博士

「今度は助けたよ、博士」


飯毒の返事を聞いた白衣の青年は、2人の方へ振り返りながら満足そうに目をつぶって頷く。


「うん、それでこそだ。できるはずだと信じていたよ」


 部屋全体の照明が白く点き始める中、青年は培養槽を背に2人よりも数段高い床の上で、両手を白衣のポケットに入れたまま仁王立ちしている。自分がこの空間の主であると、主張する言葉も要らないという風に。


「おかえり、るい君。そしてようこそ、雨ヶ瀬 小夜君」


 無言でそちらへと歩みだそうとする飯毒を見て、雨ヶ瀬は反射的にその手を握った。

 不安そうな顔をした雨ヶ瀬を見た飯毒は足を止める。しかしその手を握り返しながら雨ヶ瀬を連れて再び歩き出した。


「ちょ、ちょっと」


 雨ヶ瀬は半ば引っ張られるかのように、飯毒と一緒に鏡面のように磨かれた床を突っ切っていく。青年はその2人を出迎えるかのように段を降り、面と向かい合った。


「会いたかったよ、小夜君。ボクは朧神おぼろみ 啓介けいすけ。この、地下研究所の主だ」


 朧神は握手を求めて雨ヶ瀬へ右手を差し出すが、雨ヶ瀬は既に握った飯毒の手を離さない。仰々しい設備、怪しい装置、白衣。どこかで読んだSF小説が、目の前で映像化されているような気分だった。そんな雨ヶ瀬を見て、朧神は笑う。


「ああ、怯えないでくれ。そんな目を向けられる事には全然慣れてるけど、キミに危害を加える気はない。……それにしても」


 朧神は、自らの顎に手を添えながら雨ヶ瀬の顔をおもむろに覗き込み始める。雨ヶ瀬は顔を強張らせて思わず仰け反ってしまうが、青年は気にする素振りも見せない。


「あの……」

「へえ。見た感じ、"普通の人間"だね? いや、本当にそうなんじゃないのか?」

「違うよ。私と一緒」


 密接な距離にまで近付かれた雨ヶ瀬が耐えかねる前に、飯毒が口を開いた。


「小夜の血、そういう味がした」


 朧神がちら、と目線を移した先で、飯毒は自らの口を指差している。


「……ふうん、そうか。るい君がそう味わったという事は、きっとそうなんだろう。というか、ボクも色々な情報網で小夜君を見つけたわけだしね。……でも」


 朧神は顔を引っ込めて俯きがちに自分の顎に手をやり、空いたもう片方の手で巻き毛を弄りながら今度は1人でぼそぼそと呟き始めた。


「――仮に、るい君と同じフェーズだとして、本当にそんな事はあり得るのか? どこにも兆候は出てないのか? 服の下か? それとも内臓器官にだけ影響が? 凄く気になるな……」


 独り言を漏らし、時には声もなく口を動かしながら考えに耽る青年の前でどうすればいいか分からず、雨ヶ瀬は助け舟を求めるかのように飯毒の方を向く。飯毒は雨ヶ瀬の困り果てた顔に思わず頬を緩ませながら、ひっそりと声を出す。


「博士、大体こんな調子だから」


 雨ヶ瀬も、それにつられて小声で訊く。


「ちょっと――変な人?」

「いや。超、変な人」

「……全部聞こえてるぞ? キミ達」


 青年は苦笑いを浮かべながら俯かせた顔を2人の方に向け直した。


「まあ、それくらいは言われ慣れてるし、気にしないけどね。……ほら、立ち話もなんだ、こちらに座ると良い」


 朧神は自分達の横にあるカフェテリアのような丸いテーブルと共に置かれた椅子を、客を案内する店員かのように引く。埃一つ乗っていない上質そうな椅子とテーブルを見た雨ヶ瀬は、自らの着ている血で汚れ穴が開いたポロシャツを見下ろす。


「ああ、多少の汚れなんて気にしないさ。汚れを気にして使われない道具ほど、無意味なものもないしね」


 口にする前に心を見透かされてるような回答をされた雨ヶ瀬は、ここに座る事を誘導されているような気がした。しかし拒否した所で何ができるわけでもなく、雨ヶ瀬はその椅子に腰かけるしかなかった。その座る様子を見た飯毒は、雨ヶ瀬から離れる。


「じゃあ、博士。私、シャワー浴びてくる」

「ん、分かった。お疲れ様。……ああ、被膜はちゃんとボックスに入れといてくれよ! この前みたいに床で溶けてたら面倒なんてもんじゃない!」

「分かってる」


 振り返りもせず朧神と会話を交わす飯毒は、ここに来た時とはまた違う扉に向かう。てっきり一緒にいてくれるものだと思っていた雨ヶ瀬は思わず立ち上がったが、飯毒は雨ヶ瀬の顔を一瞥しながら扉を開け、すぐに雨ヶ瀬の視界からいなくなった。


「い、飯毒さん……」



 地下にぽっかり開けた空間に、血に汚れた制服を着る少女と、得体の知れない白衣の青年が、1人ずつ。



「ほら、肩の力を抜いてくれ。キミが信用している、るい君が信用しているのがボクだ。だから、キミもボクを信用してほしい」


 朧神は機材の横に置かれた小型の冷蔵庫から混濁した淡黄色の液体が注がれたワイングラスを2つ取り出し、お互いの前に置きながら雨ヶ瀬と相対して座った。


「折角テーブルと椅子があるんだ。座るがいいさ。ここに来るまで慌ただしく、休む暇もなかっただろう?」


 もう一度座り、目の前に置かれたワイングラス。手に取らずとも、林檎の甘酸っぱい香りが嗅覚を刺激する。無意識にそのグラスへ手を伸ばしている自分に気付いた雨ヶ瀬は、自分が酷く喉を渇かせていた事を今更ながらに自覚した。

 

「さあ、乾杯」


 雨ヶ瀬が手に取ったグラスに、朧神は自らのグラスを合わせ、軽やかな音が鳴る。テーブルを挟んで向かい合う2人の横では、鈍く光る培養槽がまるでインテリアかのような顔で、絶えず泡を立ち上らせていた。

 アップルジュースを口に運んだ雨ヶ瀬は、まるで林檎そのものがそのまま液体になったかのような味に驚き、一口でグラスを口から離してしまった。口に残る後味も、完全に林檎を食べた後のそれだった。


「すごいだろう、これ。ボクは透き通ったアップルジュースより、こういう濁ったアップルジュースの方が好きでね」

 

 雨ヶ瀬の反応を見た朧神は満足げに言葉を重ねたかと思うと、くい、とグラスを傾けてアップルジュースを一息に、一滴残らず飲み干していく。


「ふう……いつ飲んでも、良いものだ。林檎の形はしてなくても、しっかり林檎だ。……しかし」


 空になったワイングラスを、朧神は、自分の顔の前に持っていく。グラスの中に、雨ヶ瀬の姿を収めるように。


「果たして……キミはどうかな? ヒトの形はしているが――」

 

 さっき目の前で覗き込まれた時と同じ目線が、ガラスを貫いてくる。好色な目でも蔑視する目でもない、純粋な好奇心の目。


「――キミは本当に、ヒトなんだろうか?」

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