商店街

 人通りもほとんどない、ところどころにヒビの入ったアスファルトの道。傘をさしていても、跳ねる雨粒が靴下を少しずつ濡らしていく。生ぬるい空気が徐々に涼しげに変わっていく中、1本の傘の下で雨ヶ瀬は黙って飯毒の横で歩いている。


「…………」


 2人の足音と傘の濡れる音だけになって、しばらく経っている。

 そこまで遠くまで歩いてはいないが、自宅とは逆方向の見知らぬ景色へと連れられていく雨ヶ瀬にとっては、随分遠い場所にやってきた気分だった。できて日の浅い住宅街や真新しいビルは段々と古びたものへと変わり、足元のアスファルトは気付けばあちらこちらにヒビが入っている。


「携帯、学校に忘れちゃった」

「戻っちゃ、駄目」

「…………」


 雨ヶ瀬は正直、一度家に帰りたい気持ちになっていたが、黙って歩き続ける飯毒の顔をちら、と見ては言い出せずに横を付いていく。


 雨はまだ止まない。雨ヶ瀬を雨から守ってくれるのは、飯毒の持つ傘だけだ。そんな中、わざわざ濡れてでも逃げようとは思えなかった。


「もうすぐ、着くから」


 傘を持った飯毒が、小さく、そして芯のある声で久しぶりに雨ヶ瀬の鼓膜を揺らした。


「……訊いても、いい?」


 返事の代わりにそう返された飯毒は、立ち止った雨ヶ瀬をちら、と見た。


「言える事なら」


 抑揚の小さい声は、雨ヶ瀬からすると怒っているようにすら聞こえる。けれども、訊く。


「その、今から行く場所で、私は何をするの?」

「博士と会う」


 飯毒は道の上が屋根で覆われた商店街の入口で傘の水滴をバサバサと振り落とした。水しぶきが商店街の床を埋める石畳に模様を作っていく。


 当たり前のように返ってきた言葉とは裏腹に、雨ヶ瀬の頭には疑問符が浮かんだ。


「は、博士?」

「そ」


 傘を閉じ、真っすぐ伸びる商店街を進む飯毒の背中を、雨ヶ瀬はついて行く。自分と同じくらいの背丈、自分が持っているのと同じ体操服とカバン。


「さっき、分かったでしょ。自分の身体が普通じゃないって。私も、同じ。そして、それを狙いに来る奴が、息を潜めてその機会を狙ってる――今日みたいに」


 ぎりぎり車がすれ違える程度の薄暗い商店街に、声が反響する。そのほとんどの店に錆びたシャッターが下り、活気どころか廃墟と言っても良いくらいの寂れた雰囲気が埃っぽく沈んでいる。


「博士は、私達の身体を私達よりも、良く知ってる。小夜は、私と同じだから、きっと教えてくれる」

「うん……」


 ――全然、違う。


 返事の裏で、小夜は思った。


 ――私は殺されかけて、苦しんで、助けられた。飯毒さんは切り伏せて、励ましてくれて、肩を貸してくれた。それだけじゃない。私は何も知らない。何も知らないまま、飯毒さんについて行く。飯毒さんは、私を連れていく。あんな事があっても、こんな身体でも、私はそれ以外普通の人間だ。どこが、同じ……。


「わっ」


 雨ヶ瀬は立ち止まった飯毒の後頭部に顔をぶつける。


「小夜?」

「……ごめん」


 頭を振った雨ヶ瀬が顔を上げると、そこには眩しいネオンサインがあった。

 シャッターの開いた数少ない店舗。一面がガラス張りとなり、中央に大きな引き戸の入口があり、その中ではクレーンゲームやメダルゲーム、煌びやかな画面が所狭しと並んでいる。からからから、と飯毒が扉を開けると、密度の濃い音が静かな商店街に飛び出した。


「ここ……ゲームセンター?」


 雨ヶ瀬の知っているそれよりもずっと手狭で古びた店内を、飯毒の背中から見渡す。真新しそうな巨大な体感型ゲームから、こじんまりとしたブラウン管モニターにアナログスティックと6つの小さいボタンの付いたゲームまで、初めて見るものばかりだ。学校の帰り道で、何となくしてはいけない事をしているような気分になる。


 飯毒が奥のカウンターに置かれたベルを鳴らすと、程なくして奥からポロシャツを着た眼鏡の男が出てきた。


「店長。ただいま」

「ああ、お疲れ様! 隣にいるのは……いや、上手く行ったんだね! 今日は良い日だ」


 店長と呼ばれた男は飯毒の姿を見るや否や、眉を上げて笑顔を見せた。


「傘、ありがと」

「いえいえ……このところ天気が変わりやすいから、たまたま持って来てただけで。それより、博士が待ってますよ」


 飯毒から傘を受け取った男は腕時計に手をやり、時刻を合わせ直すかのように弄る。


「……よし。5分間、鍵は開けたよ。ゆっくりしていってください」


 腕を伸ばした先には、壁の端にある錆びた扉と"STAFF ONLY"の文字が刻んであった。


 こつ、こつ、こつ。


 四方のざらついたコンクリート。手を伸ばせば届きそうな高さの天井に付いた蛍光灯が、地下へと下りていく細い階段を薄暗く照らしている。下りていく度に空気が一段と冷えていく感覚。乾いた足音が響くスペースもないくらいに、狭い下り道。


「こんなとこ通って、本当に博士って人に会えるの?」

「うん」


 壁と天井の間に張られた蜘蛛の巣をしゃがんで避けながら、雨ヶ瀬は暗がりと狭い圧迫感で嫌な汗をかいている。


――博士って言うくらいなら、研究室とかそんな綺麗な建物に居そうなのに。こんな狭くて古びた階段の先に、一体誰が居るっていうんだろう。


 階段を下りきった雨ヶ瀬が来た背後の階段を見返すと、扉の隙間から漏れる四角い光がまるで空に小さく浮かんでいるように見えた。つい数時間前までの、当たり前の日常が随分遠くに行ってしまった気分になる。


 飯毒は階段下の行き止まりにある鉄製で頑丈そうな扉の横に付いたテンキーとモニターの付いた機械に顔を近付けている。


「それが、このドアの鍵?」


 後ろから覗こうとした雨ヶ瀬を、飯毒は顔をモニターに向けたまま腕で制する。


「映っちゃ、ダメ。まだ登録されてないから、エラーになっちゃう」

「エラーになったら、どうなるの?」

「テンキーで、パスワードを入れる。55桁の」

「55……」


 赤く点灯していたランプが緑色へ変わり、小さい電子音の後に扉のロックが外れる音が鳴る。果たしてどんな地下道に繋がっているのか、はたまたこの先は下水道かもしれないと雨ヶ瀬は身構える前で、飯毒はその扉を開けた。


 点いているのかも分かりにくい、薄暗い照明。2階分程の高さの天井。水面のように反射する青っぽい床。中央に置かれた大きな机と、並べられた機材や器具や資料。最奥部には大小幾つかのガラス管――培養槽が設置されている。機材の低い駆動音や時折響く電子音が、広さゆえの寂しさを紛らわすかのように空気を揺らす。


 古びた商店街の地下、息苦しく狭い階段から扉1枚隔てた先。突如眼前に現れた異質な空間を目の当たりにした雨ヶ瀬は、まるで別の空間に飛ばされたかのような錯覚に陥っていた。


 そして一番巨大な、人間を入れてもまだ余裕がある大きさをした、透明な液体で満ちた培養槽。その土台部に取り付けられたモニターを触っている、白衣の青年。


「おや」


 培養槽を下から照らす白い明かりを受けながら、それは2人に背中を向けたまま横顔を見せた。片方だけ上げた口角が覗き、クリーム色の巻き毛の下で細い銀色のフレームをした四角い眼鏡が光る。


「こんなに喜ばしい日は……いつぶりだろうな」


 レンズの奥、大きな黄色い眼の中で小さな瞳孔が雨ヶ瀬を覗いていた。

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