2−3

 聞けばイヌイさんの家は僕の家とは全然違う地区にあり、校門を出た時点でいつもとは反対側に連れて行かれた。

 これは立派な〈寄り道〉だ。本来、するべきでないことであり、胸の奥底では漠然とした不快感がマグマのように滾っている。何かのプラグインの効果なのだろう。不快感はやがて罪悪感へと変わる。

 イヌイさんの手を振りほどいて帰ろうとは何度も思った。けれどそうしなかったのは、罪悪感よりも強い感情が胸の中にあったからだ。その感情が何なのかはわからない。

「離して」と、ようやく言えたのは、学校からだいぶ離れた公園に着いた時だった。休みの日に自転車で来たことしかないような場所で、ここから歩いて帰るのかと思うとにわかに気が遠くなった。

 僕の手首を掴んでいたイヌイさんの指が離れる。

「案内してよ。この街のこと、全然知らないから」彼女は言った。

「僕だって知らないよ。この辺はうちと反対方向だから」

「じゃあ、君の家の方へ行こう」

「寄り道はダメだよ」

「どうして?」

 イヌイさんが顔を寄せてくると、例の不思議な香りがした。

「寄り道をするのはわたしで、君じゃない。君は自分の家の方へ向かうだけ」

「屁理屈じゃないか」

「じゃあ、もっと立派な理屈をちょうだい」

 僕は黙った。〈立派な理屈〉が思い浮かばなかったこともある。けどそれ以上に、彼女の蒼い眼差しとぶつかったら何も言えなくなってしまったのだ。

 逃げる思いで視線を逸らす。その先に、同じ学校の児童と思しきランドセルの集団が歩いていた。彼らは面識のない児童だったけど、うちの周りには僕の知り合いが大勢いる。クラスメイトだけではなく、保護者を初めとした大人たちも。そういう人たちにイヌイさんといるのを見られるのは具合が悪い。その原因がイヌイさんといることが、なのか、彼女と二人でいることが、なのかはわからないけれど。

「塾があるから、そんなに遅くはなれないよ」僕は頭を掻きながら言った。

「いいよ。明日もあさってもあるから」

「え?」

 イヌイさんはさっさと歩き出していた。

 彼女が前で僕が追いかけるという構図は変わらなかった。これではどちらが案内しているのかわからないけど、イヌイさんは教室では見たことのない楽しそうな顔をしていた。

 知らない路地を曲がり、初めての公園を見つけ、馴染みのない商店街を抜けた。

 外国というか、別の世界を旅しているようだった。真っ白だった僕の地図に、情報が書き込まれていく。その感覚は新鮮で、端的に言って心地よかった。寄り道をしていることへの罪悪感は、もうすっかり薄れていた。

 歩きながら、イヌイさんは色々なことを話した。両親の仕事の都合で転校が多いこと。時には外国へ行くこともあること。英語が苦手なこと。小さい頃から習っているので水泳は得意なこと——。彼女は堰を切ったように喋り続けた。本当はおしゃべりが好きで、学校では我慢しているとでも言うようだった。

「で、君は?」

「僕?」ずっと相槌だけでよかったところに不意打ちを食らい、僕は戸惑った。「僕は大して話すようなことはないよ」

 イヌイさんの日常に比べれば、僕のそれなんて退屈以外の何でもない。わざわざ言葉を費やす方が恥ずかしいくらいだ。そういう旨を伝えたけど、彼女は執拗に僕の話を聞きたがった。それで僕は、渋々ながら自分の話をした。

「別に退屈ではないけど」話を聞き終え、イヌイさんが言った。

「そうかな。話してて悲しくなるぐらい平凡な人生だと思うよ」

「それは君が自分でそうしているだけじゃない?」

 イヌイさんは階段を上がっていく。僕たちは土手に行き着いていた。

「わたしにとっては、十分に興味深い人生だよ」

 むず痒さを覚えながら、僕も階段を上がる。

 上がりきったところで、目の前に光りが溢れた。思わず顔を背けてしまうほどの眩しさだった。

 波が引くように、眩んだ眼が落ち着いてくる。僕は再び瞼を上げ、前を向く。

 夕日があった。橙色の円が揺らめきながら、藍色がかった空や町並みを橙色に染めていた。影はその濃度を増している。手前を流れる川面には、真っ白な光の鱗ができている。藍と橙、黒と白で描かれた絵画のような光景だった。

 それは、これまで僕が見てきたどの風景にも似ていなかった。僕は動けず、何も言えなかった。

「〈平凡〉の近くにだって、こんなに素晴らしいものがある」隣でイヌイさんがぽつりと言った。「わたしはこういうものを見過ごしたくない」

 カラスが二羽、互いに鳴きながら横切っていった。

「君は?」

 喋ることができず、頷くのがやっとだった。

 僕は自分の鼓動を、すぐ耳元で聞いていた。

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