第2話乗っ取る男

茶道の名家である千家せんのけの十五代目家元の長男として生まれたせんの義太夫ぎだゆうは、生まれつき無気力な怠け者で、賭博に風俗通いに飲酒が好きなろくでなしの道楽者であった。

次期家元として稽古をつけようとしていた十五代目家元もすっかり匙を投げてしまい、義弟である智治を常日頃から茶道の心得を修練し、粗野な義太夫に対しては、無視を決め込んでいた。

名家の威光を盾にして居直る義太夫の素行の悪さに、親族たちは頭を抱えていたが、当の本人は、どこ吹く風とゴロゴロと惰眠を貪っていた。

義太夫は、顔立ちの良い智治とは正反対で、髪が薄くなり禿げあがった額に、ヒラメのように離れたギョロリとした目に、潰れたように低い鼻に、分厚い唇とオコゼのような醜い男であった。

ろくに稽古をしない知ったかぶりで、権威を振り回す義太夫に対して、家元はいよいよ強制的に勘当してやろうかと腹に据えていた。

義太夫は、その日も所在なさをやり過ごすかのように、仰向けになり、うつらうつらとまどろみの中、天井のシミを眺めていた。

すると、ふわりと自分の身体が宙に浮いたような気がして、不思議に思い、目をしばたたくと、床に寝転がり、力なく口を開けて、目も開いたまま死後硬直のように固まっている自分を宙の上から眺めた。

義太夫は、即座に自分は死んだのだと認識した。苦痛の表情でなく、あっさり死ねたことが救いだと思った。

元よりこんな世知辛い世の中になんの未練もなかった。

自然と早く死ねたらいいという願いが今ようやく叶ったのだった。

義太夫の魂は、ふわりふわりと宙を浮かんで、開いたままの襖から出て行った。

(俺はいったいどうなるのだろう?このまま天国に行くことになるのか?)

とあらぬ想像をしていたら、大広間の方から、何やらひそひそと話し声が聞こえるので、障子の隙間から忍び込んでみると、父と義弟の智治が何やら話し込んでいた。

「次の千家の家元は、智治に任命しようと思っている」

父親の言葉に、義太夫は耳を疑った。眼前の二人には、義太夫の魂は見えていないようであった。

「まあ、義太夫兄さんは、千家の一員でありながら、礼儀作法に通じていなく、慇懃無礼で、ふてぶてしい、なによりあの醜い顔では、次期家元は務まりますまい」

義弟である智治のあまりの物言いに、義太夫は鳩が豆鉄砲を食ったような表情になり、茫然と見据えた。

「千家の全財産もお前に譲るように、遺言状に作成してあるが故、他の親族からも反対の意見は出ることはなかろう」

実の父である十五代目家元はほくそ笑んだ。

「元よりあんな奴に一円たりとも資産相続なんかさせたくないからな」

淡々と述べる父親に対し、義太夫の怒りは頂点に達したが、魂のままでは、二人を殴ることも蹴ることもできずに、どうすることもできず、地団駄を踏んでいた。

せめて一発だけでも殴りたいと、智治に近づいた瞬間に、智治の開いた口から、義太夫の魂が吸い寄せられた。

気がつくと眼前に、正座して茶を飲んでいる父親がいた。

自分の身体が智治の身体に代わったことに気づいた義太夫は、自分の魂が、智治の魂に干渉し、乗っ取ることが出来たのだと瞬時に悟った。

義太夫は、拳をグーパーグーパーと握ったり開いたりし、この身体をコントロールできるのか試してみた。

「どうした?智治」

一連の行動に不信に思った父親が尋ねた。

「どうしたもこうしたもねえんだよ。このクソ親父が」

智治の姿で声も出せることが確認した義太夫は、目の前で茫然としている父親に対し、立ち上がりお茶をぶっかけた。

「何をする!」

智治から突然お茶をかけられ、父はただ狼狽していた。

「うるせえんだよ。クソ親父が!」

義太夫は、智治の身体のまま、何度も何度も父に蹴りをいれた。

義太夫は、智治の身体を使って、大暴れした。父を半殺しにし、屋敷を破壊しつくし、止めに入った弟子たちも半殺しにした。

義太夫はその後、智治の口から離脱し、魂の状態になり、宙に浮いた。

智治は駆け付けた警官たちに取り押さえられていたが、何が何やら皆目見当もつかない表情を浮かべていた。

(やってやったぜ! ざまあみろ!)

義太夫は、その後、宙をさまよいながら、自身の開いた口の中に飛び込み、意識を取り戻した。

「義太夫さま!」

義太夫は、突然部屋に飛び込んできた女中に対し「何事か?」としらを切った。

女中より智治の突然の乱心により、父親と弟子たちが重体で、病院に担ぎ込まれたと説明を受けた。

義太夫は、女中の前では気の毒な表情を浮かべたが、姿を消すと同時に腹の底から笑った。

そしてこの能力を得られたことを心の底から喜んだ。

そして義太夫は、この能力をフル活用した。

街中で色んな人の身体を乗っ取っては、盛大に悪さを働いた。

若者の身体を使ってテロ行為のようなこともした。

大富豪の身体を乗っ取り、色んなことに散財して遊びまわった。

義太夫は、父の身体を乗っ取り、病室で全財産を義太夫に譲るという遺言書を書かせた。

義太夫は完全に自分の時代がきたと浮かれ回っていた。

ただし、この乗っ取り作業にはある欠点があった。

それは、一度憑依した肉体には二度と憑依できないことであった。

原因は、恐らく一度乗っ取られた魂には抗体が出来てしまっているのではないかという結論に至った。

ある日、義太夫は人の身体を乗っ取り、街中を歩いていたときに、この世のものとは思えないほどの絶世の美女を見かけた。

切れ長の瞳に、長いまつ毛、整った鼻筋、綺麗な輪郭、抜群のスタイル。まるでスーパーモデルのような容姿に、義太夫はひとめぼれをした。

義太夫は、その美女の身体を乗っ取り、服を脱ぎ、その裸を眺めて悦に浸っていた。

そしてそのヌード写真を数えきれないほど何枚も自身のスマートフォンに収めて、眺めて楽しんだ。

しかし、それだけでは全然満たされず、義太夫は、この美女を一度だけでいいから抱きたいと心から願った。

やがてその美女には付き合っている男がいることも判明した。

自身が告白したところで、こんな醜男が上手くいくはずないと見限っていた義太夫は、密かに男の身体を乗っ取ることを考えていた。

義太夫は、美女の身体をまさぐりむしゃぶりつき女が朽ち果てるまで何度も何度も昇天し、心の底から味わい尽くすことを夢想していた。

義太夫の魂が、美女の部屋で浮遊していたときに、玄関のチャイムが鳴って、男が入ってきた。

この男が、美女の彼氏であろうと踏んだ義太夫は、男のもとへと急いだ。

その瞬間、義太夫は自分の目を疑った。

目の前にいた男は、義弟の智治だった。

智治は留置所から釈放されたらしく、美女と抱き合い、喜びを分かち合った。

義太夫は、その光景を見て、猛烈に嫉妬した。

怒りに狂う義太夫は、誰か見知らぬ女の身体を乗っ取り、ここを修羅場に変えてやろうと目論んだ。

その瞬間に突然、智治の携帯が鳴り響き、電話に出た智治は驚きの表情を浮かべた。

「どうしたの?」

智治の青ざめた表情に美女は尋ねた。

「義太夫兄さんが亡くなったらしい。突然死だと……」

智治の返答に義太夫は、心臓が飛び出すかと思うほどに驚いた。

(何を馬鹿な? 俺はここにいるぞ!)

家族の誰かが、義太夫の魂の抜け殻を死体と勘違いしたに違いない。

義太夫は慌てて屋敷に戻っていった。

屋敷の中では、女中がめそめそ泣く声が聞えた。広間で、義太夫の抜け殻が、棺に入れられ仰向けにされていた。

(これはいかん!)

義太夫が開いた口から身体に侵入した際に、口と鼻と耳に綿を詰め込まれ、棺をパタンと閉められた。

目は開いたが、棺の狭さに義太夫は身動きできなかった。

(ぐっ…… おい! 俺は生きているぞ! やい! ここから出しやがれ!)

義太夫は精一杯暴れて抵抗しようとするも、棺が狭く、義太夫の大きな身体が押しつぶされるような恰好になり、鼻と口と耳に綿を詰められ、外に出ることすらできなかった。

やがて外側から、僧侶の読経が聴こえてきた。

(いやだ……いやだいやだいやだ! 誰か気づいてくれ! 誰かああ!)

義太夫は腹の底から叫んではみたが、何しろ綿を詰められた状態では、ぐうぐうとした微かな異音が出るだけで、棺の外にはまるで何も聞こえなかった。

やがて僧侶の読経が終わり、棺はそのままどこかに運ばれようとしていた。

(待て! どこへ行く気だ! 俺はまだ生きているのだ! さっさと棺を開けろ!)

ガタンゴトンと音を立てて、どこか冷房の効いた場所に、義太夫の棺は運び込まれた。

(おい……まさか……)

義太夫は背中に嫌な汗を感じ取っていた。

次の瞬間、義太夫の身体の周りに、真っ黒い炎の火柱と、猛烈な熱気が襲いかかってきた。

(ぐわあああああぁぁぁぁ 熱いいいい 熱いいいいい ぐあわわわあああああ)

炎は容赦なく義太夫の身体を焼き尽くしていった。

(あづいぃぃいぃぃ ぎゃああああああ あづいあづいあづい 誰か助けてえええええええ ぐわああああああ)

義太夫は断末魔のような叫び声をあげたが、炎は衰えることなく、義太夫の身体を包み込んだ。

義太夫の人体から、急激に水分が無くなっていき、皮膚からは全身を突き刺すような痛みを感じていた。

(痛い痛い痛いいいいいいい 熱い熱いあづいいいいい ぎゃああああああ)

右腕の皮膚が焼けただれ、骨まで見えてきていた。

義太夫の全身が炎に包まれ、呼吸することすらも覚束おぼつかなくなっていた。

(がああああああああああ ああああああああああ ぐわああああああ)

焼いた石を裸に押し当てられたような熱気、吐き気や冷や汗、呼吸困難の中で、義太夫の意識は徐々に薄れていった。

開いた目には、自分の身体で焼けて出来た灰が飛び込んできた。声帯も焼けついて声も出なくなっていた。

義太夫の目から光が失われて真っ暗な世界に閉じ込められた瞬間に、彼は息絶えて微かな骨だけが残されたのだった。

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