第4話 去就

 コトコト。カチャカチャ。軽快な音が、沈んでいた意識を水底から引き上げる。昨夜は疲れ果てていたせいか、だいぶ深く眠っていたようだ。目蓋を通り抜ける朝の光に刺激され、眼球が動き出す。やがて、鼻に届く食欲をそそられる匂いに空っぽの胃袋が刺激されると同時に、「やってしまった」と僕は思った。


 急いで服を着替え、居間へと下りていく。居間では、三人分の朝食を準備した母さんが笑顔で待っていた。


「……朝食は僕が作るからって言ってるのに」


「そんなこと言って、サンなかなか起きてこないじゃない。待ってたらお父さんが遅刻しちゃうでしょ」


 母さんの対面の椅子に座る。トーストとハムエッグとサラダと紅茶が、僕の正面と対面、右手の席に行儀よく並んでいる。


「いただきます」


「いただきます」


 食器の音が居間に響く。自分の皿に並べられた食事を、効率よく食べていく。


「お父さん、今日も帰りは遅くなるの?」


 平凡な朝食。可もなく不可もなく、一人分の朝の活力となるのに十分な質と量だ。


「そう、じゃあ今夜も先に食べてるね。お仕事頑張って」


 母さんが立ち上がり、玄関へと歩いていく。その間に、僕は空になった自分の皿と右手の席にある朝食一膳が乗った皿を入れ替える。


「いってらっしゃい、お父さん」


 母さんは閉じたままのドアに向かって手を振った。やがて、ゆっくりとテーブルに戻り朝食を再開した。


「あらサン、あんまりご飯食べてないじゃない。学校に遅れるよ」


「大丈夫だよ母さん。学校にはもう行かなくてよくなったんだ」


「どうして? 学校には行くものでしょう?」


「仕事が見つかったんだ。これからは僕も働くから、母さんは家で家事をしっかりしておいて」


「そうなの? よくわからないけど、無理はしないでね」


 物わかりのいい母さんに、笑顔で応える。この笑顔にももう慣れたものだ。


「僕も帰ってくるのが遅くなるかもしれないから、晩ごはんは一人で食べていてくれる?」


「わかった。じゃあ冷蔵庫に加熱するだけで食べられるもの用意しておくね」


「ありがとう。でもそんなことより、僕がいなくても夜のお薬は忘れず飲まないとだめだよ」


「わかってるよ。でも、本当にどこも悪いところなんてないよ? この薬、いつまで飲むの?」


「お医者さんがもういいって言うまでは飲み続けないと。かぜ薬だって治ってからもしばらくは飲むでしょ」


「そうねえ。どこも悪くはないんだけれど」


 ぼやきつつも、母さんは朝の薬を紅茶とともに飲み下す。その様子を見届けながら、僕は二枚目のトーストを平らげた。


「ごちそうさまでした」


「ごちそうさまでした」


 母さんが立ち上がり大きく伸びをする。


「うーん。しっかり寝たはずなのに、なんだかすごく眠いなあ」


「無理しなくていいよ。母さんはゆっくり寝て。食器洗いと洗濯は僕がやっておくから」


「そう? じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」


 母さんは微笑んで寝室へと歩いていった。僕は最後に残った紅茶を飲み干そうとした。


「サン、お仕事頑張ってね」


 振り返ると、母さんの背中は寝室のドアをくぐっていた。ドアの向こうに笑顔を向けてから、紅茶を口に含む。二杯目の紅茶は、もうぬるくなっていた。


「良い夢を、母さん」


 母さんが壊れたのは、だいたい七年前だ。十年前、神樹に選ばれた父さんは惑星調査船に乗って地球を離れた。惑星調査の任期は一年だった。しかし、一年たっても父さんたちを乗せた船は帰ってこなかった。当時の巫女様を通して神樹に問い合わせても、何もわからないの一点張りだった。調査船の着いた先で何があったのか、どうして母さんと僕を残していなくなったのか、何もわからないまま、年月だけが過ぎた。


 やがて二年が過ぎ、三年が過ぎた。母さんは月日を追うごとに憔悴していき、やがて父さんの幻を相手に会話をするようになった。まだ幼かった僕は、そんな母さんを正すことも癒やすこともできなかった。今日までずっと、僕は滑稽な家族ごっこを続けている。いつか父さんが帰ってきて、家族三人で星を見た日々が戻ってくるのではないかと、淡い希望を捨てられないまま。


「そっちはそんなに居心地がいいの、父さん」


 こぼれた問いに、答えが戻ってくるはずもない。僕は食器を片付け、自室に昨日の服を取りに戻った。



 自室の机の上では、僕の端末がメッセージの着信を告げる光を放っていた。差出人はリード様だった。


『突然の連絡、失礼いたします。まず昨夜は急なお役目を受け、この星を守っていただき、ありがとうございました。これよりサン殿は、星間戦争用騎乗兵器・青龍のパイロットとして正式にお役目についていただきます。つきましては、本日午後一時より異星敵性体対策本部にて開かれる会議にご出席いただきます。確認のほどよろしくお願いいたします』


 メッセージには、対策本部の場所が記された地図が添付されていた。昨日までは遠い存在だった人からの言葉に、ようやく昨夜の事件が現実味をもって感じられるようになり始める。


「そっか。僕、地球を守ったのか」


 言葉にするといかにも陳腐だ。しかしそれでも、久しく感じていない温かい満足感が胸の中に広がっていく。母さんが壊れて以来、偽りの笑顔を作ることしかできなかった僕が、たくさんの人の役に立てた。


 僕は噛みしめるようにメッセージを読み返した。充足感とともに、これからする仕事への義務感が芽生えてくる。


「よし。今のうちにできることをしよう」


 会議までにはまだ十分時間がある。僕は洗濯ものを片付け、母さんが眠っているのを確認してから、家を出て病院に向かった。



 朝の大通りを駆け抜けていく。あちこちでいつも通りの仕事を始めている人たちとすれ違う。今日はそれがとても得難いもののように思えて、知らず顔が綻んだ。


 しかし、気を緩めてばかりもいられない。今後も自分が危険な仕事につく以上、もしもの時の備えはしておかなくてはならない。病院に着くと、僕はいつものようにベック先生に面会を申し込んだ。僕以外に診察を受ける人はいなかったらしく、すぐに先生の診察室に通された。


「こんにちは。朝のニュースで見たよ、サン君。大活躍だったようじゃないか」


 白髪を丁寧に整えたベック先生は、年齢を感じさせない爽やかな微笑みで僕を出迎えた。


「こんにちは、ベック先生。そう言われると、恐縮しますね。僕はただ夢中で、リード様のお助けがなければなにもできなかったですから」


「ははっ。まあそう言わず、今ぐらいは英雄扱いに甘んじておきなさい。こんな事件はそうそうないし、あってたまるものでもないからね」


「そう願いたいですね」


 しかし、願い通りにはいかないだろう。異星敵性体対策本部が設置され、僕が正式にお役目を命じられたのは、「次がある」と神樹が判断したからなのだから。


「それで、今日は何のご用かな。お母さんの薬を処方するのは、まだ先だったと思うけど」


「はい。今日は、これからお役目の間に僕の身に何かが起きた時のことをお願いしに来ました」


 先生は眉を少ししかめたが黙って僕に続きを促した。


「これから僕は異星からの敵と戦うお役目につきます。当然、もしものこともあると思います。その時は、先生に母の世話をお願いしてもよろしいでしょうか」


 先生は僕の言葉を聞き、一拍おいてから静かに口を開いた。


「わかった。もしもの時は、私が責任をもってお母さんの世話をしよう。だがしかし、お役目につく前からそんなことを考えるものではないよ、サン」


「ありがとうございます。気をつけます」


「お母さんにはお役目の話はしたのかい?」


「もう学校には通わないことと、仕事についた、とだけ。神樹には触れないようにしたら、すんなり受け入れてくれました」


「そうか。それなら安心だ。もしも、本当にもしも君がいなくなった時は、お母さんには長い出張に出たと伝えておくよ」


「ありがとうございます。それでは失礼します」


 僕は頭を下げると、席を立った。ベック先生は深くため息をつくと、聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。


「本当は君みたいな若い子一人にこの星の運命を委ねるべきじゃないんだろうけど、ねえ」


 僕はもう一度先生に頭を下げると、診察室を出て、病院を後にした。これでもう思い残すことはない。

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