第9話 ハンナに告白された

女子トイレの内観は地球とほとんど変わらないのだが、月の水は何かと飛び散りやすいので、用を足した後は便座の蓋を閉めてから水を流す。私は注意深くそれをやった後、個室を出た。ハンナの個室のドアが閉まっているので、ハンナはまだ終わってないのだろう。私はハンカチを口にくわえて、ゆっくりと手を洗う。

それにしても、私が月に来て2日目だが、いろいろなことがあった。特にカタリナから告白されたことは、私にとって最も衝撃的だった。女の子同士で付き合うとはどういうことなのか、私はこれから勉強しなければいけない。

恋人はキスしたり裸同士で付き合ったりするものだと言われたことがあったが、私はいずれカタリナとキスすることになるのだろうか。カタリナのきれいな唇と私の唇を重ね合わせる。女の子同士のキスは、何とも形容しがたい、想像しづらいものであった。


「あっ」


キスのことを考えて、私は思わず口を開いてしまった。ハンカチが下に落ちてしまったので、私は慌てて濡れた手でそれを拾い上げて、手を拭いだ。私はまだキスしたいわけでも、カタリナに恋心を抱いているわけですらないのだが、キスのことを考えると自然と指の先を唇にくっつけてしまうものだ。私の唇は柔らかくぷにぷに、もちもちしていた。カタリナの唇も同じようなものだろうか。それを重ね合わせる。鏡にうつる自分から思わず顔を背けてしまった。


「ユマさま」


トイレを流し終わったようで、個室から出たハンナが私に呼びかけてきた。


「ああ、ハンナ、終わったんだね。じゃあ戻ろう」

「ユマさま」


ハンナは立ち止まった。足をぴくとも動かさす、そしてうつむいて顔を隠していた。微かに肩が震えているように見える。白い髪をわすかに揺らしながら、ハンナは私に質問した。


「‥‥ユマさまに告白してきたのって、カタリナ生徒会長ですよね」

「あ‥‥うん、やっぱりハンナにはかなわないな」


誰から告白されたかは伏せていたが、私の交友関係をよく知るハンナに隠し事はできないようだ。

私は空気の変化を感じていたので、それをごまかすように笑ってみせた。しかしハンナはなおもこの空気のまま話をしたいようで、一歩私の方へ踏み込んできた。


「もしもの話でございますが‥ユマさまはカタリナ生徒会長の百合のお気持ちを理解した時、そのまま交際を始められるのでしょうか‥?」

「それは‥そうかもしれないね。今はまだ想像できないけど、可能性としてはあると思う。今はもうお試しとして付き合い始めてるけどね」

「‥‥なら、チャンスは今しかありませんね」

「えっ、チャンスって?」


ハンナはもう一歩、私の方へ踏み込んできた。そして初めて、顔を上げた。涙を少し流していながらも真剣に、私を見つめていた。

その必死な表情は、これから言う言葉が冗談でないことを主張するには十分だった。


「わたくしは、ユマさまのことが恋愛の意味で好きです。ずっとずっと、お付き合いしたいと思っておりました」


華奢な体の底から出る力強い声は、私たち以外誰もいないトイレの中に響いた。

その表情は必死で、どこか悟りきっていて、ぎゅっと唇を噛んで、緑色の美しい目で私を睨むようにじっと見つめていた。


「‥‥えっ?」

「あの時‥親身になってわたくしに一生懸命勉強を教えて下さいましたよね。それで、4年前学園に入学した頃から持っていた心のもやもやが、確信に変わりました。わたくしはユマさまに恋をしています。わたくしはカタリナ生徒会長ほど起用ではありませんが、ユマさまに教えてもらった分、努力してユマさまに百合を教えてみせます。ですから‥‥カタリナ生徒会長ではなく、このわたくしを選んで下さい!」


そう言って、深く頭を下げた。体が直角に曲がるくらい深かった。

背中に乗った白い髪が、トイレの照明を反射して美しいオレンジ色に輝いた。

私はしばらくの間硬直してしまった。

カタリナ生徒会長は私にとってかけかえのない姉だった。だから、告白にOKしてしまった。

ハンナの場合は、私のかけかえのない友達だ。落ちこぼれなど関係ない、これもまた私にとって大切な人だ。そのハンナが、必死になって私にお願いしている。

私はすでにカタリナとお試しとはいえ付き合い始めている。百合と友情の違いはまだわからないのだが、恋人と同じということであれば、カタリナとハンナのどちらか片方を選ばなければいけない。そんなことは私でも分かる。私がハンナを選べばカタリナが悲しむだろうし、カタリナを選べばハンナが悲しむ。それは明らかだ。

となると、百合を勉強する間、どちらを選べばいいのかという話になってしまう。


「‥‥ごめん、私はお試しとはいえ、もうカタリナ生徒会長と付き合ってしまったから‥‥これから百合を勉強するといっても、相手は1人だけのほうがいいよね?カタリナ生徒会長とハンナは比べづらいけど、今は先に決まったほうを優先したい。だからごめんね」

「ユマさま、カタリナ生徒会長の連絡先を教えて下さい」


その時のハンナはいつになく積極的だった。いつもは気弱で寡黙で私のそばにいることが多いハンナがこれだけ積極的になっているのだから私は嬉しいけど、でも事態はよくない方向へ転がり始めている気がした。


「私とカタリナ生徒会長が比べられない、百合をこれから勉強なさるということでしたら‥‥せめて、せめて、カタリナ生徒会長とわたくしの2人と同時にお付き合いいただきたいです。カタリナ生徒会長には、わたくしのほうから話をつけます」

「ハンナ、落ち着いて」


ハンナにしては非常に珍しく、はぁ、はぁと息を切らしながら、私をにらみつけるように見上げていた。


「これまで多くの小説を読んできましたが、百合を知らない女の子は、百合を教えてくれた相手と付き合うことが多いんです」

「まあ、そ、それはそうだけど‥」

「なら、わたくしがユマさまと付き合うチャンスはそこしかありません。ユマさまがカタリナ生徒会長に恋をしたわけではないのですから、倫理的に何ら問題はないはずです。むしろ今動かないと、不公平な戦いを強いられます」


語気を荒けて、ハンナは私に迫ってきた。私は少し困って首を傾げた。


「2人とも、どうしたの?」


そう言って、アユミがトイレに入ってきた。


「もう、2人とも戻るの遅いから心配しちゃったよ。はい、これ」


アユミが、袋を私に差し出す。袋から透けて「おんなのこのきもち」という赤い文字が浮かんで読み取れた。


「あ、ありがとうございます、ああっ、お金‥」

「お金はいいわよ。月、初めてなんでしょ。進級祝いだと思って」

「ありがとうございます」


私は頭を下げて、その袋を受け取った。それから、ちらりとハンナのほうを見た。


「‥‥ハンナ。返事はもうちょっと待っていいかな」

「‥‥はい」


ハンナは力なくうつむいた。


「2人の間で何かあったのかな?喧嘩?」


何も知らないアユミが何気ない顔で尋ねてくるが、私は「‥‥違います」としか答えられなかった。ハンナは、さっきの熱意はどこへやら、顔を真っ赤にして気まずそうに私から顔を背けていた。


「とにかく喧嘩はよくないよ、こっち来て、帰る?」


心配そうに尋ねてくれたので、私もハンナも「‥‥はい」とうなずいた。

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