その4
涼しげな装いの彼女とともに歩く盛夏の空の下は爽やかなものであった。その暑さを忘れるほどに。
彼女の家の前の坂を下り、駅の方へ。かつては人々の足であった鉄道は時代の移り変わりによって徐々にその規模を縮小させていたが、住民達の転居が概ね完了した三ヶ月前に完全に廃線となったと彼女が教えてくれた。かつてはそれに乗って隣町へ遊びに出かけたことを思い出して少し感傷的な気分になる。
駅前の商店街は路線が廃止になるよりも少し前に転居が完了して完全なシャッター街になったらしい。いつ行っても明るい明かりで私を迎えてくれたその商店街はもはや存在しない。初めて見る姿の商店街を歩きながら彼女に尋ねた。
「商店街がないと買い物も大変じゃないの?」
「新しいショッピングモールができたんですよ。この商店街はあたしが生まれた頃には程度の差こそあれこんな感じでしたよ」
流れる時を身にしみて感じた。言われてみれば今はほとんど人のいないこの街だが、移転計画が決定する前はこの街も近隣の街からの移住で私が過ごしていた頃よりも人は多かったはずなのだ。新しいショッピングモールができてもおかしくない。
ショッピングモールまでは歩いて十五分程度だという。無人タクシーを呼ぶほどの距離でもないし、何より彼女との時間を楽しみたかったからのんびり歩いて行くことにした。
廃線となったガードをくぐり、県道を歩く。数分に一台、転居のトレーラーが走っていくほかはほとんど通行量のない道だ。
途中、警察署の前を通り過ぎていった。さすがに警察署は閉鎖していない。転居が完全に完了して街が無人になっても警察や消防などの必要最小限の施設は残されるらしい。とはいえ運営するのはほとんどがロボットなのだが。
車が通らない交差点の信号を律儀に守り、五叉路の交差点を渡ると神社が見えてきた。かつて広大な境内を誇ったその神社は今ではかつての面影を思い出せないほど小さくなっており、その少なくなった木々の向こうにショッピングモールの巨大な影が見えてきた。
「あそこですよ」
どうやら、ショッピングモールは神社の境内だった場所に建てられたらしい。私の知らない人口過密時代の産物だ。そういえばこの辺りの住居は私が住んでいた住宅街の家々よりもかなり新しいようにも思える。
ショッピングモールは一部であるが稼働していた。そこもほとんど無人だったが、この街で初めて人の営みを確かめることが出来たように思う。小腹が減ったのでフードコートで私はラーメンを食べ、彼女はソフトクリームを注文した。その後しばらくショッピングモールでウィンドウショッピングを楽しんだが、さすがに品揃えが悪く、私も彼女も何かを買うということはなかった。
ショッピングモールを出た後、今度は私が彼女に思い出の場所を案内することになった。
足を伸ばして城跡公園を抜けていく。この城はかつての戦国武将が産湯を浸かったと言い伝えられる由緒正しい場所であったが、今では訪れる人もなく、荒れるままになっていた。出迎えるのはセミの鳴き声ばかりである。
生い茂る木々がもたらす木陰は猛暑の中で涼しさをもたらしてくれたが、同時に水源が近いためか虫も多く引き寄せてしまうので足早に城跡公園を離れた。
公園の脇には川が流れている。堤防には延々と桜が植えられており、昔はよく花見に出かけたものだが今は生憎桜の季節ではない。彼女に聞いてみると、今でもここは桜の名所で春には花見客で賑わうそうだ。
夏の今頃はそこの河川敷で花火大会が開催されていたはずだが、そのことを彼女に話すと彼女の記憶で花火大会が行われていたことはなく、一度見てみたかったととても残念がっていた。
そのまま彼女と河川敷を歩いていたかったが、さすがにこの季節、日を遮るものがない中で長時間歩くわけにも行かないので場所を移すことにした。
「帽子を持ってくれば良かったですね。失敗です」
そういう彼女が白い麦わら帽子をかぶる姿を想像するとまた胸が高鳴った。
橋を渡って川の向こう側に行き、丘を登ると私の通った高校に着いた。
そこは私の記憶にある母校とは似ても似つかぬ姿になっていた――それどころか、場所すらも変わっていた。ほんの一ブロックほどだが。
「ここの出身だったんですか? じゃあ、あたしの先輩ですね」
「百年以上後輩だけどね」
「ということは、さっき着ていたのは」
「もう廃校になったから、着たのは半年ぶりです。
自分の母校が廃校になっていたと知らされたが、あまり気にはならなかった。覚悟していたというのもあるが、彼女がそれを継いでくれた喜びの方が大きい。
「へぇ。私が通っていた頃とは全然違うデザインだから気づかなかったよ」
「そりゃあ、百年後輩ですから」
そんな軽口をかわして笑い合えるほどには打ち解けていた。
しかし、打ち解けるほどの時を過ごしたということは、私の持てる時間の残りも少ないということでもある。
そのことを彼女に話して、最後に自宅まで送っていくことになった。この時間であれば葬儀も終わっており、家族は家に戻っているだろうということだった。
すでに日も傾き空はあかね色よりも宵闇の方が支配的になってきている。これほど人が少なくなっても街灯はきちんと機能していて歩くのには問題なかった。
それまでと異なり帰り道では会話らしい会話はほとんどなかった。人もいない静かな街の中を二人の足音だけが響いていく。暗くなりつつある足元と、それを食い止めるかのように道を照らす外灯が寂しさをより引き立たせていた。
無言のまま、彼女の自宅前までやってきた。彼女との時間はこれで終わりだ。私は門の前に立ち、彼女はそこをくぐっていく。
「今日はありがとうございました」
門の向こうから小柄な彼女がぺこりとお辞儀をした。
「こちらこそ。昔を思い出したみたいで、楽しかったよ」
湿っぽくなるのが嫌だったので、無理やりにでも笑みを見せたつもりだったが、うまくできていただろうか?
「それじゃ、これで」
私はきびすを返して立ち去ろうとしたとき、後ろからふわりと柔らかい感触があった。
「え……?」
思わぬ不意打ちに私が振り返ると、それを待ち構えていたかのように私の唇に柔らかいものが押し当てられた。ぬるりと柔らかいものが口腔を撫でる。
「んっ……」
意図せず声が出た。頭が真っ白になる。数秒の――あるいは永遠にも思える――時間。
やがて彼女は名残惜しいかのように一瞬だけ強く唇を押しつけたかと思うと、触れたときと同じように唐突に遠ざかっていった。
「な……何を……!?」
唇に手を当てる私。心臓が口から飛び出すのではないかと思えるほど激しく動き、顔から火が出そうなほどに熱い。
「うふふ。あたしの初めてのキス、あげちゃいました」
そう冗談めかして笑う彼女だったが、彼女の顔も赤かった。もう暮れかかっている夕焼けの色ではない。
「な……どうして……? 初めてって……」
「んー? 関係ないんじゃないですか? あたしはお姉さんにそうしたかったからしたんです。おかしいですか?」
「いや、そんなことは……。でも初めてを私なんかに……」
「じゃあ、あたしのお願い、ひとつ聞いていいですか?」
「お願い……? ……私にできることだったら」
そう言う私に彼女は「んー」と少し考える素振りをしてから、
「また会いたいです。必ず帰ってきてください。私が、おばあちゃんになる前に」
そのお願いはおそらく今考えたものではないだろう。そう思えるのは私の思い上がりだろうか。
しかしその『お願い』がどういう意図でされたものであれ、私の答えは決まっていた。
私は頷いた。
私の答えに彼女は満足そうに頷くときびすを返した。彼女が家の扉に手をかけたとき、思わず声が出た。
「ま、待って……!」
彼女が振り返った。彼女は何も言わなかったが、続きを促していることはわかった。
「……いや、何でもない。また会おう」
彼女は「はい!」と満面の笑顔で答えた。
そうして想い人に生き写しの少女は扉の向こうに消えていった。
まだ彼女の名前を聞いていなかった。最後に名前を聞いておきたかった。
しかし、聞くことはできなかった。未練を残すことはできなかった。
この休暇のあと、私は宇宙に旅立つ。おそらく、二度と戻らないであろう。
想いを断ち切るように、しかし心を残して彼女の家を後にした。
完全に日が落ちてひんやりと冷えた風が誰もいなくなった思い出の街に吹いた。
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