第5話贖罪

ノリオから個展の招待状が届いたと実家から連絡を受けたが、そのノリオというのが旧友の荻原おぎわらノリオというのを思い出すのにかなり時間を要した。

それというのも、中学を卒業以来、ノリオとは一度も会ってなく(正確には成人式でチラリと顔は見たが)かれこれ30年以上が経過していたからだ。

ノリオは足が悪く、義足であった。

その義足が調子悪いのか、いつも歩くたびにギィィギィィと耳障りな音をさせていた。

ノリオが足を悪くした原因は、私も関わっているみたいだが、真偽のほどはわからない。何故だか思い出せないし、ノリオもその件に関しては口をつぐんでしまっていた。

ただ私と友人の中山くんがこっぴどく担任に叱られたのだけは何となく覚えている。

ノリオと何故疎遠になったかというと、二度の高校受験の失敗で、すべり止めの定時制にも行かず、二浪してしまったからだ。

人づてに聞いて正直バカだなと思った。

大学じゃあるまいし、高校の受験で二年も無駄に費やしてどうするんだと鼻で笑っていた。

中山くんと私は、県内有数の難関高校に進学し、その後、中山くんは有名私立大学に進学し、卒業後アメリカのカリフォルニア州で弁護士をしていたが、二年ほど前に自殺したと、関西に住んでいる知人から聞いて驚いたものだった。

成功したものとばかり思っていたが、向こうの生活は彼の何かメンタルを圧迫していたのであろうか。

私も中山くんほど優秀ではないが、一浪し、国立大学へ進学した後に、県内の広告代理店に勤めてもう20年以上になる。

久しぶりに訪れた実家で、母親からノリオの個展の案内状を渡されて、「ほんま何回も携帯にかけてんのになかなか出えへんねんから」とチクリと嫌味も言われた。

久しぶりに聞く関西弁は、薄れていた望郷心を蘇らせてくれた。

「まあ無事で何より」

「ノリオくんのこと?」

「母さんだよ」

父親を亡くして、うちの母親はめっきり老け込んだ。

趣味の油絵もやめて、オペラも聴くことがなくなった。

正直、認知症が心配にはなったが、まだまだそんな年ではなさそうだ。

白髪は増えたが、肌はつやつやしていた。

「ノリオくん、色々紆余曲折あったみたいやけんけど、20代半ばで、藝大に合格して、そこから抽象画のアーティストとして本格的に活躍してるねんて」

母は、スマホを取り出して、ノリオのWikipediaを嬉しそうに見せてくれた。

私は、美術に疎いとはいえ、旧友がWikipediaに載るほどに活躍していることにひどく驚いた。

経歴には高校受験に失敗し、二浪したことと、藝大の受験に五度失敗したことが赤裸々に書かれていた。

美術学部の日本画科に学んでいたが、修士課程の修了制作が首席でなく次席であったために日本画家への道を断念したらしい。

平成22年にノリオ・オギワラとして、個展を開催、現代美術家としてデビューした。

経歴に、幼少の頃に事故で、片足が義足だということも書かれていた。

ノリオ・オギワラという名は耳にしたことがあったが、それがまさかあのノリオのことだとは露ほども思わなかった。

「あんたの世代じゃ一番の出世頭やな」

母は、さも自慢の息子のように嬉しそうにノリオのことを語った。

当時は、義足のノリオを馬鹿にして、あまり一緒に遊ぶなと叱咤したこともすっかり忘れてしまっているようだった。

母に見せてもらった案内状には「拝啓 紅葉の季節となりました。皆さまにおかれましては益々ご健勝のこととお喜び申し上げます」と当たり障りのない挨拶から始まっており、「ささやかながら地元で展覧会を開催する運びとなりました。お時間がありましたら是非ともお立ち寄りください」と書かれていた。

開催日時は二週間ほどで、場所はここから電車を二本ほど乗り継いだJRの駅そばのアトリエと書かれていた。

駐車場がないため、お車でのご来場はご遠慮くださいと書かれていたが、そばにタイムズくらいあるだろうと私は思い、母に実家に置いてある日産のマーチを借りていいか尋ねた。

「まったく、あんたは、クルマはご遠慮くださいって書いてあるのに……本当にそういうとこ横着というか……」

母はぶつくさ言いながらも私にクルマのキーを渡してくれた。

ベージュのチノパンのポケットにキーをしまい込み、母が差し出してくれた紅茶を一気に飲むと、立ち上がり、アトリエに行く準備をした。

「もう行くんかいな、ほんまにあんた、そういうところ愛想ない……」

後ろで不満をたれる母を後目に、私は玄関を出てすぐ横に停めてあるカーキ色のマーチに乗り込んだ。

カーナビにアトリエの住所を入力し、付近に駐車場がないかを調べてみると3件ほどヒットした。

霧のような雨が降っていて、ワイパーを使うと、ほとんど乗られていないであろうマーチはギィーギィーと嫌な音をさせた。

その瞬間、私はノリオの義足を思い起こし、片頭痛のような違和感を覚えた。

小学校三年生くらいのとき、ノリオと中山くんと私は同じクラスであったが、私はその中でも、あらゆる悪戯を考え出すガキ大将みたいな存在であった。

駄菓子屋に集団で入って万引きする、自動販売機の下から手を忍ばせて商品を奪う、公園に大きな落とし穴を作ってホームレスを落とす、しょっくんと呼ばれていた大きなカエルを捕まえて爆竹を仕掛ける、兵隊虫という昆虫を捕まえて肘の付け根で思い切り挟み込んで勝負したり、思いつく限りの悪さをした。

ノリオと私たちが遊んでいると、決まって母親は私のところへ耳打ちをしてきた。

「あの子は身体が不自由やねんから、なんかあったらあかんさかい気いつけなアカンで、なんかあったら皆の責任になるんやで」

母は、やたらとなんかあったらを連呼して、ノリオの方を気まずそうにチラリと見て去っていった。

「なんでノリオと遊んだらあかんの?」

私は母に聞き返した。

「遊んだらあかんゆうわけやないけど、なんかあったら責任とれんやろ?」

母は少しだけばつの悪そうな顔をして、私にそう言うと、そそくさと立ち去って行った。

ノリオは元来、勝気で、無頓着なところがあって、関西ではゲームなどでハンディをつけられる子供のことを「ごまめ」と呼んでいたが、そう呼ばれることを誰よりも嫌っていて、ハンディをつけられること自体に納得しなかった。

周りは面倒くさい奴と思っていたが、この人一倍負けず嫌いな性格が、当時義足で、足を引きずりながら歩く少年の悲壮感を無きものとしていた。

ただ、私はそんなノリオに気をつかって、缶蹴りや鬼ごっこ、名前呼び、高オニ、という走る系統の種目をやめて、彼と遊ぶときは、すごく神経をつかうようになってしまっていた。

大好きなサッカーすらも、ノリオがいれば止めておこうかと気が重い判断ばかりしていた。

ノリオがいなければサッカーができたのにと逆恨みまでしていた。

「かんしゃく玉の打ち合いやろうや」

当時、値段は忘れたが、駄菓子屋でかんしゃく玉というのが売られていて、8㎜くらいのサイズで、中身に火薬と小石が入っており、地面に叩きつけたり踏んだりすると「ぱん」と大きな音をたてて弾ける玩具があり、義足のノリオにもこれならハンディはないだろうと私は、パチンコを使用して、チームに分かれ、かんしゃく玉の打ち合いを提案した。

敵味方に分かれて、かんしゃく玉の打ち合いをしていたら、ノリオの放ったかんしゃく玉が私の頬に激突して、破裂してしまった。

「ぱん」という大きな音と共に、私は痛みで転げまわったが、放った張本人は、謝罪することなく、ただ茫然と私を見下ろしているだけであった。

皮膚はぺろりと剥がれてしまい、頬に10円玉サイズの染みができて、それは永久に無くなることはなかった。

別れた妻からも、当時、その顔の痣を手術で取り払ったらどうかと提案されたが、私自身は幼少時代の危険な遊びの戒めとして残しておきたかったので、やんわり断った。

離婚の際に、妻は「それのせいだけじゃないけど……」と暗に私の頬の痣を原因のひとつのように言い放ち、私を大変驚かせた。

当時、まるで自分に非はないといったノリオの態度に対し、業を煮やした中山くんが詰め寄っていったが、私は何故かそれを手で制した。

何か後ろめたさがあったのかも知れなかったが、この年になってもノリオが何故ケガをして、足が義足になったのかも未だに思い出せなく、中山くんに聞く勇気もなかった。ただノリオが足を押さえてうずくまる場面は、何度も夢に見た。

ノリオは義足になっても、本当に鼻っ柱が強く、身体の大きな下級生から、義足を馬鹿にされると容赦なく喧嘩に繰り出していた。

中学生時代も、よその地域から合流した連中にやはり義足を小馬鹿にされ、毎日喧嘩に明け暮れていて、しまいには担任から自宅待機を要請されるほどであった。

成人式でちらりと顔を見たときは、元気そうであったが、お互いに会話することはなかった。

アトリエの場所がだんだんと近づいてきて、私はカーナビに注意を払いつつ、運転に集中した。

普段は、マニュアルシフトのクルマを運転しているので、オートマのマーチは違和感があり、左手は無意識にギアを切り替えようとし、そのたびにオートマに乗っていると気づかされた。

やがて目的地のタイムズに着き、クルマを停めると、駐車料金を確認した。長時間過ごす気もないので、多少高くても気にはならなかった。

時間をかけて心臓の鼓動を整え、アトリエの方へと向かっていった。

Wikipediaに写真が載っていた為、もし会うことになれば一目瞭然だが、写真のノリオは昔の面影のままであった。

商業ビルの二階にあるアトリエに向かうと、アトリエの前に、大きく「ノリオ・ハギワラ個展2022」と記されていた。私は受付にいた若い女性にチケット代を払い、中へと入っていった。

フロアスペースは思ったより広く、100㎡ほどあった。作品数も30点ほど飾られていた。著名な作家だけあって、客足も途切れず、様々な年齢の観衆が、熱心にノリオの絵画に見入っていた。

色を使わないというか、白と黒しか用いない独特の手法は、さながら水墨画のようでもあった。注意深く眺めていると、ノリオの抽象画は、色を免れることで、逆に瀟洒しょうしゃで贅沢な雰囲気が漂っていた。

色を持ちうることなく大きなキャンバスに描かれたモノトーンの作品は、ピカソのゲルニカを彷彿させてくれた。

私は興味深く、ノリオの描いた絵画を一点一点眺めながら歩いていた。

一番奥に飾られてある「贖罪」というタイトルの絵が、私を引き寄せた。

その作品は、太陽にように強い生命力を感じさせた。

それは縦3メートルの横7メートルという大型キャンバスに描かれているのは、ブラックホールのような渦状態の中にさらに黒い穴のあいたドーナツのようなものに目を凝らして見ると、中にさらに極めて小さい絵が描かれていた。

随分と長い時間、私は身動きひとつせずにその絵を睨んでいた。

それは自分が呼吸をしているのを忘れるほどに夢中にさせられていた。

光を吸い込むブラックホールの如く、自我がこの禍々しい奇妙な球体のような絵に吸い寄せられるのを感じていた。

やがて一筋の涙が頬を伝わってくるのを感じ取った。

まるで私はこの絵に導かれ、この絵画の中の何かに召喚されているかのように精神が中にずるずると引きずり込まれていった。

「すまんかった……」

過去の自分とノリオが対峙していた。

「なんであやまるねん?」

「すまん、ほんまにすまん」

「だからなんであやまるんや」

幼少時代の色々な過去が頭の中を渦巻いていて、私はその絵から一歩も動くことは出来ず、ただ大粒の涙を流し続けた。

描かれたその渦の中からは、三人の子供が描かれていて、二人の子供が一人の子供を建物から突き落としている様子が描かれていた。

ふいに私は思いだしてしまったのだ。中山くんとノリオと私の三人で、小学校の体育館の裏の物置小屋に三人で登っていたことを……

当時、ノリオと私と中山くんの三人は運動神経がよく、女子たちからも人気があった。三人はいつも一緒にむちゃな遊びや悪戯をした。

よく行く秘密基地のような場所にあるそれは、バラックかプレハブ小屋のような小さな建物で、中に体育館用マットや、跳び箱などが仕舞われていた。

建物は、3メートルほどの高さで、度胸試しで飛ぼうと私が提案しているところだった。

じゃんけんで負けたノリオから挑戦することになっていたが、ノリオは気後れを感じていて、勝気な様子は薄れ、心はどこか怯んでいた。

私と中山くんはお互いに目配せし、建物の隅っこで足を震わせるノリオの背後に立ち、二人同時に背中を押した。

そうだ!私と中山くんが、ノリオの義足の原因を作ってしまったのだ……

ギィィィギィィィという金属の錆びたような耳障りな音とともに、コツコツと大理石調のフロアタイルを刻む音が反響した。

「思い出してくれたか?」

突然の野太い声に驚き、振り返ると、そこに画家のノリオ・オギワラがいた。

目の両脇にしわが寄り、年齢を感じさせたが、目は切れ長で奥二重、小柄な顔だちで、眉はくっきりと濃くて、鼻も適度に高い。髭を生やしている以外は、当時のノリオそのものであった。

「中山くんもな、二年前に僕の個展にきてくれたんやけんど、この絵をずっと見入っていたわ。これは僕の最高傑作やねん」

あの物置小屋から私たちに突き落とされたノリオは、骨が皮膚を突き破る大量出血を負い、切断することとなった。

「ノリオ……」

私はとめどなく流れる涙を拭こうともせず、ノリオの顔を凝視した。

「すまん……すまんかった……許してくれ」

私はノリオの義足に両手をついて心からの謝罪をした。

気づかなかったのではい……気づかないふりをしていたのだ。

「なんであやまるんや」

ノリオの手が私の手を握り、力任せに私の身体を引きずり上げた。

私とノリオは暫く言葉を失ったままだった。

私は何かを言おうとしたが、言葉がうまくまとまらなかった。

「ありがとう」

「え?」

「今日、僕の個展に来てくれてありがとう。ほんで思い出してくれてありがとう」

私は何も言えなかった。

私とノリオは暗くなっても帰ろうとしなかった。

それぞれの想いを抱えながら、キャンバスの前に座りこんだ。

「もうええよ。もうええ、すんだことや」

ノリオはそう言うと、立ち上がり、アトリエの閉館時間直前に立ち去って行った。

枯れる程の涙を流した私は、茫然と「贖罪」の前に佇んでいた。

数日後、私は首に縄を巻きつけて、自らがのっていた椅子を蹴り倒した。

ギィィイィィ ギィィイィィ

ノリオの義足のような音を奏でて、縄は私の首を容赦なく締めあげていった。


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