空っぽだった。

レストランにもハンナの姿はない。食事中、カタリナに「きれいな服ね、今日はおでかけ?」と言われたので、適当にお茶を濁した。私は待ち合わせ場所として指定された女子寮の玄関へ行き、そこでやっとハンナの姿を見ることができた。絹のような白い髪に似合って、青色のワンピースを着ていた。


「ハンナ、おはよう。朝ごはん、一緒に食べてもよかったのに」

「ユマさま、おはようございます。よそ行きの服同士で食事をすると目立ってしまいますので‥‥」


ハンナはこう答えた。カタリナの対策をしていたようである。ハンナがそこまで計算していたことに、私はびっくりしてしまった。

屋外は夕焼けであった。明日から夜が始まるだろう。赤みかかった空が、私とハンナを反射する。夕日で赤く染まったお互いの顔を見合い、雑談をしながらバス停へ向かった。


「今日はどこへ行くの?」

「セビレというところにある水族館でございます」


ハンナは丁寧に返事した。


「私も噂には聞いたことあるよ。大きい水族館があるって」

「はい。わたくしも初めてでございますので、ユマさまと一緒に行けること、楽しみにしております」


ハンナがそこまで話したところで、学園の最寄り駅ホジーベ駅へ向かうバスが来た。空は夕方であるものの、朝の通勤の時刻である。まだ汚れていないきれいなスーツを着た大人たちが多数乗り込んでいた。座れる席はないので、私とハンナはバスの中腹あたりのつり革を握った。バスが走り出した。

月は重力が地球の6分の1なので、同じスピードでも、地球では普通の速度だったものが、月では猛スピードになる。乗り物自体が軽くなり、向かい風の影響を受けやすくなるため、乗り物がすぐに吹っ飛んでしまう。なので、乗り物には重りが取り付けられていると聞いたのだが、乗り心地は地球のものとほとんど変わらない。

バスの中で、私のスマートコンの着信音があった。ショルダーバッグから取り出して見ると、カタリナからだった。しかもメールではなく電話の要求だ。私はそれを拒否して、ハンナに「ちょっと取り込み」と断っておいて、大急ぎでメールを打った。


<今、電話できない場所にいるからメールするね。どうしたの?>


返事はすぐに来た。やはりカタリナは手先が器用なので、文字を打つ速さも違う。


<今日どこへ行くの?オンペ方面?>

<ううん、セビレだけど>

<そこもオンペ方面よ。セビレから先には絶対に行かないで>

<うん、分かったけどどうしたの?>

<月震の予報が来たの。電車止まるかもしれない。デート楽しんでね>


今日のデートに影響しなければ大丈夫だろう。それより用事の内容がデートであるのがカタリナにばれていたことが、たまらなく恥ずかしく、罪悪感を感じさせるものだった。

‥‥あれ、どうして私、罪悪感を感じているんだろう。

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