三章 あなたのためにうたう歌 1

 金曜日の朝方に自宅に戻ると、リビングには朝食が用意してあった。

 私が帰宅する時間を見越して、母が用意しているものだ。

 テーブルには『春歌へ』と書かれた付箋が貼ってある。

 朝は食べる派なので『ありがとう』と付箋に書き添え、お盆を持ち自室へと引っ込んだ。

「とりあえず、すべきことをするか」

 姉の部屋は今も手つかずのままで、母が定期的に掃除している。

 きっと娘を失った悲しみが癒えた頃、整理して娘の部屋という役割を終えるのだろう。

 大学を卒業し地元企業に就職した姉が、およそ一年間を過ごしていた部屋。

 本棚にあるNGO活動や社会福祉関係の書籍が、姉が夢を諦めきれなかったことを示している。

 今すべきことは郷愁ではなく、机上の姉のスマートフォンを入手する。

 充電はとうに切れており、自室の充電器で充電をする。

 死者への冒涜か、冷血動物とでも罵られるだろうか。

 姉を亡くした直後の配信活動でそんな風に叩かれたが、そんなつもりは僅かにもなかった。

 利己的な目的意識でこうしている今こそが、正真正銘の死者への冒涜だ。

 母の用意した朝食を食べ終え、そんなことを考える。

 むしろあの時、私は姉さんを──。

 ゴンゴン

 その時部屋のドアを叩く無骨な音が響き、ベッドに仰向けに寝ていた私は飛び上がった。

「春歌、父さんだ。午前中は有給を取ったから、少し話せないか」

 扉の向こうのノックの主は父だった。

 すでに有給取得したなら、無碍に断るのも憚られる。

 どうせ姉のスマホが充電されるまで足止めだし、父との対話に応じることにした。

「どうぞ」

 と答えると、スラックスにワイシャツ姿の父が入室をする。

「元気そうで何よりだ。たまにはゆっくりしていけ。金はまだあるのか」

「夕方にはネカフェに戻るけどね。でないと個室が埋まる。お金はまだあるから大丈夫」

「そうか。しかしそんなに繁盛してるのか、ネットカフェという場所は」

「うん。私みたいなの今は多いから。それに私みたいな若輩ばかりじゃなくて、お父さんくらいの人や、お年寄りもいる」

「どうしてだ。家庭や家族があるんじゃないのか」

「事情があって家族といられなかったり、追い出されたり、体を壊して仕事できなくなって、家賃が払えなくて住む場所を失ったりした人たちもいる」

 SNSは似た気質の人たちが自然と集ってくる場所なので、私のアカウントと関わりある人々もそういう境遇の人が多かった。

 ブラック企業で病気になるまで働かされて、セカンドキャリアとして配信活動を始めた若い女性。

 家庭の不和で奥さんと子供に逃げられて、配信者の応援を生きがいにする年配の男性。

 不登校の小学生が、配信を見て応援してくれることもある。

「不勉強だったな。父さんはそういう境遇の人々のことを何も知らない。母さんと深雪がよく話していたが」

「そんなもんだよ。むしろ母さんと姉さん、偽善っぽくて私はあんまり好きじゃなかった」

 床にあぐらをかく父にクッションを勧め、私はベッドに座り話している。

「姉さんはもっと遠い場所を見てた。外国で紛争に巻き込まれて、難民となった人々を支援したいって言ってた」

「そのための大学を専攻したんだったな」

 姉は遠くばかりを見ていた。

 私はきっと姉に見て欲しかった。

 あなたが救うべき対象者は、身内にもいるんだよと。

 しばし話題を選ぶように黙った父は、やがてこう続けた。

「配信というのは、つまり音楽が主体なのか」

「それだけじゃないけど、それが主流だね。私もそうだし、音楽聴く人はとても多い」

「このことを今日は伝えたかったのだが、父さんもお前の歌を聴いたぞ」

「本当?」

 ああ、と父は頷いて続けた。

「職場の人からの情報だ。お前がショッピングモールの発表会で歌っているのを見たとな。どうして言わないんだ。生で聴きたかったな」

「まあ、色々とバタバタしててね」

 そうとしか言い表せないが、父は気にせず続けた。

「春歌の音楽はとても良かった。父さんも昔は音楽に夢中になっててな。父さんの頃は、猫も杓子もバンドブームだったが、あの頃の音楽のエッセンスも感じた」

「そんな風に言われること多いね。父さんの頃のバンドって何だろう。ヴィジュアル系?」

「その通りだ」

 と父は身を乗り出して語り出した。

「存在感とクールさで華やかな音を奏でるギターに、俺は俺の仕事をやるという力強いベース。激しくも明るいドラムのバンドサウンドをバックに、唯一無二のボーカルが、歌謡曲ベースのキャッチーな曲調で、深く退廃的な世界観を歌う音楽が、日本中を席巻していた。総じて端正なルックスで、女性ファンが多かったが、音楽をやる男性ファンの支持層も厚かった。かくいう父さんも、そうしたバンドに憧れてギターをやっていたくらいだ」

「へえ。それは意外。そんな頃があったんだね。あ、女の子にモテたいからだ!」

「否定はしない」

 憮然として答える父が可笑しかったが、構わず父は続けた。

「昔から『音楽に救われた』という人々は多い。父さんが好きだったバンド達も、社会からはみ出し、既存の音楽の枠組みからもはみ出した人々が集まったチームが多かった。CDが何百万枚も売れる時代はとうに終わったが、今は逆に、音楽の重要性は増しているのかも知れないな」

「そうなのかも。姉さんみたいに題目を先行はさせたくないけど」

 ひとしきり現代的な音楽論を語り尽くしたところで、父は腰を上げた。

「春歌が何をしているのか知りたかった。そのために話したかったが、知ることが出来た」

「私は音楽をやってるだけだよ。姉さんとは違う」

 父は娘である片瀬深雪が何をしたかったか、きっと理解出来なかった。

 或いは理解する前に、娘に先立たれてしまった。

 同じ事を繰り返さないために設けた時間には、貴重な有給休暇を消化するだけの意味があったことを伝えておきたかった。

「私は音楽を続けるし、今の高校はたぶん辞めると思う。でも命は大事にする。自分の命を軽んじない。そういうことも、歌っていく」

「生命賛歌か。それでこそ音楽だ」

 肯定の意で私が頷くと、父も返すように頷き部屋を出て行こうとする。

 そんな父は去り際に、こんなことを言い出した。

「時間を取らせた。父さんもそろそろ仕事に行かねばならん」

「仕事がんばって」

「春歌も活動がんばれ」

「うん」

「そういえばお前のチームの公式アカウントをフォローしてる【片瀬春歌の歌を聴く者】というのは父さんだ」

「はあ? 何やってんの?」

「名前の通りだ。父とか娘とか、そういうのはいい。同じ屋根の下にいなくとも、お前の歌は聴く。そういうことだ」

 そんなことを言い残すと、父は軽く手を振り部屋を出て行った。

 ワイシャツ姿の父の背を、私はぼんやりと見送った。

 ちょうど姉のスマートフォンは、電源が入るくらいに充電が溜まっていた。



 夕方くらいに実家を出ると、既に暗い街を街灯が照らしていた。

 本格的に冬が近づきつつある中、駅前のネットカフェを目指して歩く。

 電話で話した姉の彼氏の件もさることながら、無性に柊ユキと話したくなった。

 今日は金曜日で、明日も活動で顔を合わすが構うことはなかった。

 既に自室のようなネットカフェの個室で、柊木ユキを通話に誘った。

 午前中の父とのやり取りを伝えると、

『へえ。それって完全にファザコンじゃん』

「そうなのかな。自覚ないけど」

 いつもの調子の柊木ユキが、断定的にそう言った。

『自覚がないところ本物だね。でも悪いことじゃないよ』

 娘って生き物はだいたファザコンらしいしと、それらしい親子論を持ち出してくる。

 私はどちらでもないけどと、ケロリと笑う柊木ユキの真意は読めない。

 柊木ユキの口から家族の話はこれまで聞いたことはないし、私も聞いたことがない。

『そういえば明日やる曲は決まった?』

「まだ。それについても相談したかった」

 話題は転換し音楽について話すが、きっと柊木ユキが家族のことを話して聞かせるのは私ではない。

 そんな気がしてならなかった。

 それからも私たち【地域社会貢献同好会 春の雪】は、様々な施設で活動を進めていった。

 老若男女集まるスパ施設や、学校の音楽系部活動が主催する音楽イベントにも参加した。

 反応は様々であり、デイサービス施設のように万々歳とはならない結果もあった。

「是非また来て欲しい」という人や「今回だけでいいかな」と匂わせる人など様々だった。

 それもまた活動であるし、何より私たちに与えられた時間は限られている。

 私が柊木ユキを信頼するまでの時間が、同時に私たちの活動が幕引きを迎えるまでの時間。

 いつどこでどんな活動をもって幕を引くのか、すべて私たちの手に委ねられている。

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