3−3
「知ってる?」帰りがけ、星の瞬き始めた空を見ながらイヌイさんが言った。「今日、流星群が見えるんだよ」
そんなことを朝のニュースで聞いた気がするけど、詳しくは覚えていなかった。ごく短いものだったし、普段は星なんて見ないから意識に引っ掛からなかったのかもしれない。正直にそう伝えると、イヌイさんは信じられないと首を振った。
「十三年に一度だよ? 次に見られるのは十三年後だよ?」
「ごめん」僕はなんだか謝ってしまった。「イヌイさんは見るの?」
「もちろん。嵐が来ようが、槍が降ろうが見るつもり」
「晴れてないと無理だと思うけど」
言いながら、僕の中にはある考えが萌していた。その有効性を検討するより先に、僕の口は言葉を発した。
「じゃあ、一緒に見ない?」
わずかにだけど、イヌイさんが目を見開いたのを僕は見逃さなかった。
「いいけど、塾があるんじゃないの?」彼女はいつもの顔に戻って言った。
「大丈夫。どうにか調整するよ」僕は嘘をついた。嘘は何よりいけないことだと思っていたけど、この時だけはついていい気がした。
家に帰ってランドセルを置き、軽く食事をして塾用の鞄に持ち替え家を出る。
「行ってらっしゃい」と見送りに出てきたお母さんは、僕が塾へ行くものだと信じていたに違いない。それぐらい、普段通りの行動だったはずだ。
心の痛みを抱えながら、イヌイさんと約束した土手へ向かった。仕事帰りと思しき大勢の大人とすれ違ったけれど、誰も空を見上げたりはしていなかった。それは土手に着いてからも同じで、僕とイヌイさんの他には人の姿はなかった。みんな流星群などに興味がないか、そもそも接近していることすら知らなかったのかもしれない。
イヌイさんは一人、暗い土手で膝を抱えて座っていた。傍らにはリュックが置いてあった。夕方に別れたまま、ずっとそこにいたと言われても不思議ではない格好だった。
僕たちは二言三言あいさつを交わし、隣り合って座った。イヌイさんは携帯端末を取り出して時間を確かめた。彼女が「もうすぐ始まるはず」と言ってから一分もしないうちに、夜空に引っ掻いたような筋が走った。
そこから、降り出した雨が徐々に強まっていくように、流星が見え始めた。
長短様々な線が、濃紺の空に現れては消えた。夜空がこれだけ動いているのを、僕は生まれて初めて見た。一切の音がしないのに、空というスクリーンをいっぱいに使った〈ショー〉は迫力満点だった。僕たちは小さく、目の前で繰り広げられているものはあまりに巨大だった。
「すごい」僕より先に、イヌイさんが声を漏らした。
「うん、すごい」僕も言った。
川向こうに広がる街の灯の中では、一体どれだけの人が僕たちと同じように空を見ているだろうかと考える。誰も、自分たちの頭上に星が降り注いでいることに気づいていないのではないかと思う。
僕だって同じだった。イヌイさんに言われなければ、この光景を見ることはなかったはずだ。この、無音で繰り広げられる大変な光景に全く気づかずに、塾で勉強をして帰って寝ていたはずだ。
今までも、多くのものを見過ごしてきたに違いない。今さら後悔しても遅いから、せめてこれからは、できるだけ多くのものを見逃さずにいたいと思った。
不思議だ。
自分から何かしたいと思ったことなんて、これまでなかった気がする。けれど、僕は心の底から願っていた。もう何も見逃したくない。
そして、この気持ちをずっと忘れずにいたい。
「イヌイさん」僕は空を見たまま言った。
「うん?」彼女も空を見たまま言った。
「ありがとう」
「何が?」
「その、色々と」
「何だそれ」彼女は笑う。「まあ、どういたしまして」
無音で降り続ける流星群には、止む気配がない。ずっと続けばいいと僕は思った。イヌイさんも同じことを思っている気がした。
彼女はポツリと僕の名を呼んだ。それから、
「ありがとう」
「うん」とだけ答えて、僕は夜空を見続けた。
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