第2話 出逢いは鮮やかな赤とともに

「はあ……」


 傷口から出てくる桜の花を押さえながらため息をつく。どんなに小さな傷でも、一度華が溢れると、しばらくは止まらないのが困りものだ。

 辺りに華を散らすわけにもいかず、しばらくは仕事を中断するしかなくなる。


「――おまえ、寒凪家の者だろう? なぜそのような粗末なものを身につけている」


 目の前から男の声が聞こえた。俯いていた伊鞠は、咄嗟に顔をあげる。


 指先から溢れる華を見られていないかとか、そんな心配は、目に入った鮮やかな赤髪の鮮烈さで吹き飛んでしまって。


 齢は二十かそこらくらいだろうか。蘇芳の着物に赤褐色の落ち着いた色合いの羽織を身にまとっている。

 伊鞠から見て左側の、一房の髪だけが耳を覆い隠すように肩のあたりまで伸びているのが目をひいた。

 他の者がすれば珍妙に映りそうなその髪型は、端正な容姿と相まって、不思議とよく似合っている。

 

 まるで紅玉のような深い赤の双眸は、こちらをじっと見つめていて。訝しげに伊鞠へと問いかける声は、硬く冷たい。

 ひゅ、と自身の息を吸う音がやけに大きく感じられる。


「……何故、私が寒凪家の者だと?」


 粗末な身なり、木の枝のように細い身体、箒を持っている姿。

 どれをとっても、朱雀国に多大なる影響力を持つ五家のうちの一つ、寒凪家の娘とは見えないだろう。


「その白い髪は寒凪家の血をひく者にしか現れない」

「そう、なんですね」


 久しぶりに、まともな言葉を相手と交わしたせいで、声が震えてしまう。


「名は?」

「伊鞠と、申します」

「……そうか。俺はこうとでも呼んでくれ」


 そう言って、紅はいくらか考え込んだ様子で視線を下の方へやり、すぐに視線を伊鞠へと戻す。

 なにやら呟いているような気がした。


「あの、どうか私に会ったことは、内密に。きっと当主様のお客人でございましょう?」

「何故?」


 ──紅は、伊鞠が他所の者と顔を合わせただけで、酷く怒鳴りつけられ、人としての尊厳を全て否定されるだなんて、思いもしないのだろう。

 きっと、そんなこと想像もできないくらい、あたたかな世界で生きているのだろう。


(……羨ましい)

 

 そんな言葉が頭によぎった。

 羨ましくて、何故か腹立たしくて、感情のやり場が分からなくなってしまう。


「私は、貴方みたいなお方と顔を合わせ、会話をすることすら不相応。旦那様に、叱られてしまいます」

「随分と酷い扱いだな。おまえは、それでいいと思っているのか?」

「……て、」


 なんだ、と首を傾げる紅。


「いい訳なんて、あるわけないでしょう……っ! 私、華宿りなんです。だから、放っておいてください」


 何がわかるというのだろうか。何にも知らないくせに。恵まれている者には自分の気持ちなどわかるはずもないのに。


「華宿りが、しかも五家の生まれの者が何故このような扱いを受けている。明らかにおかしいだろう」


 紅は眉根を寄せてみせた。不思議と会話が噛み合っていない。


「華宿りは異端の者であるという認識はあるのでしょうか……?」

「ないが。というか、この家の者がおかしいだけだろう」

「……」


無神経で、無遠慮で。育ちの良さからくる少しの傲慢さが、ふとした瞬間に窺える。

 でも、その全てが許されてしまうような圧倒的な何かが、紅にはある。


「そうだ、家を出てみないか? そんなくだらないことで悩まなくても良くなると思うが」


 考えたこともなかった。

 伊鞠の世界は、この小さな箱庭の中で完成されきっていて、これからだってずっとそうだと思いこんでいたから。


「っ、それは……」

「客人を前に一体何をしている」


 ずいぶんと聞き覚えのある、あたりによく響く低い男の声。

 向けた視線の先には、まるで雪のように白い髪の男性――父だ。

 手が、足が、身体全体が恐怖を覚える。体が重い鉛を呑み込んだかのように重くなる。


「すみません、申し訳ございません旦那様。私、掃き掃除を。それで」

「……お見苦しいところをお見せしました。まさかこんなに早く訪れるとは思わず。若様、どうかこちらへ」

「ああ」


 冷ややかな目でこちらを一瞥した後、瞬く間に朗らかな笑みを湛えた父は、紅に客間へと入るよう促す。客人がこの場にいたおかげで、一時だけでもあの生き地獄にいるかのような状況から解放されたのは、不幸中の幸いだ。


 あの若さで父にまで敬われる立場の紅は、一体何者なのだろう。

 そちらの方をはたと見ると、紅は当主の言うがままに、客間へと足を踏み入れるところだった。伊鞠の視線に気づくこともなく、紅は中へと入っていく。

 

 それを見届けてから、伊鞠は掃き掃除をしていた手を再び動かし始める。

 痛みにはもう慣れ切っているはずなのに、何故だか、ちくりとどこかに痛みを覚えた。



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