Bordernaut -ボーダーノート-
ナギシュータ
白昼夢
夏の天気は変わりやすい。
降り始めた無数の雨粒で青白くなっていく校庭。蝉の鳴き声は段々とかき消され始め、代わりにホワイトノイズのような雨音が雨粒の隙間を埋めていく。その隅にある体育倉庫は気持ち良さそうに屋根の砂埃を洗い流すが、倉庫内では夏の暑さはすぐには収まらず、逆に湿気で蒸されていく。
扉が開いたままの古い体育倉庫は物もあまり置かれていない砂まみれの棚が並んでいる。そしてポニーテールの少女はその奥で、ささくれた木の壁に背を預け、砂だらけの床に足を投げ出して座り込んでいる。
その胸には、金属製のテント杭が深々と突き刺さり、背後の壁まで貫通していた。
「やっぱり、まだ生きてる」
もう1人の少女はその目の前で膝をつき、ポニーテールを手で引っ張りながら、耳元で囁いた。その手は胸部を貫くテント杭を握り締めている。
「
少女はまだ自分の身に何が起こっているのか分からなかった。夏休みを迎え、誰もいない学校。長い入院から久しぶりに帰ってきた藍田と一緒に忘れ物を取りに帰って、寄り道のように連れられたこの倉庫。刺さったテント杭の辺りから、どんどん真っ赤に染まっていくポロシャツ。突然気持ち悪くなり、喉の奥から逆流してきた血が口から零れ出す。
「本当に、気付いてなかったんだ」
少女は勝手で出てくる涙で滲む視界の中、喉が強張り返事をする余裕もなくなっていく。心臓が動くたび、刺さった杭が鼓動に干渉して激痛が走る。普段流れない所に血が流れ込んでいくのを感じて気持ちが悪い。刺さった所が異様に熱いのに、全身は震えるほど寒い。
少女は、自分が何故生きているのかが分からなかった。
「みんな、あなたを待ち望んでる。だから殺さずに捕まえてって、言われてるんだけど」
少女の口から零れる血を、藍田は指でゆっくり掬う。その指もまた震えていたが少女の震えとは違い、それは感情の高鳴りによるものだった。
「あなたがし私より価値があったら……私、きっと捨てられちゃう」
砂利に半分埋もれたテント杭を拾い上げ、藍田はそれを握り込んだ手を少女の頭頂部に運ぶ。乱れたポニーテールの付け根を尖った先端で、とんとんと叩く。
「大丈夫。死んでも、細胞の一片まであなたは役に立つから。……だから、ありがとう」
藍田は躊躇いもなくその腕を上げ、叩きつけるように振り下ろした。
少女の顔に幾滴かの血がかかる。しかし、来るはずの衝撃も、死も、来ない。代わりに、投げ出した足に何かが落ちる感触があった。
重い顔をゆっくりと上げると、そこにはテント杭を握ったままの前腕が転がっていた。
「楽しそうだね」
いつの間にか、藍田の背後に立つ人影。
藍田もまた、少女と同様に何が起きたのかが分からない様子だった。ただ分かるのは、肘から先を失った右腕から激しい痛みと血と恐怖が溢れ出る感覚だった。
「誰だ――」
「遅いよ」
左手で傷口を掴みながら振り向こうとする藍田の腹部から、鋭く細長い刃が突き出た。少女の眼前で、その先端が血を滴らせながら鈍く光る。
「かはっ……! なに、邪魔っ、しないで……」
背中から串刺しにされた藍田は膝立ちで身体を仰け反らせたまま、自らを襲った正体を知ろうとする。藍田を襲ったその人影は、真夏にもかかわらず冬用である長袖の厚い体操服を纏い、直立している。その姿は少女や藍田と同じ生徒である事を示しているが、その顔はガスマスクで隠されていた。ガスマスクのバンドでくしゃついた髪の毛は長くなく、濃い紫色をしている。
「邪魔なのは、そっちだ」
体操服姿のそれは、藍田を貫いた刃を捩じって倒したかと思うと、そのまま右の脇腹まで胴体の半分を切り裂いた。
校庭はまだ青白く、土は水分を含んで暗くなっていく。倉庫に漂う曇った埃も、鉄っぽい血の臭いも、外に広がる事はない。
発狂したかのような叫び声をあげながら、裂かれた胴体を左手で抑えて転がるように蹲る藍田を尻目に、体操服を着たそれは少女の前でしゃがみ込んで、ぐったりとうなだれたその首に手を当てた。ショック状態の兆候は出ているが、心臓を貫かれておよそ数分――脈がある。
「起きてる?」
肩を叩くと、うなだれた頭部が前後に揺らめき、ゆっくりと顔を上げた。
息をするのが、生きているのがやっとの少女は、自分を助けたその体操服のそれを見る。藍田にはそれが誰であるか分からなかったが、少女にはその髪と服装に見覚えがあった。そう、春に転校してきたばかりの、休みがちで、夏でも長袖のポロシャツにブレザーを着て、足元まで伸びる長いスカートを履いて、鼻と口をマスクで覆って、いつも体育は見学していて、出席番号が自分の次の……。
「
「引き抜くから、出来るだけ力を抜いて」
飯毒は少女の肩に左手をあて、返事も待たずに貫通したテント杭を右手で一思いに引き抜いた。声にならない叫びが倉庫内に響き、意識のコマが飛ぶほどの激痛が少女に走る。
「大丈夫。今まで死ななかったんだから、死なないよ」
立ち上がった飯毒は着けていたガスマスクを外し、少女の血と肉を纏ったテント杭を口に運び、それを舐め取る。尖った白い前歯と彩度のない灰色の舌に、鮮やかな赤が塗られていった。
少女は胸の傷口に手を当てながら蹲り、脂汗を滲ませながら過呼吸気味に肩を激しく上下させている。テント杭が貫通していた背中の傷が破れたポロシャツの穴から露わとなっているが、ほとんど出血をしていないどころか、既にじわじわと塞がり始めているように見えた。
「私、なんで……」
――なんで、こんな目に? なんで、生きている?
「知りたい?」
その問いかけに少女はもう一度顔を上げる。ほとんど同じ身長のはずなのに、少女には飯毒がとても大きく見えた。常にマスクを付けている飯毒しか知らない少女にとっては馴染みのない顔だったが、睨むようで眠たげな、ジッとした目線を向けている飯毒の目は少女にとって見覚えのあるそれだった。
飯毒はその顔を見て、僅かに頬を緩めながら息を吐いた。
「名前、何だったっけ」
歯を食い縛りながら見開いた眼で飯毒の姿をじっと見つめていた少女は、血の味がする口を開く。
「
それにまた応えるかのように、飯毒は中腰になって少女に手を伸ばした。
「小夜。立って」
長袖の先から覗く手は素肌ではなく、涙と血と埃まみれの雨ヶ瀬とは対照的に、汚れどころか皺一つ走っていないゴムともエナメルとも言えない黒い被膜のようなものに包まれていた。
「知りたいんでしょ? さ、ほら」
雨ヶ瀬は身体の芯に響き続ける痛みを堪え、よろめきながら上体を起こす。その地面には、自分の身体から出たものとは俄かに信じられない量の血溜まりが広がっていた。
「う、ぐっ」
雨ヶ瀬は伸ばされた手を掴んで、引っ張り上げられるままに立ち上がった。ふらついたが、しっかりと二本足で地面を踏みしめる。胸の傷はまだ、背中まで穴が開いている。頭もまだ混乱している気がする。まるで、夢でも観ているかのようだ。しかし、胸の痛みと口に広がる鉄の味が、そうではないと言っている。
「逃げるよ。こいつの仲間が来る前に」
2人の足元で、藍田は全身を強張らせて脂汗を流している。制服の下で溢れそうな内臓を左手で抑えるのが精一杯で、動く事もできない。
「でも、このままじゃ」
「気にしなくていい。私達はこれくらいじゃ、死ねないから」
血で湿気た砂で咳き込みながら、藍田は血と脂で生ぬるい左手をがたつかせながら飯毒に伸ばすが、飯毒はそれを無視して雨ヶ瀬に肩を貸して倉庫の出口へ向かっていく。
「無視、するなぁっ……!」
藍田は2人の背中に向かって叫ぶ。しかし、叫ぶにしてはあまりにも小さく、掠れている。
「このままじゃ、私っ……死ぬより、酷い目にっ、遭っちゃうから……! 殺してっ……!」
聞いた事も聴きたくもないクラスメイトの懇願に、雨ヶ瀬は思わず振り向こうとしたが、飯毒はそれを制した。
「見ないで、いい」
「でも……」
「私、殺意のない人間は殺したくないから。……さ、行こう」
2人は血の海に伏せる藍田を残し、倉庫から出た。
外の雨は幾分か弱まっているが、それでもまだずぶ濡れになるには十分な雨足だった。飯毒は入口の横に立てかけていたカバンを拾い、中から取り出した折り畳み傘を広げる。
「そういえば……行くって、何処に?」
傘の下で、こんなに近くで見た事のない飯毒の顔を見ながら、雨ヶ瀬は訊く。乱れを直しきれていない濡羽色のポニーテールは、灰色の空の下でも濃い青のツヤを出している。普通のマスクを着け直していた飯毒の肌は曇天の下で雪のように白く、飯毒はその横顔を雨ヶ瀬に見せたまま、前を向いたまま答える。
「知らない事も、知りたくない事も、教えてくれる場所」
遠くの方で、雷鳴が響く。この雨もこれから本降りになるだろう。
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