第7話 月の風呂に入った

この世界は、魔法と科学が融合して高等に発達している。

今から約2000年前は、まだ魔法が主流で、科学はほとんど発展していなかった。そんな時、伝説の聖女が現れた。彼女は多くの貧民を救っただけでなく、科学に関する多くの予言をした。

いわく、すべての物質は原子や分子で構成されている。

いわく、地球は球体で太陽の周りを回っている。

いわく、地底深くに原油という物質があり燃料にもプラスチックなどの材料にもなる。

いわく、コンピューターというものを魔法を使わずに作ることが可能である。

多くの研究者がこれに関心を持ち、次々と研究しだした。かくして、科学が急速に発展した。伝説の聖女が登場して約500年後には、町並みは大きく変わり、コンクリートやアスファルト、自動車、電車などの交通機関が発達した。もちろん科学だけでは不可能なこともあったので、そこは魔法で補完した。魔力を貯める技術が誕生し、魔力のこもった機械が次々と生産されるようになった。


伝説の聖女がこの世界にもたらした功績があまりに大きすぎるため、伝説の聖女が生まれた年の翌年を元年とする新たな紀年法が誕生し、あっという間に普及した。これを俊暦(しゅんれき)という。伝説の聖女の名前をとってアリサ暦ということもある。俊暦575年、人類は月への着陸に成功し、それをきっかけに本格的な宇宙開発が始まった。俊暦800年になるころには月に大気が生まれ人が住める環境となり、人類は次々と月へ移住するようになった。俊暦1000年には月以外にも様々な惑星に大気を作り、移住し、宇宙のあちこちの星を次々と植民化するようになった。その1000年後、俊暦2012年が今年である。


魔法で古い学生証を燃やした私は、魔法で離れた位置にあるタンスを開けて、そこから浮遊の魔法で次々と下着を取り出した。私は魔法の中でも浮遊の魔法が得意で、ものを操ることにかけては自信がある。下着とタオルをまとめて、そして机の上にあったペンライトのようなものを掴んで向ける。あっという間にそれは小さく縮んで、手のひらに乗るサイズのボールになった。これも魔法と科学の融合である。私はこのボールを持って、部屋を出ていった。


◆ ◆ ◆


繰り返すが、月の重力は地球の6分の1である。水や湯も当然軽くなるのに対し、人間の出せる力は変わらないので、お風呂で不用意に湯遊びしてはいけない。誰かに湯をかけようとすると、湯が天井まで届いてお風呂全体にふわふわと降りかかって粒の大きい霧のようなものを作ってしまう。それをしている人がいた。


「マーガレット、おとなしくしてなさい!」


レイナが、はしゃいでいるマーガレットを止めにかかった。


「月のお風呂は面白いのだ!湯が軽いのだ!」


浮力は重力によって変わるので(浮力の公式に重力加速度が含まれます)浮力が強すぎで湯船の底に足をつけられないということはない。体重こそ違うものの、基本的には地球と同じ感覚だ。これも地球キャンパスで習った通りだ。私はマーガレットのせいで濃霧のようになった浴室で体を洗い終えて、湯船に入る。水の落下速度が地球と違うから、シャワーを使って体を洗うときの勝手も変わってしまうものだ。

そして湯船に入ってマーガレットとレイナのところへ行くと、マーガレットが先輩たちに囲まれていた。


「次やったら懲罰だよ?」

「月のお風呂で遊んだら危険ってわかった?」


先輩たちの隙間から見えるマーガレットは、しぼんだ風船のようにしょぼんと落ち込んでいた。あんなマーガレットを見るのは珍しい。でも確かに浴室は霧がすごくて前があまり見えなかった。今年4月あたりに月キャンパスの下見に来ていなければ、確実に浴室の間取りが分からず混乱していただろう。これくらいは妥当なところだ。

と、その先輩たちにまぎれてレイナもマーガレットを叱っているのに気づいた。レイナらしいな、と私はつい笑ってしまった。

湯船の端まで来て座ると、隣にハンナがいた。霧の中で白い髪だったから気づかなかった。


「ハンナ、ここにいたんだね」

「はい」


ハンナもマーガレットを眺めていた。霧であまりよく見えないものの、姿形は認められた。やっと先輩たちのお叱りが終わったようで、マーガレットを囲む集まりは少しずつ散っていく。誰かが乾燥ボタンを押したようで、霧が少しずつ晴れていく。乾燥ボタンも月ならではのボタンだ。ハンナの顔もよく見えるようになった。


「‥ユマさま、元気がなさそうですね」


霧が晴れた時にハンナは最初にこう言った。


「ハンナには隠せないなあ」


私はそうやって、わざとらしく笑ってみせた。


「何かつらいことでもおありだったでしょうか?」

「うん、ここじゃ言えないけど、2人きりの時にまた相談したいなって」

「分かりました」


ハンナは、私の役に立てるのが嬉しいと言わんばかりに、笑顔とともにガッツポーズをしてみせてきた。私はそれを笑って受け取ると、湯船の壁にもたれて、天井を仰いで「はぁ」と一息ついた。


「今日は地球から月へ来て、部屋の片付けもあったからね、疲れちゃったよ」

「そうですね、わたくしも疲れました」

「明日はどうする?部屋の片付けがてら、ちょっとお出かけでもする?」


私が提案すると、ハンナは慌てたように頬に手を当てて、頬を赤らめる。湯気だけではないようだ。


「わたくしがユマさまと‥いえ、何でも‥ありがとうございます」

「お礼言わなくていいよ」

「‥はい」


◆ ◆ ◆


翌日午後は、昼食で出会ったアユミ、ノイカも誘って、ハンナと4人で寮を出た。

太陽は昨日よりは西へ傾いている。特殊なガラスを使っているから建物の中にいるとあまり気にはならないが、やはり一日中太陽がこの位置にあると思うとちょっと気が狂いそうになる。

地球では年に4回衣替えがあるが、月では毎月4回だ。あまりにも頻繁すぎるので、タンスの中には一度に全季節分の服が並べられている。今日はまるで夏のように暑いのだが、これは今日が8月だからではない。月の中旬だからだ。月にいる間、四季のような気温の変化を1ヶ月で経験することになる。


「体調を崩す人も多いから、本来なら初めての人はあまり建物から出ないほうがいいんだけど‥‥いいの?」


半袖のきれいな服を着て帽子をかぶったアユミが心配そうに尋ねるが、私は「いえ、明日の下見もしておきたいですし」と断った。


「明日?明日、何かあるの?」

「はい、生徒会長と2人でお出かけです」

「お姉さんと、だね。それはいっぱい下見しないとね」


アユミは笑って私を気遣ってくれた。


アユミは、学園のすぐ外にある商業施設まで私たちを案内してくれた。多くの小売店がまとめて入っているデパートだ。1階や2階は女性向けの服や化粧品の店が多い。どの店も、地球から輸入された商品が多いものの、地球にはないような商品も多くて興味をひかれる。


「この口紅は密度の高い物質を使ってるから地球だと重くて違和感あるけど、月ではそうでなないんだよ」


アユミがその都度わかりやすく説明してくれた。月は重力が地球の6分の1なので、このような商品も売れてしまうわけだ。それにしてもきれいな輝きを放っている。

さらにこのデパート、廊下部分は吹き抜けになっているのだが、階段やエスカレーターを使わずにジャンプして1階から2階へ飛び上がる人がいるのだ。もちろん危険行為としてあちこちに貼られているチラシで禁止はされているのだが、これも月だからこその光景といえよう。

そのほかにも、細かいところで地球のデパートとは異なっていた。地球では考えられないくらい大きな荷物を背負った女の人もいた。重力が違うと、これだけ文化も変わってくるということだ。初めて見るその光景に私は何度もうなずいてしまった。

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