第3話諦めません、勝つまでは
「7……8……9……10」
レフェリーのテンカウントが両耳を通して、脳内に響き渡ったところで目が覚めて、ガバッと布団をめくり飛び起きた。
「ハア、ハア、ハア……」
ラストにもらったフィニッシュブローは左のクロスカウンターだった。
クモの巣を取っ払うように両腕を動かし、シャドーをしながら試合の光景を回想する。
「あそこで踏み込んでジャブをもらって、それからストレートももらった」
試合の残像を隙間なく脳から処理してノートに記録する。
「ハア、ハア、ハア、ハア」
手のひらは汗でぐっしょりと湿っていた。
朝のニュースではエンゼルスの大谷選手の四〇号ホームランが取り上げれていた。
かれこれこの映像を見るのも実に42回目だ。
重なるタイムリープの影響で、片頭痛と吐き気がおさまらない。
洗面所に向かい、思い切り吐き出すと、胃液と共に血も混じっていた。
身体の節々も激痛で、悪寒がひどく、熱ももっていた。
利田家は、元来、全員が過去にタイムリープできる能力を持っていた。
しかし、その一度のタイムリープの割合で、身体の負担が物凄く大きく、言葉では言い表すことの出来ないほどの苦痛、ダルさ、頭痛、目まい、アナフィラキシーショック、高熱、耐えがたいほどの筋肉や関節の痛み……一生拭いきれないほどの苦行が記憶に残る。
過去へのタイムリープが長かれば長いほど、身体への負担も大きく、従兄弟は、20年前にタイムリープをしようとして命を落とした。
元ボクサーの父親、
一度だけ5分前にタイムリープしたことのある背中全体に昇り龍の入れ墨をいれている叔父さんも
「タイムリープの痛みに比べりゃ、入れ墨なんて可愛いもんよ」
と言っていた。
そんな修行僧の荒行にも似たタイムリープを安人はすでに42回も行っている。
それは人類史上最強とも言われるWBA WBC WBOスーパーバンタム級王者に君臨するノウエ・ラサニ(28)に勝つためだけの事であった。
ノウエ・ラサニは、ベネズエラ出身で、日本の名門、東郷ジムに籍を置く輸入ボクサー 高校の頃より日本に留学し、インターハイ6冠達成後、オリンピックで2度の金メダルを獲り、その後プロ転向27戦27勝27KOと世界王者としては、史上ただ一人のパーフェクトレコードの持ち主で、「ミスター・パーフェクト」と呼ばれている。
対して、安人の成績はパッとしない。16戦して10勝4敗2引き分け だが、昨年度、東太平洋タイトルマッチに勝利し、今回ランキング8位に盛り込まれ、見事に挑戦者の権利を手に入れた。
ベルトの欲しさでこんな苦しいタイムリープを何度も何度もしているわけではない。
ただこの天性の身体能力を持つフィジカルギフテッドを一度でいいからマットに這いつくばらせたいだけだった。
このノウエ・ラサニを追い詰めるが如く、効率と確率だけを追い求め、分析ノートは300冊をゆうに超え、そこから導き出されるセオリーこそが絶対だと信じ、何度も何度もタイムリープを繰り返し日々を過ごしてきた。
そして自身のウィークポイント(弱さと欠点)の改善に本気で着手した。
改善するためには、とりあえず己を知るために書き出していくしかないと思い立ち、自分のウィークポイントでもある踏み込みの弱さ、ガードの甘さ、プロ意識の低さを大学ノートにひたすら書き出すと、認めたくない自分が次から次へと湧いてくるので、箇条書きにし、改善方法も同時に補えるように、書き足していった。
「短気」「スタミナ不足」「バランス不足」「キャリア不足」「ガードが低い」などなど、どんどん湧いてくるたびに改善に取り組んだ。
正直、タイムリープ3巡目くらいに勝てれば理想の範疇を描いていたが、6巡目くらいでようやく修復するのが限界で、勝ちには程遠く、早い回でのKO負けを防ぐことで手一杯であった。それほどの怪物である。
自分の限界をさらけ出しても、とても太刀打ちできそうもないほどの能力に、何度も挫けそうになったが、諦めの悪さこそが自分の持ち味であると認識した安人は、タイムリープを繰り返すたびに、今回こそは全てをさらけ出してやるくらいの気迫で臨み、試合後に自分の醜い部分を書き出して修正に励んだ。
勝つためには相手により近づき、相手の立場になる。
損得勘定が見えてしまうと相手を不快にさせてしまい、勝ちが遠のいてしまうと考えた安人は、自分が負けても、またこいつと試合がしたいと思えるほどに、このタイトル戦にのめり込んだ。
「あいつにだけは負けたくない」と思った瞬間に負けていると判断した。
最初のタイムリープの頃は、それこそそれだけしか考えていなかった。
強くなるとか上手くなるとか大前提を重視せず、それこそ勝つためならば反則スレスレの裏拳のようなパンチも繰り出し、レフェリーの死角から肘を突き上げたりもした。
結局、小手先の技術論、目先の勝ち負けのこだわりは、余計に勝ちから遠のき、場当たり的なテクニックの駆使は、自分の技術すらも衰えさせていった。
時には驚くような奇襲も仕掛けた。ゴングと同時に飛び出して、大きく飛び上がり、まるで飛び膝蹴りでも繰り出すような姿勢から、パンチの速射砲を連打した。
しかし、ノウエはそれすらも冷静に対応し、しっかりとガードで固めた後に、おかえしとばかりに、それ以上に重く速いジャブの速射砲を返され、マットに沈んだ。
このタイムリープを繰り返している行為は、心身を悩ませ、苦しめ、煩悩に心を奪われていく自分への戒めの行為でもあった。
思えばボクシングのみならず、日常も選択と決断の連続の日々である。
「迷ったときは前へ出る」
苦しくとも面倒であっても、失敗体験を繰り返しながら成長をしていく。
安人は、それだけを糧にし、まるで太平洋戦争で広大な戦力のアメリカに挑む当時の日本人のように、この巨大な要塞に竹槍一つで特攻を繰り返す三等兵そのものであった。
しかし、一度のタイムリープで疲労困憊になり、最低でも一週間は身体をまともに動かすことは出来なかった。
まして、この期間は減量も視野に入れなければならず、体調不良の上での減量苦と、相手の探究での三重苦が身体を蝕んでいた。
寝転がりながら大学ノートに傾向と対策を書き続け、そしてそれを読むことを繰り返した。
何度も何度も頭の中で試合を想定をする。
ノウエの弾幕のような高速ジャブを徹底にガードし、前に距離を詰めていく。
自分の間合いに詰めたら、果敢に打ち合いを挑む。
いくらか被弾をもらうが、それも想定内だ。
最終目標は、シンプルに自分の渾身の一撃をカウンターで当てる。
それまでにノウエのスタミナを、鉛筆削りの如く、削って削って芯を細くしてゆく。
KOを一度もしたことがないが、最終ラウンドまで勝負したことのないノウエのスタミナは正直あるのか定かでないが、そこに全てを賭けたい。
削りに削った鉛筆の芯の先を最後にポキリとへし折る。
安人は、そこまでイメージして試合に臨んでいた。
寝転がっていても、全身を針で突かれているような痛みは無くならない。
吹き出る汗を拭い、起き上がりグラスに水を注いで、ゆっくり飲む。
あまりの痛さに、水分が喉を通過したのかすらも分からない。
寝転がっているだけで汗が吹き出るほどに全身に痛みがあった。
身体中に汗疹のような湿疹が浮かび上がり、かきむしりたくなるほどの痒みに襲われた。
安人は、過去にも高校のインターハイのバンタム級決勝戦で、ノウエ・ラサニと当たり、初の失神KO負けをした悔しさから、初めてタイムリープを試みた。
その時も、あまりの倦怠感と激痛で、自分で何故こんなことをしたのかと激しく後悔した。そしてその後のリターンマッチもタイムリープが全く活かされず、あっさりと敗退した。
もう今後タイムリープなどすることはないだろうと心に誓っていたが、まさか今回42回もタイムリープすることになるとは夢にも思わなかった。
安人はプロに転向してからも、倒すか倒されるかという荒いボクシングスタイルで、勝つ試合に至っては、ほとんどが豪快なノックアウト勝利だが、負けるときは、打ち負けてのKO負けがほとんどであった。
アパートで激痛と戦い、寝転びながら、ノウエの試合を思い出し、気力を振り絞るようにノートに記入していく。
ピンポンと玄関のチャイムが鳴った。
「入るよ」
トレーナー兼プロボクサーである弟の利田
「兄さん、またタイムリープしたのかよ」
庵は、やつれて頬骨が出て、目の下がくぼみ、青い顔をした安人を見て、差し入れを放り投げて、そばに近寄ってきた。
「あ…ああ…」
「何回目だよ?」
カレンダーに記されている正正正正正正正正丁を安人はチラリと見た。
「42……今回で、42回目か?」
もはや自分でも回数が理解出来ていなかった。
「死ぬ気かよ?」
「俺の人生だ」
「なんでそこまで? わけわかんねーよ」
一度もタイムリープを経験したことのない臆病者の庵に、安人の気持ちなど分かるはずもない。
「今、身体中がすげえ痛いんだけどな……、気分はすげえ良いんだよ」
「え?」
「ゲホッゲホッ」
安人は咳込むと、血の混ざった痰を吐いた。
タイムリープを繰り返して以来、身体を焼かれるような痛みとの格闘が休みなく続いていた。
「これほどの犠牲を負ってまで試合に臨む意味が分かんないよ」
庵は、安人の背中をさすりながら、ハンカチを口元に差し出した。
「元より分かってもらおうとは思わん」
「前回は、何ラウンドで負けたのさ?」
「7ラウンド2分31秒 ワンツーからのアッパーカットでノックアウト負け」
庵は買ってきたポカリスエットをコップに注ぎながらため息をついた。
「だんだんとラウンドが伸びてきている。俺にとっても吉兆でもある」
安人にとっての究極のブロー 力の入れ具合と抜け具合、スピード、タイミング、全てが絡み合ったカウンターが入れば必ずノウエに勝てる。
亡き父親である 利田杏寿郎は、世界タイトルマッチに、三度タイムリープし、三度目にKO勝ちをして、チャンピオンベルトを腰に巻いた瞬間に、心不全で亡くなった。
安人は今、この年になって、ようやく父親の気持ちを理解した。
(自分に勝つために生きてきたんだよな……)
「兄さん、今回限りにした方がいい、それ以上は身体がもたないよ」
「分かっている。今回限りだ」
安人も感じ取っていた身体の違和感、もう一度タイムリープする余裕など微塵もない。
今回こそ、生きた拳をぶつけてノウエをリングの上に横たわらせて見せる。
何千、何万とサンドバッグを叩いた思いのたけ全てをこの拳にのせて奇跡を生んでやる。
試合前日、安人にとって実に42度目となる調印式と記者会見が行われた。
マスコミからも「高校時代のライバル対決再び」という煽り文句の質問がなされる。
安人はうんざりした表情で、「彼に初のKO負けを味合わせます」と宣言して、お互いにファイティングポーズを作り、記念撮影を終えて、会場を後にした。
ラサニのそばにいる老獪な日系人トレーナー ランディ・ヤスオカ(67)は記者会見の間、終始安人の表情を伺っていた。
「兄さん、減量もうまくいったし、何か美味いものでも食べにいくかい?」
庵は屈託のない表情で笑みを浮かべて言った。
会場である日本武道館の長い階段を降りているとき、ふいに黒いフードをかぶった男が近づいてきた。
「コレイジョウ コノシアイ ヲ フカオイスルナ」
黒フードの男は、唐突に安人に体当たりしてきた。
ザクッザクザクザクッ
安人の脇腹から強烈な痛みが襲いかかってきた。
「兄さん!」
刺された……安人は薄れゆく意識の中で、逃げた男が血のついた刃物を持っているのを確認した。
「奴は…… ノウエ……ラサニだ……」
安人は庵に抱かれたまま気力を振り絞って声を出した後、そのまま目を閉じた。
目が覚めると、霊安室のような薄暗く、殺風景でベッドしかない部屋で、安人は横たわっていた。そばには何故かノウエ・ラサニのトレーナーであるランディ・ヤスオカがいた。
「気がついたかね?」
ランディはまだ茫然としたままの安人に声をかけた。
「俺はいったい?」
安人は脇腹に手を当てると、刺されたはずの傷すらも無くなっていることに気づいた。
「ここは天国でも地獄でもない。君も私も生きている。ノウエは、死んでしまったがね」
ヤスオカの衝撃的な発言に、安人は目を剝いた。
「ノウエが死んだ?何故?」
慌てふためく安人を他所に、ランディは何故かこうなることが分かっていたかのように落ち着いていた。
「ちなみに、この場所は、君とノウエが試合をする一カ月前にあたる。我々のトレーニングルームの一室だ。ノウエは最後の気力を振り絞り、ここにタイムリープした」
タイムリープ?ノウエが? 安人は、ランディの言葉にも頭の中が整理できなかった。
「少し難しい話をしよう。君はパラレルワールドというのはご存じかね?」
安人はランディの言葉に首を傾げた。
「パラレルワールドというのは多元宇宙のことだ。個人の知覚できる宇宙はたった一つであるが、実は他にも並行して無限の宇宙があり、その世界は絶えず分裂し、増殖しているのだ。選択の余地あるごとに可能性の数だけ終始分裂を繰り返す世界をパラレルワールドという」
安人はランディが何を言っているのかまるで理解できなかった。
「タイムリープできる君ら家系ならば分かるはずだ。何度か訪れた転機に過ちを犯すことなく正しい決断を持って今に至るわけではあるまい」
安人は、ランディが自分たちの家系の秘密を知っていることに驚きを隠せなかった。
「先にそれに気づいたのは、ノウエだった。ラサニ家も数少ないタイムリープできる家系であったのだ」
「何だって?」
安人は軋むような身体中の痛みを我慢して、ベッドから跳ねるように起き上がった。
「ノウエは、ここ日本に留学してからタイムリープを繰り返した。当然身体の負担も知ってのうえだ。スポーツ留学生は、結果が伴わないと、退学にされてしまうし、母国への仕送りも無くなってしまう」
安人は茫然とした表情で、ランディを眺めていた。
「ノウエのタイムリープは、そういう意味で必然であったのかも知れん。奴のボクシング能力は飛びぬけた才はあったが、ムラもあり、負けることも少なからず何度かあった」
ランディは、ポケットに入れていたウイスキーの小瓶を取り出し、グイっと喉に流し込んだ。
「負けるたびに己を分析し、自分の身体を酷使しながらも、何度も何度もタイムリープを繰り返した。そして君との試合が決まったとき、私はその試合を回避するように何度もノウエを説得した」
ランディはウイスキーをポケットにしまい込み、うつむいた。
「そしてこの試合は、お互いの我慢比べとなった。君が負けてタイムリープするように、ノウエも自身が負けるとタイムリープを繰り返した」
安人は目を疑った。俺がノウエに勝った?そんな記憶は全くない。
「それもまたパラレルワールドにおける別世界の話だ。君がノウエに勝った記憶もノウエの更なるタイムリープにより記憶から抹消される」
「君がノウエを倒して世界チャンピオンになったという真説も別な世界では存在したということだ」
そんなバカな…… 安人は夢物語のような話に、思わず口を覆った。
「タイムリープを繰り返しすぎて、精神状態が異常になったノウエは、君を鋭利な刃物で刺し、その過ちから逃れるように最後のタイムリープをした。
ランディから見せられた携帯画面のニュースには、ノウエが練習中に心不全で倒れて亡くなったという記事が一面で取り上げられていた。
そんな…… ありえない…… あのノウエが……
安人はショックのあまり気が狂いそうだった。腐りそうで発狂しそうだった。
突然ドアがガチャリと開いて、振り向くと、弟の庵が青ざめた表情で突っ伏していた。
「兄さん……」
庵は、羽織っていたアウターを脱ぎ捨て、その下のTシャツも脱ぎ捨てた。
その下から現れた庵の裸はボロボロに蝕まれていた。
それは、タイムリープを繰り返した者にしか分からない湿疹のような痛々しい傷跡だった。
「兄さんがノウエに負けて、その分の42回ものタイムリープを全て兄さんが負担していたわけじゃない」
「何だと?」
「僕だって、勝手に能力を使って、試合の一ヶ月前に戻る行為に加担していたんだ」
「お前、なんてことを……」
「兄さん、もうこの能力を捨てよう」
「え?」
「全てを捨てて、全てを忘れて、日常の世界を取り戻そう」
庵はただ泣いていた。安人の目にも涙が流れていた。
庵は、ポケットから拳銃を取り出すと、その銃口を安人に向けた。
「よ……よせー!!!」
安人は庵に叫び、飛びかかったが、それより先に銃口から弾頭が発射され、安人の頭を貫いた。
安人はその瞬間に絶命した。
庵は、そのまま自分のこめかみに銃口を押し当てた。
「無理なんだ…… この能力があると知る限り、何事もなくやり直すのは無理なんだ」
庵はそのまま引き金を引いた。
一人取り残されたランディはただ一人呆然と立ち尽くして溜息をついた。
「呪われた家系に生まれた宿命とも言えよう…… 私だってこんな能力があれば使用せずにはいられまい」
ランディはそう言い残すと、部屋に血塗れで倒れる二人を置き去りにして、この場から立ち去って行った。
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