第27話 舌を吸う

『立嶋の元カノだけには絶対に会うなよ』と半ば遺言めいた言い方で、リキは僕に強く説き伏せた。リキはここ最近アルバイトが忙しいのか、若白髪が増えた様子で、めっきり老け込んだ印象があった。立嶋とリキは僕と同じゼミで、同じテニスサークルにいて、中でも立嶋はイケメンであり、成績も優秀でテニスもかなり上手な壮健な男であったにも関わらず、消息不明になり、ご家族が休学届を出してきた。立嶋の元カノであり、一学年年上で、同じ硬式テニスサークルにいた四方しかた今日子きょうこ先輩は、僕たちの通う中堅私立大学の中でもトップクラスの美人で、僕は今まで生きてきた中でこんなに整った顔はモデルや女優でも見たことがなく、お互いに目があっただけで、全身が金縛りのようになり、緊張して汗だくにもなる程で、テニスウェア姿の今日子さんに見惚れて、汗が止まらなかった時に、同じサークルの仲間たちから更年期障害とからかわれたりもした。奥二重で切れ長の瞳、長いまつ毛、高くて形の良い鼻梁、アンジェリーナ・ジョリーを彷彿させるふっくらと厚みのある唇 パーツの収まり具合は完璧で、肌も抜けるように白い。渋谷ヒカリエホールで行われたミスサークルコンテストで今日子さんは見事にグランプリを受賞した。今日子さんの第一印象は、警戒心の強い小動物のようで、飲み会の端席で注文をお願いしますと後輩に頼まれても、俯き加減でなかなか顔を上げようとしない。ようやく気づいてメニューを片手に注文の声を掛けようとしても、忙しなく動く店員さんたちに遠慮してか、びくびくと不安げに辺りを見回している。長いまつ毛が緊張のせいか微かに震えていた。僕は助け舟を出すつもりで、代わりに注文しましょうか?と問うと、ようやく彼女は安堵の表情を見せた。今日子さんの細くて綺麗な指にはアクセサリーの類は見当たらない。僕なんか絶対に相手にされないはずだが、ついつい左手の薬指に指輪が無いのを確認してしまうし、当然学生の身分だから無いに違いないと思うが、妙に安心してしまう。その頃には、立嶋とはとっくに別れていたと聞いていた。

テニスサークルの後輩の沙也加ちゃんがYONEXのテニスラケットのグリップテープを巻きながら、そう言えば最近、見ないですよねと呟いた。『…四方さん?』そう、その人、と沙也加ちゃんは頷いた。『まあ、でも、あのひとって、基本、今って、就活忙しいんじゃないの?』ふとリキの言葉を思い出し、僕は背中に変な汗をかきながら、沙也加ちゃんにしどろもどろに説明をした。『あ、そう言えばそうでしたね。私、あの手のタイプの美人って苦手です…顔だけじゃなくて、どことなく、ちょっとかげがあるというか』沙也加ちゃんは、敢えて嫌味っぽく美人の部分を強調して、巻き終えたグリップテープの残りを小型のハサミで切り取り、切れ端をゴミ箱に捨てた。沙也加ちゃんは同じサークルに彼氏がいるはずなのに、わざわざ僕の隣に腰掛けて日焼け止めを塗ったばかりの白くて細い腕をわざわざくっつけに来る。僕は沙也加ちゃんの彼氏に見つかると面倒なので、その度に席をずらして距離をとる。翌日、休講で何もやることなく、ぶらぶらと何をするでもなく散歩していると、川沿いにできたお洒落なカフェテラスが目に入った。店内は明るく開放的で、吹き抜けから陽射しが降り注いでいる。気になって足を踏み入れ、中を覗いて見ると、赤いターバンを巻いた若い女性の店員さんが、テラス席へと誘導してくれた。メニューを広げようとした時、斜向かいのテーブルから、麦わら帽子をかぶる今日子さんを見つけて、心臓が喉から飛び出そうなくらいに驚いた。見知らぬ男性と相席しているらしく、僕は思わずうつむき、メニューを広げて顔を隠した。さり気なく席の移動を店員さんに頼もうと手を挙げようとした瞬間に声をかけられた。『波多野くん…?』振り返ると今日子さんはいつの間にかこちらに気づいていたようで、僕の顔をじっと見つめていた。短い沈黙の後に、こちらで一緒しないかと今日子さんに提案されて、僕は右手で軽く制止するジェスチャーで遠慮の姿勢を示したが、同席していた男性が、今日子さんに目配せをして、彼女が頷くと、男性はすっと立ち上がり、まるで僕から逃げるように顔を合わせることもなく、別れ際に軽く会釈をして店から出て行った。顔を見合わせた時に、どことなくだが、会ったことのあるような印象を受けたが、見た感じ40代くらいの壮年な男性に知り合いはおらず、気のせいかと首を振った。束の間、迷った末に僕は彼女の向かいの席に腰を下ろした。先ほどまで壮年の男性の座っていた場所だ。『なんか、すみません』と僕は今日子さんに頭を下げた。今日子さんは笑みを浮かべながら右手を振り、彼はちょうど予定があり、中座するところだったと僕に説明した。さっきの方は恋人ですか?と言いたい衝動を抑えて、少し震える手でメニューをめくる。『同じゼミの人』とふいに言われて、僕は危うくメニューを落としてしまいそうになった。社会人向けの講座を学び直す為に来たのかと勘ぐるほどに、今日子さんとは見た目の年齢が離れている。今日子さんは比較的大きめの麦わら帽子に、真っ白な麻のワンピースと薄手のカーディガンを羽織っていた。透き通るような色白の今日子さんによく似合っていて、改めて美しい人だと思い知らされた。小動物のように頼りなさげで弱々しいのに、太陽の光を浴びている今日子さんは独特のオーラを持つ女神のようで、ふっと香り立つような色気がある。今日子さんを見ていると嫌でもそのふっくらとした美しい唇に視線がいく。ふいにリキが言っていた言葉を思い出して、思わず頭を振る。『いいか、もし、もしも仮に、どこかで彼女を見かけたとしても、絶対に舌だけは吸うな!分かったな!舌を吸うと後戻り出来ないぞ!』僕はリキが何を言いたいのか最後まで理解出来ないまま、彼と別れた。『実はね…さっきの人ね… 立嶋くん』ふいに今日子さんに言われて僕は思わず飲んでいたアイスティーを噴きこぼし、持っていたハンカチで慌ててテーブルを拭いた。『確かに、立嶋と雰囲気似てましたね』と茶化すと、今日子さんは否定も肯定もせず、アイスコーヒーの中の氷を溶かすようにグラスをくるりと回した。『なんか、彼、私と一緒にいるの疲れたみたいなの』今日子さんの言う疲れたが、何故か憑かれたみたいなニュアンスで聞こえて僕は身震いした。どうやら彼女は僕にずっとこれを言う機会を窺っていたようで、とっくに別れたことはリキから聞いていたが、素知らぬ振りをした。それにしても先ほどの男性が立嶋なんて、とても笑えない悪い冗談だ。気がつくと、僕と今日子さんは同じバス停で並んでいた。今日子さんがふいに美術館に行こうと誘ってきた。印象派を代表する画家のひとり、クロード・モネの展覧会をしているらしく、どうしてもそれが見たいのだが、一人で行く勇気がないと言われた。僕はスマホでスケジュールを確認する振りをして、今日子さんの美術鑑賞に付き合うことを決めた。バス停で隣同士で並んで待っていると、今日子さんの指先が僕の指先に触れ、心臓の鼓動が一気に早まった。自分の心臓の音が今日子さんに聞こえていないか心配で、汗を拭いながら、さり気なく距離をとった。重ねた手が心臓になってしまったかのように、強く脈打ち、汗ばんでいた。バスが到着すると、僕は今日子さんに先に乗るように誘導し、後から続いて乗り込んだ。バスの中は運転手を除いて誰もいなかった。僕たちは一番後ろの座席に並んで腰掛けた。今日子さんは麦わら帽子を膝の上にのせて、僕の瞳をじっと見据えた。『ねえ?波多野くんってモテるでしょう?』肌をくっつけて隣に座る今日子さんに言われて僕は慌てて首を振り、緊張のあまり押し黙る。バスが段差で揺れるたびに今日子さんの抜けるように白い肌が僕の肌に触れてくる。今日子さんとの距離が近付けば近付くほど、僕の胸の奥底で切ないような焦るような気持ちがこみ上げてくる。視線は自然と今日子さんの唇に向けられていた。もう抗いようもなく、引き寄せられていくのを僕自身も止められなかった。気づくと僕の鼻と今日子さんの鼻先が触れ合い、次にバスが揺れだ瞬間には、お互いの唇が触れた。『あ…す、すみません…』僕は小声で、今日子さんに謝ると、今日子さんは、ううんと首を軽く振って瞳を閉じた。僕は心臓の鼓動を抑えながら今日子さんのふっくらとした唇を指でなぞる。もう一度自分の唇を今日子さんの唇に押し当て、唇で彼女の唇を押し開けた。今日子さんの緊張と速まる胸の鼓動が僕にもお互いの唇を通して伝わってきた。んん…互いの唾液が音を立てて、舌を伸ばすと、彼女の舌が柔らかく、優しく絡まってきた。…んっ…まるでお互いの舌が水蒸気になったようで頭がくらくらとしてきた。今日子さんは舌の先を僕の左右の内頬に押しつけるようにして、じっくりと舐る。僕はされるがままに懸命に今日子さんの舌に自分の舌先を絡めていく。僕が呼吸が苦しくなり、一度離れようとすると、今日子さんはそれを許さないかのように更に舌を絡めていく。ん…んん…僕のどんな些細な欠片も余すことなく飲み込む勢いで、ゆっくりと舌を僕の中に沈めてゆく。まるで身体の内側の側面を薄い布のようなもので擦られているような感覚に身じろぎしながらも快楽に溺れてゆく。んーー、んむむ…今日子さんが僕の中で深く舌を動かすたびに息があがり、身体の内部から唾液の湿った音が聴こえてくる。今日子さんは更に深く舌を押し入れて、僕の舌を吸い上げる。ふっくらとした唇から伝わる力強い弾力と、今日子さんの舌先の粘膜が、僕の中で丁寧に体温を吸い取ってゆく。一筋の糸のようにお互いの唾液が交差して、唇が離れた時には、想像以上に僕は疲れ切っていた。その後、今日子さんと美術館に行った時も自分がモネの何を見たのかも全く思い出せないほどに記憶が飛んでいて疲弊していた。自宅に戻るとベッドに倒れ込み、そのまま意識を失った。窓から燦々さんさんと降り注いだ光があまりにもまぶしく目が覚めて壁時計を見ると午前10時を回っていた。身を起こすと手にしたスマホがごとりとベッドの下にごとりと落ち、液晶画面にヒビが入ってしまった。枕の上には抜け毛が数え切れない程に散乱していて背筋が寒くなり、身体を支えていた力がするりと消えてベッドから床に転がり落ちた。弾かれたように身体を起こし、洗面所の鏡で自分の顔を確認すると、まるで10年後にタイムリープしたかのような自分の顔のあまりの老け具合に驚愕し、一人部屋で髪を掻き毟り発狂した。あああああああ両手で頭を抱え込み、跪く。テーブルに置かれていた昨日手渡された今日子さんの部屋の合い鍵を手にした瞬間に、脳の中がスパークしたように昨日のキスの瞬間がフラッシュバックした。舌が熱源を帯びたようにその粘膜が、僕の中で丁寧に体温を吸い取ってゆく。意識の向こう側に飛び散ってしまいそうな神経を、懸命に抑え込み、お互いに舌を絡め合う。彼女は私の舌を甘嚙みして舌全体を吸い取ってゆく。跳ね返されそうな強張りを感じながら、温かい彼女の中へと意識が入っていく。彼女の耳たぶ、美しく長いまつ毛、真っ直ぐで綺麗な髪、僕の指を撫でるように絡める優しい手つき…あたかも走馬灯のように去来する。酒より煙草よりドラッグよりセックスよりも甘美な味わいに酔いしれ暫し呆然とする。もしやあの壮年期の男性は立嶋で、今日子さんに舌を吸われ精気そのものを吸い取られたのかと詮無きことを考えてしまう。僕は親友のリキの忠告を意識が朦朧とする中で懸命に反芻はんすうする。それでも彼女に会いたい衝動と欲望は抑えられない。姿のない彼女を想像し、舌を転がし口の中を順繰りに確かめる。僕は僕自身を彼女の中に葬ることを決めたのだった。

          完

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