第29話 芥川症中毒者

私は無職であった。

人生のレールを踏み外し、どん底にいた私を救ったのが「小説」という手段だった。

無職時代、私は一日中執筆に励んだ。朝起きてから寝るまで、ずっとパソコンの前に向かい続けた。書いている時は自分が小説家になったような気分だったし、その書いた文章が活字になって読者の目に触れるという想像はたまらなく楽しいものだった。

しかし、そうやって書いた小説が必ずしも新人賞を獲れたわけではない。むしろ出版社から無視され続け、作品は日の目を見ないままに原稿の束はついに私の身長を追い越してしまった。それでも、私は書くことをやめなかった。

もちろんそれは「小説家」になりたいという夢があったからだ。小説を書くという作業が自分に合っていたのか、書いていくうちに文章を書くのがだんだん楽しくなっていったのである。毎日パソコンの前に座り続けることも苦痛ではなかった。何時間も書き続けて疲れてしまえば、好きな小説を読んでリフレッシュし、再び自分の創作意欲が湧いてくるまで待った。それを繰り返すうちに、少しずつではあったが私の小説も評価を得られるようになっていったのだ。自分の好きなことを仕事としてやるのは、実に楽しい。毎日充実感を味わいながら書き続けることができる。

私は今もこうしてパソコンの前に座っている。だが、かつてのようにただ「小説を書きたいという意欲」だけで書いているわけではない。小説を書く「理由」があるのだ。

その「理由」は人によって様々だろうけれども芥川賞を絶対に獲ると思っている人はあまりいないように思う。選考委員の先生方はもちろん獲るだろうと思っているだろうが、審査員がそう思ってくれているとは限らない。獲りたいと思っているということをちゃんと発言することによって、他の審査員や選考委員の方をも説得していくためには必要なのではないか。

そういうことも含めて、もし新人賞に受からなかった場合は芥川賞を狙うと宣言し、それを実行できればすごいことである。芥川賞は、純文学系の賞だ。受賞者は純文学作品で世間を騒がせることになることが多い。このおかげで世の中の人は小説を読むようになる。

私は過去に芥川賞に二度ほどノミネートされたが落選した。

私は母親と二人きりの生活である。母親はまだ三十代の半ば。父親は私が幼いときに亡くなっている。

母親と二人だけの生活は別に大変ということはなく、平穏で幸せなものだ。私はこの生活に満足している。

私の母はいわゆるキャリアウーマンである。同じ会社に勤めて十年ほどになるらしい。残業が月に百時間を超えれば過労死ラインだと言われている昨今では信じられないような働き方をしているが、会社からの評価は非常に高く、将来を嘱望されているそうだ。そのためかいつも忙しくしており、休日であっても家事は最低限しか行わない。

そういう訳なので、家にいることが少ない母親に変わって私の身の回りのことはその時々によって違うが、お手伝いさんかハウスキーパーと呼ばれる人たちにお願いしている。

この生活も特に不満は無いのだが、一つだけ困ったことがあった。私が中学校に上がってから一年ほど経った頃のことだ。その頃になると母親の仕事もひと段落し、生活に余裕が出来ていたらしい。それまでは月に一度あるかないかだった休日にはよくどこかに出かけている。

しかし、ある時からそれが二週に一度に減ったのである。それでも私は特に気にしていなかったのだが、ある日の夕食時に母親に尋ねられた。

『新しいお父さんが欲しくない?』

私は即座に首を振り否定の意思を示した。

母親はこれまでに見たことがないほどに厳しい面構えを私に見せた。

幼少の頃より、私は人というものが苦手で、いわゆるコミュ障というやつで、母親以外は誰ともまともに口を聞くことが出来ず、学校でも虐められていた。

父の遺した蔵書に親しみ、司馬遼太郎や松本清張の作品をひたすら愛読した。また、母に買ってもらった文学全集も好んで読み、そして自分でも小説というものを書いてみたくなった。

私は芥川龍之介の作品を全て網羅し、彼の賞とやらに果敢に挑むことに決めた。

当時、母にそのことを告げると彼女はまるで私が失言をしてしまったかのように乾いた笑いを漏らした。

私は原稿を買っていざ書き始めようとするもまるで手が動かない。

胸が苦しくなり、頭も痛くなり、賞を獲ると宣言した矜持はさらなる重荷となり肩に喰い込んでくる。

書いた先から文章が死んでゆくのが手に取るようにわかり、書けども書けども、詰まらない論文を掻い摘んて書いているようで、脳を揺り動かす勢いで頭を掻きむしる。

海外や砂漠に行ったことのなく、社会とは全く無関係の広大な空間に触れたこともない。

まして社会に出たことない自分が、経験を培った物語など欠片も見当たるわけもなく、書けるはずもないと今更ながらに認識した。

未知なる世界に飛び込む勇気など欠片もない無知な私が『芥川賞が欲しい』という成果を得たくて物語を書こうにも書けるはずもなく、気づくと自分の右手をじっと睨んでいた。

何かしら黒い塊のようなものが喉のあたりを彷徨い、やがてすっと下に落ちてゆく。

まるでイメージも何も湧かなく、今までは直接的に夢中になって貪るように読み漁っていた小説を全て破り捨てた。

それまで当たり前のように没入していた直接的な作品の世界を捨て、私は物書きとして歩んでゆくために、取材と称して、災害の現場を訪れ、ボランティアを始めることに決めた。

新しい父親と母親の為にもそれが良いと判断した。

私は未知の分野に飛び込み、社会に触れることで作品の質を押し上げることに決めた。

しかし何の特技もなく、お金もなく、体力もない私は被災地のボランティア団体の中で足を引っ張り続け、挙句の果てにはイジメの格好の的となってしまった。

石を排除する単純なルーティンワークすらも、邪魔をされる。穴を掘っては埋めさせる全く無駄な作業を延々繰り返させられる。

肉体的には耐えられても、精神的苦痛に耐えられなくなってきた私は小説が書けなくなってきた。

何が起こるかわからない環境に自分を投げ込んだつもりでいて、それを意味づけして必然化するつもりであったのに、毎日毎日同じ時間に同じ行為を繰り返させられて、時間が停止したような環境に身を置かれてしまった。

私は自分の気持ちをコントロール出来なくなり、避難所から出れなくなってしまった。

私はこの現実世界が薄汚れたドブ川の淵のようなものと悟り、虚構を描く為に飛び込んだドブ川に沈んだことをただただ後悔していた。

私は今に取り返しのつかない破壊的なことが自分の衝動として沸き起こると考えていた。

空腹に耐えかね、炊き出しに参加しようと何日かぶりに部屋から出たときにそれは起きた。

かちゃりと隣の部屋のドアも開いて、ちらりと視線を送ると、まるでホームレス歴二〇年くらいの薄汚れた中年男性が私のことを見下ろして、嫌らしい笑みを浮かべた。

『私を見下ろすな』

『あん?』

『お前は何様だ?』

『はあ?』

『私を見下ろすなと言っている』

私は興奮のあまり、つっかえながらも怒鳴り散らしたが、男が怯む様子はまるで無かった。

『お前さあ、さっきから何様とか言ってるけどさあ、お前が何様だよ』

男は臭い息とともに私に怒鳴り返した。

嫌らしい笑みを崩そうとはしなかった。

『おい、お前、笑っていられるのも今のうちだけだからな』

『あん?』

『俺が芥川賞獲ったら、お前なんて塵のように排除してやるからな』

『うるせぇ バーカ』

『お前、本当に舐めてるな』

『やってみろよバーカ』

私は震える両腕を押えつけ懸命に堪えていた。

『お前さあ、見下ろすなとか何様だとか言ってるけど、まずお前は誰なの?』

『………』

『誰なんだよ、え?いったいお前は?』

『なんだ?貴様』

『お前、ただの似非えせ小説家じゃねーか』

男はそう吐き捨てると、現場の方に歩こうとした。

『どっちにしても、お前はもう書けねーよ』

男は振り向きざま静かな声で言った。

『だいいち、お前が書こうが書くまいが、誰もお前の本なんか詠みたがっていねーよ。あんなかったるい文章なんかそっちのけで、みんなさあ、今を生きるので精一杯なんだよ。わかるか?』

男はタバコを口に咥えて火をつけた。

『しつけーんだ。お前の小説は、同じ話ばかり、しつけーんだ』

私は振り返らずに現場に向かおうとした男の後頭部に大型のスコップの先端を思い切り叩きつけた。

グチャリと嫌な音がして、割れた後頭部から脳髄がはみ出していた。

男は倒れ込み、ぐったりしたまま動かなくなった。

私は男を見下ろし、ズボンと下着をずりおろして、しょああああと微かな音を立てながら、男の割れた後頭部に放尿した。

熟れたトマトのような後頭部にちょろちょろと透明な液体が流れてゆく。

『あ、あの?』

背後からささやくような声が聴こえて振り返ると老婦人が立ち尽くしていた。

驚いたような老婦人を前にしても、私は放尿を止めることは出来無かった。

『山野井さん、山野井さんですよね?二〇四号室の山野井正明さん………』

老婦人は私の耳のそばで囁くように呟く。

『私は貴方の私小説的な作品のファンなのです。』

老婦人の思いも寄らない告白に私はのぼせた様に目眩を誘われた。

『色々、ご苦労も多いと思われますが、貴方の物語はまだ始まったばかりですから………』

老婦人の言いたいことが私には理解出来なかった。

『ひとまずお逃げくださいませ』

老婦人はブルーシートで、男の遺体を包みだした。

脚が震えて膝が笑う。

『そして物語の続きを書いて完遂させ、いつかは芥川賞をお獲りくださいませ』

よいしょと声を出し、老婦人はブルーシートに包まれ小便に塗れた遺体を軽々と肩に担ぎあげたまま軽トラックに積み上げた。

私は部屋に戻り、ボストンバッグに詰めるだけ詰め込み、逃げるように外に飛び出した。

私はどこにたどり着くとも知れぬ新たな物語を語り継ぐ者として、朝の薄暗い海沿いの道をただ振り返ることなく歩き続けた。


       完 

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バンビ短編集 バンビ @bigban715

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