3−2

 通りに面した大きなガラスは曇っていて、ぼんやりとしか中が見えなかった。それでも、橙色と白い照明に照らされた中で青いプールを行き交う泳ぎ手の姿は確認できた。

「どう?」隣で中を覘くイヌイさんが言った。

「どうって?」

「君にはこれが、人間のすることに見える?」

 断続的で規則的。なにか、そういう装置の駆動を眺めている気分になってくる。ある種の心地よさを感じてしまうのは、プラグインの影響かもしれない。

「イヌイさんには向いてないかも」

 僕たちはスイミングスクールを離れ、河川敷へ向かった。どちらが言い出したわけでもなかったけれど、自然とそういう流れになった。たぶん、彼女はあの夕日を見たかったのだろう。僕も見たかった。土手の上から見る夕暮れの街の風景は、僕ら二人のお気に入りになっていた。

 土手を上がると果たして、期待通りの景色が広がっていた。僕たちは芝生の斜面に座って、橙色の風景を眺める。

 下りの電車が、川向こうから鉄橋を渡ってきた。遠くで轟々と響く音を聞いていると、隣で不意に「気に入らない」と声がした。

「まったく、気に入らない」イヌイさんは三角座りの姿勢のまま、前を睨んでいた。

「何が?」僕は丸まったハリネズミを突くような気持ちで訊ねた。

「君が」

「僕?」

「君、楽しんでるでしょ」尖った眼差しがこちらを向いた。

「そんな」僕は心臓を突かれた思いで両手を泳がせた。「誤解だよ。たしかに、イヌイさんとこうしているのは楽しいけれど」

「誤魔化してもダメだよ。君はわたしを見て楽しんでる」

 勘が鋭いのか観察眼が豊かなのか、それとも僕が迂闊なだけなのか、イヌイさんは僕の思っていることを時々ズバリと言い当てる。その追求からはとても逃れられないので、僕はすぐ観念するようになっていた。

「ごめん。でも、イヌイさんの意外な一面が見られて嬉しかったんだ」これは本当だ。

「わたしは見られて嬉しい一面じゃないんだけど」彼女は再び前を向いた。

「なんて言うか、イヌイさんは悩んだりとかしない人だと思ってた」

「——わたしだって人間だよ」

 僕は笑った。

「前にもこういうやり取りしたよね?」

「ばっちり踏まえた上で言ったくせに」イヌイさんはさらにむくれた。

 こう言うと怒られるかもしれないけど、彼女の〈素〉のようなものを見られたことはやはり嬉しかった。それは優位に立つとか弱みを握るとかいうことではなく、対等な、本当の意味での友達になれた気がしたからだ。少なくとも、イヌイさんが今まで開けていなかった扉を僕のために開いてくれたように思えた。

「ずっと訊きたかったんだけど」状況が、僕の気を大きくしていた。「イヌイさんはプラグインを入れていないの?」

 プラグインの有無は、外見上は全くわからない。出生記録には記載があるようだけど、それを見る他には自己申告を信じるか、その人の日々の振る舞いから判断するしかない。

 また、誰かに言われたわけではないものの、言葉にして訊くのはよくないという不文律が、プラグインを生まれた時から入れている世代である僕たち子供の間にはあった。プラグイン施術は家庭環境や個人の体質によって大きく左右されるからだと思うけど、明確な理由までは考えたことがなかった。

「入れてるよ」イヌイさんは何でもないように答えた。「わたしだって人間だもの」

「意外」僕は思ったままを口にした。「とてもそんな風には見えない」

「君たちのとは違うから。それに、一つしか入れてないし」

「何を入れてるの?」

「〈多様性〉」

 初めて聞く名前のプラグインだった。たぶん、クラスの誰も持っていないものだ。

「色々な価値観を認めることを良しとする考え方」

「いいプラグインだね」

「そう? わたしは好きじゃないけど」

「どうして?」

「そういうのって、誰かに押しつけられるものじゃないでしょ」

「そう——なのかな」

「わたしは、何が良いと思うかなんてことは自分で決めたい。借り物の価値観じゃなく、自分の価値観で」それから彼女はため息をつき、「こんな風に思うのも、頭の中のプラグインのせいかもしれないけど。ねえ——」

 僕は名前を呼ばれた。初めて彼女に呼ばれた気がした。

「本当のわたしたちって、どこにいるのかな」それは問いではなかった。彼女は寂しそうな声で呟くように言う。「そもそもそんなものは存在するのかな」

 彼女が言わんとしていることが、ようやくわかった。

 彼女が一人で戦っていたことも。

 誰の理解も得られず、孤独な戦いを強いられていたことも。

 

 僕は気づいてしまった事実の大きさに、やはり言葉を失った。僕はいつだって自分の言葉を持っていない。こんな時、プラグインは何の役にも立たない。不安そうにしている友達一人、勇気づけることさえできない。

 役立たず。

 僕には、鉄橋を渡っていく電車を見つめることしかできなかった。

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