第4話 こんな家出ていきましょう
「……まさか縁談を持ちかけられるだなんて」
深いため息をつく。嫁ぎたいだなんて伊鞠自身は露ほども思わないし、伊鞠はうつけと呼ばれる光明にも疎まれてしまうのだろう。
でも、父である当主の言うことは絶対だ。抗うことなど、出来るはずがない。
何もかも、投げ出してしまいたいような絶望感に苛まれ、薄暗い部屋の隅で蹲る。
『――おまえは、それで良いと思っているのか?』
ふと頭をよぎったのは、紅のその言葉。
そんなこと思ったことなんてない。ただただ、我慢して、諦めて。心がどんどん空っぽになっていっただけ。良い訳なんてない。でも、どうすればいいのか分からない。
(この家を出る、とか……?)
あまりに突拍子もない考えだが、伊鞠にはこれくらいしか思いつかない。私物も少ないため、身一つで今すぐにでも出て行けるから、なかなかの名案なのではないかと思ってしまう伊鞠の方こそ、本当のうつけであろう。
「……別に。光明さんだって私を望んでいるわけではないでしょうし。寒凪家が恥を晒すだけよ」
こんな家に思い入れなんてあるわけもないし、情なんて欠片も持ち合わせていない。
「これは、私の人生だもの。結婚相手もこれから先も自分で決める」
ああ、でも。真白には幸せになってほしい。伊鞠の境遇に同情してくれた唯一の、優しい、純粋すぎるひと。同じ血を分けた双子の妹。
どうか、彼女はあたたかい陽だまりの中で、無邪気な笑みを浮かべていて欲しいと、切に願う。
数少ない私物である、古い手鏡と櫛を手にする。先程父から受け取った上等な着物を風呂敷に包んで、歩み出す。数人の使用人とすれ違ったが、普段から屋敷中を動き回って掃除をしている為、疑わしげに見られることはない。それでも念には念を入れ、人の目を盗みながら、家の門扉をくぐり抜けようとする。
「お姉さま、どうなさったのですか?」
背後から聞こえてきたのは、小鳥のさえずりのように可憐な少女の声。
間違いなく、真白のものだ。
これはまずい。おずおずと振り返り、咄嗟に考えた言い訳を口にする。
「ま、しろ。ええと、その。少し外の空気を吸いたくなってしまって」
「……先程はすごく顔色が悪くて、心配でつい、声をかけてしまいました。いってらっしゃいませ」
伊鞠のことを疑うこともせず、花がほころぶような笑みを浮かべる真白。「いってきます」と短く言い残し、少しの罪悪感を抱きながらも、足早に屋敷の外へと足を踏み出す。
(良かった……。でも、ここで気を抜いては駄目ね)
ぎゅっと拳を握りしめ、気合を入れ直す。下駄の鼻緒もすげたばかりなので暫くは持ちそうだし、足袋なら何枚か予備がある。何かあったとしても、これで歩くのには苦労しないだろう。
寒凪家本邸は、帝都である
人を隠すなら人の中。大勢の人混みの中に入ってしまえば、伊鞠がどこにいるかなんて分かるはずがないだろう。
……そう思っていたのだが。初めて見る街の喧騒、大勢の人々。頭がくらくらして、石畳を歩く足元も覚束なくなり、それどころではない。
「ねえ、そこのお嬢さん! 風呂敷に大事な物でも入っていないわよね? 見事に盗まれているけれど」
背後から聞こえる見知らぬ女の声に、はて、と首を傾げる。風呂敷なら伊鞠の手元にあるではないか。
そう思い、風呂敷を持っていた方の手を見ると。今まであったはずの風呂敷が、忽然となくなっていることに気づく。
「……うそ。あそこには、大事なものが入っているのに」
「ええ!? 大変じゃない! 待っててね、今すぐ捕まえるから」
そう言って颯爽と駆け出したのは、まだ十六、七くらいの少女。赤みがかった黒髪は、耳の下あたりで二つのお団子に結われている。ぴょんぴょんと飛び跳ねるように盗人を追いかける姿は、さながら自然の中に暮らす小動物のようだ。
(というか、あの格好って)
なによりも伊鞠が驚いたのは、その少女の格好である。少女は、黒を基調とした、金色の釦がよく映えている軍服をそれは見事に着こなしていた。
ひらひらと舞うスカートに、焦茶のブーツ。小さな頭にはやや大きめな軍帽が、動くたびに不安定に揺れる。
伊鞠は、必死に少女の後ろ姿を追いかける。すぐに息が切れ、立ち止まりそうになるが、何とか気力で持ちこたえようとひたすらに足を動かす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます