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その日をきっかけにして、僕たちは帰り道を共にするようになった。正確には、寄り道をするようになった。
初めは僕の家とは逆側、つまりイヌイさんの住む地区に僕が行く形だった。それを繰り返すうちに気が大きくなったのか、感覚が麻痺してきたのか、次第に僕の家の方へイヌイさんが来るようにもなった。一度目の時は確かに緊張したけれど、知り合いに出くわすことはなく、また、僕たちも人が多くいるような場所は避けていたので、誰かに見られるという事態は起こらなかった。
イヌイさんとは、毎日校門の外で待ち合わせた。昇降口では、クラスの誰かに見咎められる恐れがあったからだ。
大抵の場合はイヌイさんが先に待っていた。彼女は帰りの会が終わると、誰かと雑談をすることもなくさっさとリュックを背負って教室を出て行った。僕はといえば、班のみんなにあれやこれやと一緒に下校できない理由を説明するのに時間が掛かり、彼女を待たせてしまうことが常だった。
「遅れてごめん」
僕が息を切らしながら近づいていくと、イヌイさんは寄り掛かっていた門柱から体を離した。
「いつも大変だね」彼女は呆れたように笑って肩を竦めた。
プラグインに由来する罪悪感はなかなか消えなかった。けれど、それを理由にイヌイさんとの関わりを絶ちたいと思うまでには至らなかった。〈いけないこと〉をしている自覚は確かにあったものの、その存在感は徐々に薄れていき、〈今日は少し蒸し暑いな〉と思うぐらいの不快さにまで後退していた。
世界が広がっていく快感の方が遙かに勝っていた。それから、イヌイさんの後を追っている時に抱く感情の温かさも。僕はいつしか、イヌイさんと歩く放課後を楽しみに、毎日を過ごすようになっていた。
寄り道はほぼ毎日行われたけれど、水曜日だけは例外だった。この日だけは、イヌイさんは僕を待たずに一人で帰って行った。
聞けば、スイミングスクールがあるとのことだった。たしかに、最初の時に小さい頃から水泳を習っていると聞いていた。水泳は得意だし、泳ぐことも嫌いじゃないと彼女は言ったものの、その眉間には皺が寄っていた。
「スイミングは好きだけど、あのスイミングスクールは好きじゃない」
「嫌なコーチがいるとか?」
「誰か、じゃなくてあの場所が。施設そのものが。順番待ちをして、仕切られたコースに沿って泳がなきゃならないなんて最悪」
「水泳ってそういうものじゃないの?」
「わたしはわたしのタイミングで自由に泳ぎたい。好きな泳ぎ方で、好きなだけ泳ぐ。疲れたらやめる。そういう水泳がしたいの。だからあのスイミングスクールには行く意味がない」
同じことを母親にも言ったけど、聞き入れられなかったそうだ。
その後もイヌイさんは我慢をしながら何度か通っていたけど、ついに限界が来たらしい。ある週の水曜日、彼女は先に帰らず、校門の外で僕を待っていた。
「スイミングはもうやめた」
「お母さん、許してくれたの?」
僕の質問には答えず、彼女はずんずん歩いて行った。
大通りの交差点で信号待ちをしていた時、不意にイヌイさんが身を寄せてきた。ギョッとする僕をよそに、彼女は僕の後ろにくっついた。僕の陰に隠れでもするような格好だった。
どうしたの、と訊こうとしたところで、交差点を一台のマイクロバスが左折してきた。白塗りの車体に、青いイルカの絵。イルカの横には、スイミングスクールのロゴがあった。
マイクロバスは、もちろん僕らの前で停まることなく走って行った。その影がすっかり見えなくなったことを確かめてから、僕はイヌイさんに「もう行ったよ」と教えてあげた。
「お母さん、許してくれてないんだね」
僕から離れたイヌイさんは、ばつの悪そうな顔で頷いた。
「むしろ今朝、大げんかしたから帰りづらい」
僕はため息をついた。
「謝った方がいいよ」
「君は何も知らないからそういうことを言うんだよ」そう言って彼女は、最初の時と同じように僕の手首を掴んだ。「来て」
引っ張られる。心の準備ができていなかったのもあるけど、彼女の力は強かった。
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