第3話 現実はどこまでも身勝手で
暦のうえでは春が来たといえ、まだまだ夜は肌寒い。薄い寝巻と布団では到底寒さをしのぐことはできず、眠るに眠れないまま外に出る。夜空に儚げに浮かび上がる月を見ていると幾らか孤独が和らぐ気がする。
(この家を出る、か)
今まで考えもしなかった。伊鞠の人生は全て寒凪家と、寒凪家の人々だけで構成されていたのだから。外の世界に目を向けることなんてなかったし、向けたところで何が変わるわけでもない。
だからこそ。名しか知らぬ青年の一言が、こんなにも胸に残って離れない。
「そんな大層な夢を見ては、駄目よ。……どうせ、無駄だもの」
冷たい夜風が頬を通り過ぎていく。ぞわりと寒気が背筋にはしる。
風邪でもひいたら困ると思い、少しでも暖をとろうと、薄い布団の中に戻る伊鞠だった。
次の日の朝。今日は幾分かあたたかくなった。雪のようにふわふわとした雲が、どこまでも青い空を泳ぐ。大きく背伸びをして、身体いっぱいに息を吸い込み、吐く。朝の誰にも邪魔されない時間が、伊鞠は好きだ。ひとりでいるのは楽だし、傷つく必要もないのだから。
「いいお天気」
ふと視線をやると。手入れがされなくなって久しい、小さな庭園であっただろうそこに、椿が咲いているのに気づく。鮮やかな赤い大きな花弁が重なり合い、見事に花開いている。
(なんだか、紅さんみたい)
なにもせず、ただそこにあるだけで場の空気が華やかになる感じというか、鮮やかな赤髪を連想させるような色だからというか。なんとなく、そんな気がして、ついじっと見てしまう。
椿に見とれて時間を潰してしまったせいで、急いで身支度を済ませるはめになった。
小走りで母屋へと通じる渡り廊下を渡っていると、不意に声がかかり、立ち止まる。
「伊鞠様。旦那様がお呼びです」
「はい……?」
使用人を束ねる長であり、当主からの信頼も厚い老爺から、声をかけられるのは指で数えられるほどしかない。それだけに、動揺する。
当主からの呼び出しなんて、嫌な予感しかしない。それに、お叱りの時の呼び出しに彼を使うほどには伊鞠に価値はない。
とすると。さらに厄介なことに巻き込まれるような、そんな気がする。
粗末な身なりのまま、当主が待つ部屋へと歩んでいく。心臓が自然と早鐘をうつ。
「伊鞠です。入ってもよろしいでしょうか」
「入れ」と父が短く返事をするのを待ってから、障子戸を自らの震える手で開ける。
父の側には母と、真白。
久しく顔を合わせていなかった自らの双子の妹と、まさかここで向かいあって座ることになるなんて思ってもおらず、身体が強張る。
用意してあった、伊鞠の布団よりもふかふかとした座布団におずおずと腰を下ろす。
すると、開口一番。当主は伊鞠をろくに見ることもせず、言い放つ。
「伊鞠には、この家の繁栄の為、嫁いでもらう。相手は
「……っ。わかり、ました」
ああ、やはり厄介ごとを押し付けられたのだ。じわじわと、心が絶望で覆いつくされていく。
秋月家は、寒凪家と同じく五家の一つとして数えられる、名家中の名家だ。持つ領地は広大でも、不毛の地が多い寒凪領と違い、秋月領は肥沃な土地を有し、作物がそれは豊かに実る。家同士の結びつきを強めるには、今回の縁談は持ってこいということは、伊鞠にだってわかるくらいだ。
しかし。次期当主である秋月光明は、かなりの変人として名を馳せている青年だった。変わっている、といえばまだ聞こえは良いが、彼と関わった人物は皆、口を揃えて言うのだという。
――光明殿は相当なぼんくらだ。秋月家も落ちたものだな、と。
使用人の間でも専らの噂話だ。伊鞠の耳にも聞こえてくるくらいだから、相当変わったお人なのだろう。
「お姉様を秋月家に嫁がせるだなんて、そんな」
真白の伊鞠を哀れむ声が、どこか遠くから聞こえるように感じる。
精一杯やってきた。使用人にすら馬鹿にされ、畏れられ、軽蔑されても、今まで必死にこの家にしがみついてきた。
それでも結局、寒凪家のいいように使い捨てられるだけなのだ。そんなこと分かっているのに。
悔しくて、苦しくて、堪らない。
「明日、秋月家からの使いがやってくる予定だ。それまでに物をまとめておけ。どうせ大した物もないだろうが」
「本当、秋月家に嫁げるなんてよかったわねえ。こんな良い話ったらないわ」
秋月家との繋がりができたおかげか浮かれた調子でいる母と、淡々と話を進める、いつもより声が上擦った様子の父。
伊鞠のことをどれだけ疎ましく思っていたかが目に見えて分かり、虚しさが胸いっぱいに広がる。
「はい」とか細い声で返事をする。ふらふらとした足取りで、座敷を後にした。
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